たどりついた親子
雨のにおいが濃い。こんな日は、海の生き物たちの一部が陸に上がり、空気中を泳ぎだす。
廃墟と化したある街に入ったばかりの地点で、目当ての場所へはもうすぐというところまで来て、探査者のシズカは、アオボシクラゲの群れに囲まれてしまった。
曇り空の下、もう人も獣も影すらない街の成れの果て、天も地も灰色に塗りつぶされたような景色のあちこちで、風船のような傘とレースのような触手が青く光って、まるでネオンのようだった。
「……やだなあ……」
つぶやきながら、シズカは、武器として愛用している長棒をしっかり握りしめた。
アオボシクラゲという生き物は、べつに人間を捕食しているわけではないし、積極的に襲ってくるわけでもない。
ただ、それなりに毒性が強いうえ、出現するときの数が多すぎる。目的地はもう数百メートル先、目に見える範囲まで来ているが、そこへ至るまでの道筋はクラゲだらけだ。あたり一面崩れ落ちた街の残骸だらけ、まともに足の踏み場が残るルートはわずかで、目的地へたどり着くには、クラゲをかきわけて進むしかない。
不用意に近づくもの、触れるものには、青く光る触手の毒が待ちかまえている。それは衣服をいため、じかに触れれば皮膚はひどくただれ、痛みは数日引かない。
しばらく、人が暮らす場所に戻ることはできない。アオボシクラゲの毒を受けても、すぐ死に至ることはそうないが、行動に支障をきたすような傷を負うことは避けたかった。
「先に進むしかないから、ね」
それは独り言ではない。シズカは顔だけ後ろに向け、背負ったものを軽くゆすり上げた。
「ちょっと我慢してね、チビさん」
背中の赤ん坊は、すやすやと寝息をたてている。シズカは軽く微笑すると、赤ん坊を包む毛布をその小さな頭の上まで引き上げ、すっぽり隠した。
大きな荷運び袋の肩かけ紐をよくよく縮めて、防水ブーツのベルトの具合を確かめる。そして、シズカは駆けだした。
走る勢いを利用しながら、行く手をはばむクラゲ一匹一匹に棒を振りかぶる。棒が弾力のある傘に当たり、吹っ飛ばしていく。ボールのように打たれたクラゲは、すぐ近くの建物の残骸にぶつかってぐんにゃりした。
クラゲ打ちをくり返し、シズカは着実に進路をきりひらいた。途中、目を覚ました赤ん坊が背中で泣き声を上げはじめたが、シズカは立ち止まらなかった。ただし後方にも神経を集中させて、自分たちに触手が届く範囲に、決してクラゲを近づかせない。
目的地までもう数十メートル、「××地下商店街」と書かれた屋根がなかば倒壊しながら残っているのが見え、地下へ続く階段が見えた。
最短ルート上をたゆたうクラゲたちをおしわけながらそこまで駆け抜けたとき、目の前までせまった屋根の残骸の陰からまた一匹、アオボシクラゲが飛びだしてきた。
こういうことがあるから、どんなにむし暑くても、探査には長袖が必須だ。ふいに現れた触手を避けきれず、シズカの袖の布地に穴があいたが、幸運にも、その刺胞が皮膚にまで届くことはなかった。シズカは渾身の力をこめて、その最後の一匹を打ちとばした。
クラゲたちは、どういうわけか、地下街の階段までは入りこんでいない。シズカは迷いなく階段を駆けおりた。下に何か厄介な海の生き物がいたって、そのときは、そのときだ。シズカはそんな姿勢で探査者をやっている。
そうして生き残ってこられたのだから、たぶん間違いはないのだ。きっと、この先も。
崩れかけた階段を注意深く、かつできる限りの速度で駆けおりて、シズカは地下街に降り立った。
照明も何もかもが廃れた地下街の中は真っ暗だ。入り口から差しこむ光は、シズカのいる場所から数メートル先までしか照らさない。シズカはポケットから太陽電池式の懐中電灯をとり出し、電源を入れた。
あちこち照らしてみると、広い通路をはさんで、飲食店にブティック、土産屋といったさまざまな店の跡が、ずっと向こうまで立ち並んでいるのがわかった。
シズカはあたりに気を配り、耳を澄ましながら、まずは泣いている赤ん坊をゆっくりあやせる場所を探しはじめた。
十年前の世界的な大洪水の日以来、陸上の生物は人間を含め激減し、海は広がり、湖や沼が増え、水の中にいた生物の一部は、湿度が高い日には空気中を泳ぐようになった。
そういった生き物たちはたいてい、陸上の生物の天敵となる。陸の生き物たちは、空気に湿ったにおいを感じたら、外界と隔てられた空間を確保して閉じこもる。人もそれ以外も、そうしてきたものが生き残っている。
生き残った人々は、残された安全地帯や技術を守り、身を寄せ合い、助け合って暮らしている。
シズカが生活の拠点としていた「サト」に、傷つき、病みやつれた一人の女性がたどり着いたのは、六月半ばのことだった。
見慣れない男の探査者に背負われてきた女性は、西から来たと語った。女性自身がどれだけぼろぼろになっても、必死の思いで抱きかかえてきたらしい赤ん坊は、無傷で健康そのものだった。
「西にある……西にあったサトで暮らしていたのですが……ヤリザメの群れに襲われて、滅びました。あのサトの住民だった者は、もうわたしとこの子しか残っておりません」
そして、わたしも、と言いかける女性を、介抱していた者たちはあわてて制止した。だが、一目見ればわかることだった。怪我の状態や身体の様子を見れば、もう、助かる見込みがない。
女性の体調を気づかいながら、ぽつぽつと会話をしていると、しだいに、女性は心を開いてきた様子で、赤ん坊のことばかり口にするようになった。
「どうか、この子をお願いします。養育に必要な物資のあてもあります。西のサトの近くに、みんなで隠していた物資の貯蔵場所があるんです」
そう言って、女性は、赤ん坊の産着の中から、地図を二枚、取りだしてみせた。
「ここに、あります」
地図を受け取ったのはシズカだった。このサトの中で行くとしたら、唯一の探査者であるシズカしかいない。
「ここに行けば、赤ちゃんを育てるための物資がそろってるんですね」
「ええ。食糧もあるんです! もう、それを使うはずだった西のサトの人間は誰一人残っていませんから、このサトのみなさんで使ってください」
ただ、と、女性はそこで、突然、怖いほど鋭いまなざしになった。
「物資を貯蔵する場所の扉を開けるには、この子が必要です」
「どういうことです?」
「出てくる前に、貯蔵場所の開扉条件を変更して、この子の手形認証で入り口が開くようにしてきました」
女性は苦しそうに微笑んだ。
「物資だけ持っていかれて、赤ちゃんが見捨てられるようなことがないように……」
そこまで話をして、女性は目を閉じてしまった。眠ってしまったらしい。いったん、シズカは、サトのリーダーのソウジと話し合うために、女性のそばを離れた。
「どうする、シズカ。赤ん坊を見捨てたくはないが、サトには他にも乳児がいる。いま、赤ん坊に必要な物資の量は、夏を越えるにはぎりぎりだ。どこかの施設跡へ収集に行くにしろ、生産力のあるサトに仕入れに行くにしろ……」
「うん、もう梅雨に入ってしまったから……この湿気の中、この地図の場所にたどり着くだけでも相当リスクがあるのに、ましてや赤ん坊まで連れていかなきゃならないなんて。だけどこのままじゃ、サトの赤ちゃんも含めて全員が生きのびるのは難しい」
「そのとおりだ。北の大型ショッピングモール跡で使えそうなものは、もう収集しつくしたか? まだあそこのほうが近いだろ」
「まだいくらかは残ってるはず。状態のいいものが多くて、春の探査では運びきれなかったの。でも、あの地域はだめだよ。梅雨が明けるまでは、ヒメシャチの繁殖地になってるから」
そうか、とソウジは顔をくもらせた。
このあたりの地方では、敏腕の探査者でも、夏場はサトを離れて遠くまで出歩かない。梅雨が明け、台風の時季が過ぎるころまで、春にたくわえた物資に頼って、サトに潜伏するのが通例だ。
湿度が高い日が続くと、多くの海の生き物が陸に上がる。危険な生き物と人間が遭遇する確率も高くなる。
シズカとソウジが黙りこんだとき、「おれがついてってやろうか」と、女性を連れてきた男探査者が声をかけてきた。