おかえりなさい -真相編-
これは、あくまで私が考える真相編です。
しかし、『おかえりなさい』の真相は、これひとつではないと私は思っています。
前作『おかえりなさい』には様々な謎が含まれています。
読む人がその謎と向き合い、考え、それぞれに真相を導き出して頂けたなら、それこそが『おかえりなさい』の真実であると私は思います。
ただ、『おかえりなさい』が難解だという方々がいらっしゃるのも事実です。
今回は、そういった声を受けて真相編を書かせて頂きました。
分類はホラーですが、前作以上に怖くはありません。
それでも宜しければどうぞ♪
読まれる方々に、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
「そろそろおかえり頂きましょう。あなたの還るべき場所へ」
封じ込められた一枚の札の中、私は澄んだ心持ちでその声を聞いていた。
もう一月も前になる。
私は、氷川神社の巫女・澪の手により封印を施されたのだ。
その封印は強力なもので、私の動きは完全に封じられてしまっていた。
しかし、不自由さは特に感じなかった。
むしろ、自由に動き回れていた頃の方が不自由であったかもしれない。
自分がどこの誰かもわからず、誰にも気づいてもらえず、不安定なままに彷徨い続けていた頃よりも、今の状況はずっと晴れやかなものであった。
身動きはとれないが、この一月の間に心はどんどん浄化されていくようで……私は、ついに本当の自分を取り戻すことができたのである。
私は、かつて、江戸に栄えた日乃屋という呉服屋の番頭であった。
番頭としての仕事はなかなか忙しく、女将さんと丁稚やら使用人やらの間に挟まれて、私は身も心も疲れ果てていた。
年を越したばかりのある日、女将さんから氷川神社のお守りを頂いてくるよう命じられた。
まったく……。女将さんも女将さんだ。
そういう仕事ならば、私でなくとも、丁稚にでもやらせたらいいものを。
しかし、その日は、丁稚はみな出払っており、他の使用人にも仕事があったので、やむなく私が行ってくることとなったのだ。
氷川神社とは、地元でも有名な霊場である。
そこの神主が祈祷して作り上げた護符は、金運、夫婦円満、商売繁盛など、どんな符でも本当にご利益があるのだと評判であった。
しかし、私はそういう迷信などは信じてはいない。
ご利益があるというが、本当のところ、みな神主が目当てなのだ。
氷川神社の神主は背丈が高く、男前で物腰も柔らかい。歌舞伎座などにいるような色男であった。
実際、氷川神社は女どもに評判がいい。
「女将さんも、本当は自分で来たかったのだろうな」
そう呟きながら、私は頼まれていた護符を手に取った。
「商売繁盛の護符ですね?」
澄んだ声が聞こえてきた。それは、まるで春風でも吹いたかのような心地よさである。
顔を上げると、巫女が微笑みかけている。その美しさに、私はしばし目を奪われてしまっていた。
「あの……」
困ったように首を傾げる巫女を前に、はたと我に返る。
「あ……はい。商売繁盛の護符を一枚……」
「かしこまりました」
巫女が札を包んでくれている間に、私は何の気もなしに言った。
「ここの護符は、みな霊験あらたかだと聞いています」
「そう言って頂けるのは、本当にありがたいことでございます」
「護符は、すべて神主がご祈祷を?」
「ほとんどはそうです。ただ、こちらの護符は、私がご祈祷させて頂いております」
そう言って巫女が指し示したのは、恋愛成就の札であった。
「本日は、ようこそのお参りでした」
巫女が包み終えた札を差し出す。それを受け取りながら、私はほぼ無意識のうちに、もう一枚札を取ると巫女に渡した。
「これも……頼む」
「はい。恋愛成就の御札ですね」
巫女は、別々に包まれた札を差し出しながら、再び微笑んだ。それは、まるで、花が綻ぶかのように美しい笑顔だった。
「あの……」
「はい?」
「……名を」
「え……?」
「名を、教えてくれますか」
「私の、ですか?」
私は無言で頷いた。
すると、その巫女は、桃色に色づいた形のよい唇を開くと、
「澪、と申します」
そう答えたのであった。
そんなことがあって以来、私は、頻繁に氷川神社の鳥居を潜るようになった。
護符も、もう何枚買ったかわからない。恋愛成就の札だけで、半年余りの間に三十枚は買っていた。
ここまでくれば、護符などはただの口実で、本当の目的は他にあることに誰もが気づいたことだろう。
――そう。それは、お澪にとってもそうであったに違いない。
霊験あらたかと評判の護符の効果か否かはわからない。
しかし、私は、晴れてお澪と夫婦となることができた。
そして、氷川神社に婿として入ったのだ。
私は、澪とともに氷川神社を継ぐつもりでいた。それは、義父である神主も認めてくれている。
だが、私は番頭だ。すぐに店を辞められるはずなどない。辞める目途がつくまではと、私はそれまで以上に懸命に働いた。
――そんなある日だった……。
お澪と夫婦になって三月が経った頃。
その日、私は仕事に追われ、夜遅くまで店に残っていた。
「これは……今日は、もう帰れそうにないな」
そう呟きながらも帳簿に向かう。帳簿と照らし合わせながら算盤を弾いた。その日の売り上げを計算していたのだ。
その時、ふと微かな物音を聞いた気がした。
私は、算盤を弾く手を止め、顔を上げた。
……何も聞こえない。
気のせいかと思い、再び帳簿に目を落とす。
そして、私は、反射的に身構え、その場に立ち上がった。
今、確かに音がした……。
金属の触れる音。
木のぶつかり合う音。
いずれも、門の方角から聞こえてくる。
――錠前が外された……。押し入りか……っ。
すぐさま旦那様と女将さんの寝所へと駆ける。
しかし、その途中、賊に見つかってしまった。
私は、声を上げる間もなく、賊の一人に袈裟懸けに斬られ……呆気なく果てたのであった。
澪と結婚できた幸福の境地から、突如不幸の底へと叩き落とされた私は、どうしても死というものを受け入れることができなかった。
それからの私は、氷川神社の一角に棲みつき、ずっと澪を見つめ続けた。
これは、今にして思えば、氷川神社と澪に取り憑いていたということなのだろう。
だが、あの頃の私には、そんなつもりはまったくなかった。
ただ、愛する澪の傍にいたかった。……澪に、気づいて欲しかったのだ。
それから月日は流れ、気がつけば、神主も、澪も、私の前から姿を消していた。
代わりに、澪に似た子が現れた。
氷川神社の様子も、どことなく、少し変わったような気がした。
――あれから、二百年もの間、私は彷徨い続けていたのだな。
封印を施され、冷静になることで、さまざまなことを思い出した。
唐突に命を失ったことで、私は、死を受け入れるだけの心の準備ができていなかったのだ。
また、澪への想いが執着となり、あの世への旅立ちを妨げていたのである。
澪がいる間、もしくは、澪に似た娘がいた時には自分というものを保てた。
しかし、人はそう長くは生きない。
澪がいない間は、どうしたらよいかわからなかった。
私は何をするべきなのか、私とは何なのか……知りようがなかったのだ。
不安に駆られた私は、ある時、道行く男に話しかけた。
もちろん、男は私の存在になど気づかない。
しかし、それが、私の不安をさらに煽り立てた。
私は、思わず男に掴みかかった。
すると、すうっと、私の体が男の体と重なり合ってしまった。
驚いたのはほんの一瞬だけのこと。私はどういうわけか、その男の体が、もともと自分のものであったような錯覚を起こしたのである。
しばらくの間、その男の人生を自分のものとして生きていた。しかし、次第に何かが違うという気がしてくる。
そんな中、とぼとぼと歩いてくる男が目に留まった。そちらに興味をそそられた瞬間、その男の人生こそが次なる私の人生となった。
そんなことを繰り返すたびに、都合のよいように私の記憶の改ざんも繰り返されていった。
そして――澪が生まれた。
氷川神社の一人娘として生まれた澪は、かつての妻の姿を彷彿とさせた。
澪……。最愛の私の妻。
澪が好む男とは、どんな男だろうか。澪を守れる男とは、一体どんな男だろう……。
そう考えるたびに、私は無意識にも、別の誰かの人生に取り憑いてしまっていたのだ。
そして、その人物になりきり、本当にその人生を生きているつもりになっていた。
そこまで思い返した時、温かい光が私を包み込んだ。
私の意識が、外へ、外へと、追い出されていく。
封印が解かれ、札から出されたのだ。
その時の私には、もう迷いはなかった。
澪が、私に微笑みかけている。
私は、澪と神主に見守られながら、天上への階段を上っていったのだった。
「澪。もしかしたら、お前はあの人と……本当に夫婦だったのかもしれないね」
神主である父の言葉に、澪は首を傾げた。
「……どういうこと?」
「うん。少し気になってね、家系図を調べたんだ。この氷川神社がいつからあるかは知っているだろう?」
「ええ。今から二百年以上前……江戸時代からよね?」
「そうだ。そして、初代神主の娘の名が澪と記されている」
澪は、俄かに言葉を失くした。
「お前と同じ名だ」
「……偶然、でしょう?」
「そうかもしれない。けれどな、少し思い出したことがある。母さんはな、お前が腹に宿った時に、生まれてくる子の名は澪だと言ったんだよ。夢で、女の子にそう言われたらしい」
「夢で……女の子に……?」
「もしかしたら、その女の子はお前だったのかもしれないな」
「それじゃあ、お父さんは、私が初代神主の娘の生まれ変わりかもって……そう思っているというの?」
「さあ、どうだろうな。もしかしたら、というだけの話だ」
「……」
「だが、もしそうなら、お前が生まれてきた目的とは何なのだろうな。澪という名で、再び氷川神社の巫女として生まれてきた目的は」
父の言葉を聞きながら、澪はしばし俯き、そしてじっくりと考える。
「もしも、私があの人の奥さんだったなら……放っておけないと思うわ。いつまでも彷徨い続けているあの人を、なんとか引っ張ってきたいって、そう思うと思う」
考えた末にそう答えると、父は微笑んで言った。
「そうだな。今回のお前を見て、私もそう思った。……澪。よい仕事をしたな」
澪は顔を上げると、澄み渡る青空を見上げた。そして、呟くように言う。
「私があなたを放っておけないと思ったのは、そういう事情があったからなのかしら」
ふと、風が吹いた。澪が微笑む。
「もしもそうだとしたなら、私の目的は果たせたわよね。今度は、あなたがそちらで待っていて。そして、次は一緒に生まれてきましょう。今度こそ、おじいさん、おばあさんになるまで、ずっと一緒にいましょうね」
澪がそう言うと、それに答えるかのように柔らかい風が吹く。そして、そっと澪の頬を撫でると、そのまま空高く吹き抜けていったのだった。