Pre-Preparation
『あのお姫様、アッシュさんが逃げる時間を稼いでくれているのでしょうね』
そんな声を聞き流しながら、青年は木々の合間を走り続ける。そして、延々と続く戦闘音が聞こえなくなるほどに二人から離れたところで、青年は唐突に足を止めた。
そこには、先端から地面までを蔦や葉に覆われた四角錐とでも言うべき、奇妙な形をした木がそびえ立っていた。木の上部には、皿のような白い花がいくつか顔を覗かせている。そんな木に歩み寄る青年は、そのまま緑を掻き分けて進んでいった。
彼の眼前に現れたのは幹ではなく、白銀の柱だった。その周囲には、同じような四本の支柱が立っている。つまるところ、植物に偽装された人工の搭というのが、この木の正体だった。
青年は、中心の柱に備え付けられた階段を一段飛ばしで上っていく。彼が目指しているのは搭の上部にある足場のようだった。広い足場の一角には布に覆われた何かが鎮座している。
階段を上りきり、足場に飛び込んだ青年が、布をめくる。その下から出てきたのは、鈍く光る長銃と小箱だった。ただし、その銃には、銃弾を供給するための機構がなかった。さらに、銃身の後方に当たる部分が通常の銃に比べてかなり太くなっており、そこには小さな杯のようなパーツが取り付けられていた。
奇怪な銃の傍らに腰を下ろした青年は、分厚い手袋をはめると、銃の隣にあった小箱を開いて、中に詰められた小瓶のうちの一本を取り出す。一見すると、ただの木製の小箱にしか見えないその箱の中からは、冷気がこぼれており、小瓶の表面には温度差で結露が生じていた。
小瓶の蓋を開いた青年は、その中身を杯の中へ注いでいく。それは、真紅の液体だった。小瓶一本分の中身を注ぎ込まれた後、さらに靴の裏についていた土が一掴み、盃に放り込まれる。
仕上げに、青年が杯のようなパーツを螺子を閉めるように回すと、直後、ごくりという小さな音が杯の内側から響き。さらに数秒後、かしゃんという音が同じ場所から響いた。
「準備できた。距離は?」
『八番だと有効射程ぎりぎりです。方向は……』
「もう見つけた」
足場にうつ伏せになった青年は、ゴブレットと呼ばれた銃のスコープを覗きこんでいた。そして、彼は数秒もしないうちに標的を捕捉する。
『ううん、手がかからなすぎて寂しいですねー。今回は当てる必要もありませんし』
「――当てるよ。そっちの方が確実だ」
『まあ、そこはお任せしますが、しくじらないでくださいよ?』
必中を宣言した青年の声に気負いはない。淡々とした声だった。
そして、彼は引き金に指をかける。
◆ ◆ ◆
すでに三桁に届こうとする交錯を経て、眼前の女剣士――ティアナ・ティーユが自分と撃ち合えているのは、決して剣技にはよるものではないと、イザルは直観していた。
たとえ、世界一の名剣をふるったとしても、彼女の一突きの威力は、イザルの殴打の一割にすら届かないだろう。それにもかかわらず、華奢な少女は、偉丈夫と互角に撃ち合っている。
いや、互角以上といってよいだろう。彼女は、イザルの拳に正面から突剣をぶつけているが、彼女は、それ以上のことをしていた。
殴打にしろ蹴りにしろ、身体動作に基盤を持つ戦闘技術には、攻撃を当てるべきタイミングというものが存在する。そして、その瞬間に力を込めるというのが、基本中の基本だ。ずっと力を込めていては、動作が遅くなり、攻撃の威力は減衰し、同時に隙が生まれてしまう。
しかし、イザルは、この相対がはじまって以来、その基本をしくじりつづけていた。より正確に言えば、ティアナによって、しくじるように仕向けられていた。
間合いをずらすという技術そのものは、別に特別な技術ではない。その程度の技術、樹海の外ならともかく、廃都の住人であれば、近接戦を旨とする者だって修得している。問題は、その技術を、お互いが全速力で攻撃を繰り出し合っている最中に。使っていることだ。
一撃ごとに間合いを調整しているのであれば、絶対に間に合わない。斬るという選択肢を選ばずに、突きを主体に立ち回っているのであればなおさらだ。
その上、彼女の得物が柔軟な身体ではなく金属製の突剣であることは、一つ一つの動作の調整を、さらに困難なものにさせる。廃都の深層にならば、時間と空間をごまかして事を成す怪物もいようが、見たところ、ティアナがそのような異能を行使した様子はなかった。
すなわち、イザルに相対する剣士は、一撃でも当たれば即死という暴力の嵐を前にして、次に、その次に、さらにその次に、どのような経路で、どのような攻撃が繰り出されるのかを読み切り、全身の動きを調整しつづけているとしか考えられなかった。
拳士は結論を下した。この剣士は、間違いなく自分より強いと。
その瞬間、長い長い撃ち合いから、ティアナは舌打ちとともに撤退した。
「……何よ、思ってたよりは器用じゃない」
「貴様に言われても、皮肉にしか聞こえん」
「そのつもりで言ったのだけど」
イザルは、ティアナの暴言に口角を上げながら、天を墜とさんとばかりに高々と上がっていた自分の右脚を下ろした。
「拳がどうこう言ってたわりに、蹴りを使うのはどうかと思うのだけど」
「笑止。我が信仰は、身体に捧げられしものであればこそ、拳にのみ向けられたものではない。主として拳を振るうのは、それが信仰を証立てる最善の手段であるためだ」
「話が回りくどい」
「他人に教えを説くつもりはないのでな。私が目指すは、我が肉体が最強であることを証立てることのみである」
「その割には、さっきは弱っちそうなやつにずいぶんとご執心だったみたいだけど?」
「信仰を穢されて黙っていられるものか」
その返答に対して、ティアナは付きあいきれないとばかりに嘆息する。
「ま、いいか。キリもいいしね」
そう言って、剣士は突剣を鞘に納める。
「……何のつもりだ」
「見れば分かるでしょ。戦いは終わりよ。元々、私があなたと戦う理由なんてないもの」
「貴様、まさか」
「――さようなら。しばらくは廃都に潜るから、探しても無駄よ」
悪戯めいた笑みを浮かべて、少女は後ずさる。逃がさんとばかりに、構えを取るイザル。
二人の戦いは、新たな局面を迎えようとしていた。
舞台の脇に立ち続ける、端役の青年が放った一撃によって。
「んっ?」
「むう」
二人が反応したのは、ほとんど同時だった。
彼らの視線の先にあるのは、一発の弾丸だ。
ティアナの目は、それが薄く真紅に色づいているのを見逃さなかった。その瞬間、この弾丸は危険だと、彼女は直観する。
しかし、弾丸に狙われている当の本人――イザルは、初撃を凌いだように、弾丸を正面から叩き落とすことを選んだ。なんせ、樹海の緑の中で、その弾丸の真紅はずいぶんと目立っていたし、弾速は最初の狙撃よりも遅かった。ゆえに、振るわれた拳は必中。
手甲と弾丸が接触した瞬間、紅い弾丸は潰れ、その中身を周囲に撒き散らした。
「……これは」
「馬鹿! 今のは避けときなさいよ!」
険しい表情をつくりながら、身体と武具を汚した赤い液体を見ているイザルを、ティアナは怒鳴りつける。
――今の一撃は、あの青年が放ったものに間違いない。彼は、自分たちが狙撃程度で傷つけられるような存在ではないことを、思い知っているはずだ。それにもかかわらず、よりにもよって、初撃より視認しやすく、遅い弾丸を使うなど、罠だとしか考えられない。
ティアナは、そのように理屈を後付けしながら、イザルから距離をとる。彼の身体に付着した液体からは、不気味なほどに芳醇な香りが立ち上っていた。
さらに、わずかに遅れてやってきた数発の弾丸が、同じような液体を周辺の木や地面にぶちまける。ティアナは、液体の飛沫をバックラーで防いでみせるが、ほどなくして、彼女の盾からも、芳香が立ちあがりはじめる。そこでようやく、女剣士は飛来した弾丸の正体を悟った。
「あの男、このような汚物を撒き散らすなど……」
「ここから離れなさい! 嵌められた!」
「騒ぐほどのものでもあるまい」
「……これ、獣寄せの類よ。しかも、もう臭いがついちゃってる」
そう言った少女の声には、明らかな焦燥がにじんでいた。