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「……弾かれた」
銃口のはるか先で起きた理不尽を前に、青年は、憎憎しげな声を上げた。
「お前、あいつらに声をかけてないだろうな」
『まさか。私と言葉を交わすのは、先輩の特権ですよ』
黒い頭髪を無造作に縛り、廃屋の一角で横たわっている青年の手元には黒く塗りつぶされた長銃が置かれている。その銃身は、今しがたの発砲のために、わずかに熱を帯びていた。
彼が狙ったのは、筋骨隆々とした上半身を曝した偉丈夫だった。偉丈夫のすぐ隣では、刺突用の片手剣を構えた金髪の少女がつまらなそうな顔で立っていた。両者に共通しているのは、青年のいる方向に、刺すような視線を向けていることだ。
『あ、言うまでもないと思いますけど、はやく移動してくださいね?』
「ああ」
そう言った青年は、辟易した顔で、銃弾を放ったのとは反対の方向へ走り出した。
そして、廃屋の窓だったらしき場所に足をかけると、躊躇なく外へと飛び出した。そして、地上五階の高さから、彼は降下を開始する。彼が頼りにしているのは、廃屋のすぐそばにそびえ立つ大樹から垂れている蔓だった。人間一人の体重を支えながら、その蔓に千切れる様子はなかった。
数十秒もかけずに、瓦礫の山の上に降り立つと、彼は一目散に走りだした。そして、彼が廃屋から十分な距離をとったところで、廃屋を中心とする大気が揺らぐ。次いで、廃屋の青年がさっきまで横たわっていたあたりが、まるで砲弾でも撃ち込まれたかのように削り取られた。
「話が違うぞ。相手があんなやつだなんて、聞いてない」
『いやあ、予想外でしたね。とにかく、あの様子だと、一桁台を出してもいいですかね。八番に向かってください』
青年と会話しているのは、女の声だった。ただし、その声の主の姿は見当たらない。崩落をはじめた廃墟を尻目に走るのは、青年一人だ。
『さて、一撃で決着をつけ損ねた先輩のために、レクチャーをしましょう』
あくまで丁寧な口調は崩さずに、しかし、明らかな挑発を行う声に対して、青年はわずかに眉をひそめるだけで答えなかった。廃屋の周囲に広がっているのは、樹海といっていいような森であり、余計なことに神経を使う余裕など、今の彼にはなかった。
『あの筋肉馬鹿、もとい拳士は、イザル・ゴーディルといいます。自分より強い人を見つけては、決闘を挑む傍迷惑な男です』
「名前なんて覚えてられない。要点だけ話せ」
『さては、会話を楽しむ気がありませんね?』
「ないよ、そんなもの」
銃弾を弾かれたときよりも不機嫌さを増した声が、姿のない声の主に投げかけられる。ころころとした笑い声で不満をいなしてから、声の主は青年曰く、要点とずれた講釈を続けた。
『今までは、彼が探索から持ち帰る利益があったので見逃してきたんです。しかし、彼よりも廃都の役に立っている人間にまで手を出しはじめたので、今回の処置が決まったんです』
「待て。それじゃあ、あの筋肉達磨はまだ……」
青年は、後方を確認した後、走るペースを緩める。彼は、少女との会話にようやく志向したようだった。もっとも、彼の口調に見え隠れするのは、会話を楽しむという目的ではなく、抗議の色だった。
『遅かれ早かれですよ。ただ、あの筋肉達磨、鼻が利くというか、勘がいいというか。絶対に勝てる人を送り込むと、逃げ出してしまうんですよ。というわけで、オーギュスト傘下でも最弱の先輩に白羽の矢が立ったわけですね』
「……騙したな」
『考えずに承諾した先輩の責任ですよ。あ、五時の方向から、さっきのがきます』
直後、土で汚れることも厭わず、青年は草むらの中に身を投げ込む。そして青年が地面に伏せて十秒ほど経ったところで、周囲の草木が、削り取られるように吹き飛ばされていった。
「姿を見せるがいい! 武を競い合う決闘に介入するなぞ、万死に値する。我が信仰を穢した報い、その命によって払わせてやろう!」
青年が飛び込んだ草むらから離れたところでは、イザル・ゴーディルが、樹海中に響く大声で、そう叫んでいた。彼の姿勢は、半身に構え、両足を肩幅に開き、左拳を脇の下まで引き、右拳を突き出したものだった。そして、砕かれた廃墟、吹き飛ばされた樹木、抉り取られた地面といった破壊の痕跡は、彼の右拳を基点としていた。
「……砲台か何かか」
『ある意味ではそうですね。遠当てのオバケみたいなものみたいです』
「間違いだよ、それ。あれが人を転ばせる技法なもんか」
他人事めいた口調で話す声に対して文句を垂れながらも、青年は移動を再開する。立ち上がった青年を認めたのか、遠くから巨体に似合わぬ俊敏さで、拳士イザルは走り出した。
『見つかりましたよー』
「分かり切ったことを言ってないで、指示を出せ馬鹿」
近くの森の中に走り込みつつ、青年が悪態をつく。だが、それに対する反応は、ひどく芝居がかった嘆息だった。
『足りてませんね』
「……? 何が?」
『私に対する敬意が足りてません』
それを聞き、青年は何も言わずに目を細めた。彼は走る速度を上げる。無視以外の何物でもなかった。
青年は、相手の拳によって薙ぎ払われた空間から抜け出して、再び木々の合間を風のように駆け抜けていく。そして、ずいぶんと長い沈黙が挟まれた後、
『無視しないでくださいよお……』
先ほどまでの溌剌とした調子とは対照的な、ねっとりとした声が青年の聴覚に絡みつく。
「気が滅入るから、その話し方はやめろ」
『遊びがないって言われませんか?』
青年の要求を承諾して、女声はからりとしたものにもどった。一方で、青年の顔には、しわが刻まれている。
「両手で数え切れないくらいは言われた。お前に言われた記憶しかないけど」
『おお。私の言ったことをちゃんと覚えているとは感心感心。気分がよくなったところでアドバイスです。上から剣士が来ます。敵意はないかと』
「了解」
短い返事をしてから、青年は外套のフードをかぶりながら急停止する。その直後、青年からすこし離れた場所に、先ほどイザルと相対していた剣士が飛び下りてきた。
「誰よ、あなた」
どこか高貴な雰囲気をまとった金髪碧眼の少女の話し方は、ひどくぶっきらぼうなものでありながら、どこか高貴な印象を聞き手にあたえるものだった。
運動の邪魔にならない程度の短いスカートから伸びる、すらりとした脚。佩刀した突剣と、左手に構えたバックラー。動きの邪魔にならない程度の最低限の防具は、軽装備とすら言えないようなものだ。
『ティアナ・ティーユ、見ての通り剣士です。さっきの筋肉達磨に比べると、会話が成立するという点で、人間味がありますかね』
青年は、女声を聞き流しながら、沈黙を保っている。彼は、手のひらを拳士の方に晒すようにして、その両手を頭の横に上げることで、敵意の不在を表明していた。
「何よ、黙りこくっちゃって。別に、命をとったりはしないわよ。さっきから、あんたを追いかけてる筋肉達磨じゃあるまいし」
「……すまない。あんたに追い詰められている現状が、理解できない。一応、さっきはあんたを助けたつもりだったんだけど」
青年は、申し訳なさを欠片も感じさせない平坦な口調でそう言う。ティアナは、青年の言葉を聞いて、じろりと彼を睨みつけた。
「嘘ね。助けるだけなら、頭を狙う必要はない。あなたはあの男を殺そうとしたのよ」
少女の言葉は、正鵠を射ていた。それを受け、青年の身体はわずかに緊張する。
目の前の剣士は、遠方から撃ち込まれた弾丸を目視したあげく、その軌道まで見切っていたと表明したのだ。一部の誇張も感じさせないような、少女の軽やかな口調は、彼女の言葉が真実であることを示唆していた。
「……何か、問題があるかな?」
「大アリよ。人殺しはいけないことだもの」
『ほら、人間っぽい』
眼前のティアナの台詞と、それに続く女声に青年は挟み撃ちにされる。そして、少女は、発言から間髪入れずに、すらりとした突剣を鞘から抜いていた。
「そう言うなら、武器をしまってくれ」
「あなたの目は、逃げてるやつの目じゃないわ。放っておいたら、あなたはイザルを殺しかねない」
「あのなあ……」
青年が何かを言い返そうとしたとき、二人のいる場所が、わずかに暗くなる。もともと、この樹海はたいして明るくないが、それにしたって、今のように急に暗くなることはない。
二人がゆっくりと上を見上げる。彼らの頭上では、二人の身長を足し合わせても届くかどうか怪しいくらいの巨漢が、怒りと喜びを同居させたような表情を浮かべて、木漏れ日を遮っていた。
「少年少女よ。誅罰と決闘は、いずれも重要なものだ。同時に済ますことなど、あってはならない。ゆえに、順番を決めなければならないのだ。そこで、意見を聞かせてほしい。どちらから、我が武に身を捧げるのかを」
人間にあるまじき巨体、薄汚れた金髪と髭に埋まった鋭い眼光、晒された傷だらけの上半身、鈍く輝く手甲。そのような拳士の出で立ちは、肉食の猛獣を思わせる。
「私が先で構わないわよ。元々、決闘を始めようとしてたわけだし、こいつも、あなたには適わないって、よく分かったでしょうから」
女剣士は、イザルから目を離すことなく、言い聞かせるようにそう告げる。彼女が言葉を結ぶ前に、青年は、自分が説得されていることに勘付いた。手を退けと、あるいは、逃げ出せと、ティアナは言っているのだ。
「分かった。その順番でいい」
『賛成です。お姫様に時間を稼いでもらっている間に、八番まで急いでください』
「うむ。話がまとまったようで何よりだ。では、再開しようか」
「ええ。かかってきなさい」
ティアナがそう言い終わった後、拳士の右腕がわずかに動いた。
次いで、ティアナが突剣を後ろに投げ捨てる。
そして、青年は、ティアナに腕を掴まれる。
そのまま、後方へ跳躍した彼女に引き連れられて、青年の身体もイザルから離れていく。
最後に、拳士の拳が、ティアナの居た場所と、青年の居た場所を、順番に通り過ぎた。
彼の拳は、勢いそのままに、近くにあった大樹に激突する。そして、殴られた木の幹に、殴られた部分から亀裂が走っていく。ほどなくして、彼が殴りつけた大樹が、ぐらりと傾きはじめ、亀裂の部分からぼきりと折れ、倒れてしまった。
「これで分かったでしょ。あなたと、あの筋肉達磨や私とじゃあ、勝負にならないわ」
「……知ってる」
剣を拾い、飛び退いたことで乱れた姿勢を立て直しながら、相手から視線を外さないまま、剣士は青年に怒鳴るように話しかける。一方、それに応答する青年は、一歩間違えれば死んでいたという状況にもかかわらず、妙に落ち着き払った様子でいた。
『先輩は貧弱ですからねえ。真っ向から戦えるなら、狙撃なんてしないで済みますものねえ』
そして、剣士には聞こえない声を聞いたところで、青年はようやく顔をしかめた。それを認めた少女は、拳士から目を逸らして、青年の身体の状態をすばやく検める。
「どうしたの? いきなり辛そうな顔をして。まさか、怪我でもしたんじゃ……」
「何でもない。ただの心労だ」
そう言って青年は、少女の突剣を拾い上げ、彼女に渡した。青年の言葉に首を傾げたまま、得物を受け取った彼女は、慌てて、イザルの方へ視線を戻す。
「ふむ。順に済ますことはかなわなかったか」
「言うじゃない。当たったら確実に命を奪えると思ってるなんて、気に入らないわ」
「細枝のごとき剣を携えねば戦えぬ者の身体が、我が拳に耐えうるとでも?」
「野蛮ね。不器用な人間の負け惜しみかしら」
「愚か者。刺し、穿ち、斬り、抉り、破り、裂き、潰し、砕き、射抜き、殴る。拳一つでもこれだけの行為が可能だ。本来、人の身体とはそれ自体で、幾千、幾万の行為を実現しうる至高の得物。凡百の武技なぞ、所詮は鍛錬を断念した者が行き着く形にすぎん」
「まあ、部分的には認めましょう。さっきの遠当ては、たしかに誰かさんの狙撃を越えて――――あれ、彼は?」
ティアナが疑問を口にする。一瞬即発といった様子の拳士と剣士が言葉を掛け合っている隙に、青年は姿をくらましていた。
「……敵に背を向けるなど、嘆かわしい。戦い方といい、心構えといい、あれは駄目だな」
そう言うと、イザルは片足を一歩前に出しながら、膝をわずかに曲げる。彼の視線が向いているのは、少女に足止めをされるまで、青年が向かっていた方向である。
イザルが、腰を回転させる。連動した機械のように、片腕が引かれはじめ、もう片方の腕が突き出されようとする。
それは、正拳突きとして結ばれるべき動作の開始に他ならなかった。
彼は青年が逃げたであろう方向に向かって、例の砲撃のごとき破壊を、拳が突きだされる方向へとぶちまけようとしている。彼のふるまいをそのようにう解釈するや否や、剣士は前に飛び出していた。
「――させるわけないでしょ」
眼前に飛び出してきた少女を前に、イザルが動作を中断する。ティアナはすでに剣を抜き放ち、イザルの身体を刺し貫こうとする体勢に入っていた。対するイザルは、その拳で真っ向から剣を迎え撃つ。
結果、金属同士がぶつかる音が樹海に響いた。高く、澄み渡った音の源では、拳士の手甲と拳士の突剣が拮抗している。突剣という形状から考えても、少女の体格から考えても、その拮抗は拳士にとって予想だにしないものだった。しかし、嬉しい誤算とでも言わんばかりに、彼は口の端をわずかに歪める。
そして、拳士と剣士が、短く息を吸い込んだ直後、拳と剣を引き、突き出す動きを両者が繰り返した。再び、互いの一撃が拮抗する。さらに、三度目の激突と拮抗が続く。そして、さらに同じような過程が、何度も何度も繰り返されていく。
その中で、撃ち合いのサイクルは瞬く間に加速していった。撃ち合いごとに舞い散る火花が次第に二人の周囲を彩っていく。拳と剣がぶつかる間隔がゼロに近づいていくにつれ、激突音は重なるようになり、樹海に響く戦闘音は、次第に絶叫のようなものへと変わっていった。