Daily work: sequeL
「来ないでっ! 来ないでよおっ!」
土まみれの服の上から、ぼろぼろになったコートを羽織った少女が、必死に木の枝を振り回している。彼女の後ろには、少女と似たような出で立ちの童女が、怯えた表情で震えている。頭髪や目鼻立ちの共通点から、彼女たちは、姉妹であることがうかがえた。
少女が枝を向ける先には鈍色の甲冑があった。ただ、それは人間のかたちをしていない。
直径が大人一人の身長はあろうかという球と、その球に貼りついた小さな頭。
頭部から伸びる長大な八本の脚。
姉妹の前に鈍色の甲冑は、そんな蜘蛛と呼びうる生物を原形とする異形だった。つるつるとした頭部に眼はなく、その身体には、蜘蛛にあるべき節はなかった。
唯一、頭部に奔った亀裂が、赤く染まっていて、そこからは、子供たちの着ているコートと同じ意匠の布切れが垂れていた。
蜘蛛が一歩進むたびに、子供たちは数歩ずつ後退する。そのたびに鈍色と鈍色が擦れて、二人を嘲笑うかのように耳障りな音を立てていた。
自分たちが弄ばれていると、少女たちは理解していた。
数分前、あの甲冑は、目にも止まらぬ速さで、悲鳴を上げさせることもなく、彼女たちの同行者を噛み殺したのだから。
唐突に、少女たちが自分の足元へと目を向けた。彼女たちは木陰に足を踏み入れていた。彼女たちのすぐ後ろには、巨大樹の幹が、壁のようにそびえ立っている。
もとより、彼女たちの足では、目の前の異形から逃げ切ることなど適わない。
ゆえに、二人がとれる選択肢は、一つしかなかった。残されているのは、役割を割り振ることだけだ。
枝を持った、姉らしき少女が一歩を踏み出した。
彼女は妹の方を振り返ると、口角を上げて、笑ってみせようとする。だが、緊張しきった筋肉は、少女が望んだ表情をつくることを妨げた。
少女は、蜘蛛を睨みつけながら、木の枝をぎゅっと握りしめた。
せめて、喰われるときに、口の中に枝を刺すくらいはしてやろう。
あの子が逃げる時間をすこしでも稼いでやろう。
そんなふうに覚悟を決めて、少女は全身に力を込めた。妹が走り出すと同時に、蜘蛛に飛びかかろうというのだ。
だが、それが仇となった。
二人が同時に動いた瞬間、、蜘蛛は、少女ではなく妹の方へと跳躍した。
あまりにも力んでいたせいか、少女の反応は遅れた。もはや、その身を童女と異形の間に滑り込ませることすら適わない。否、たとえ間に合ったところで、少女と異形の体格差では、吹き飛ばされて終わりだろう。
悲鳴にすらならない短い息が、少女の口から漏れる。
数秒後の未来、自分の妹が、吹き飛ばされる未来を幻視する。
だが、吹き飛ばされたのは、蜘蛛の方だった。
蜘蛛は、なにかに身体の右側を殴りつけられたかのように、童女も少女もいない方向へと、ごろごろ転がっていく。
そして、蜘蛛を追い打つように、ここではないどこかからの一撃が、一つ、また一つと叩き込まれていった。蜘蛛の鎧には、見る間にひびが広がっていく。そして、甲殻を貫通して脳天へと送り込まれた一撃の後、蜘蛛は痙攣して動かなくなった。
◆ ◆ ◆
姉妹が抱き合って泣きだしたことをスコープ越しに確認した後、青年は、ぽつりと独り言ちる。彼は、先ほど狼を狙撃した廃墟とは別の廃墟に陣取って、銃を構えていたが、そこにも、やはり青年以外の姿はなかった。
「終わったよ。新しい弾の効果も上々だ」
『いえいえ。仕事はここからですよ』
その時、青年の耳元から、軽やかな声がこぼれる。声質は少女のもので、そこには、どこか青年をからかっているような調子があった。
「道案内とかか?」
不満げな口ぶりで返す青年の言葉は、声の主に向けられていた。
『道案内なんて器用なこと、先輩にはできないでしょう。いざというときに、護ってあげるくらいで構いません』
「十分に面倒だろ、それ」
『大丈夫です。私が先輩に無理をさせたことなんて、一度でもありましたか?』
「よく言うよ」
これ以上、付きあってはいられないとでも言いたげな、緩慢な返事を口にしてから、ゆっくりとスコープに目を近づけて、青年は世界を覗きこんだ。