赤ノ断罪編 一 ティト・ベルドゥゴとムスタファ・エトゥ
名も無き人々……否、名の有る人々。
ティト・ベルドゥゴ。
彼はアークガルド治安機構、東門第二部隊の部隊長である。
アークガルド治安機構街門大隊、総数約二百五十。
東西南北の街門にそれぞれ六十を配置。
四十を地上での入街審査、二十を街壁上での哨戒任務に充て、三交代制で非番を入れて常時五~十人体制を維持している。
と、言ってもここは極めて安全な基幹拠点であり恐るべき怪物が襲ってくる事も無ければ、PK犯罪者が徒党を組んで襲撃してくる事もない。
街内の監査は中央庁のシステムセクレタリーが常時行なっており、違法な薬物や危険な爆発物などを持ったまま街内に入ると警報が鳴り響く様になっている。
街門部隊は警報を頼りに犯罪者を取り締まればいいだけであった。
入街審査は表面上はフリーパスであり、街門勤務はただ退屈な時間を如何に有意義に過ごすかを真剣に考察する場となっていた。
安全な仕事内容にそこそこの収入。
元来、あまり真面目ではなく能力も高くないティトにとってこの仕事は適任であるといえた。
彼には妻と娘が二人いた。
穏やかで家庭的な妻。育ち盛りの可愛らしい娘達。
彼は妻を愛していたし、娘たちもそれ以上に愛していた。
娘たちの教育費や服飾費、子供には子供同士の交友があるのでお小遣いも増やさないといけないだろう。
妻に渡す生活費もこれからどんどん増えていくと予想された。
ティトは頭を抱えていた。
足りない。どうしても今の生活を維持できない。
本来、街門部隊の部隊長ともあれば一家四人にそれなりに贅沢をさせても蓄えが出来る程度の収入が有るはずである。
にも、かかわらずティトの家族は慎ましい生活を強いられている。
妻も娘達も文句こそ口にしないが、不満を持っている事だけは確かだ。それに疑念も。
まずい。
まずい。
このままでは。
妻の容姿はまぁまぁ整っていると言える。だが性に対してあまり積極的ではない事にティトは不満を持っていた。
子供を産んだ後のややだらしのない体型もそれに輪をかける。
娘たちの顔が浮かび、胸がチクリと痛んだ。
それを掻き消すようにティトは無我夢中で貪った。
目の前の若くて瑞々しい女の肉体を。
ティトの冒険心を十二分に刺激し、満足させてくれる愛人。
愛人は若く美しく派手好きで浪費癖があった。
収入の七割を愛人の家に、残りの三割を家庭に割り振らざるを得なかった。
ティトには自分の家庭と愛人の生活を両立させるだけの収入が必要だった。
通行料と称し、門を通過する人間から金銭を巻き上げる。
違法物資として難癖をつけ、門を通過する人間から物資を没収する。
いずれも禁止行為として厳しい罰則規定が設けられていた。
だが、これらはいわば悪しき慣習として街門部隊の伝統として成り立っていた。
軽い小遣い稼ぎ、である。
そんなの払わないで突っぱねるか上に報告すればいい、と考える人間はいるだろう。
確かにその通り。
被害にあった人間が治安機構に届け出れば、該当の部隊には厳罰が下される。
と、同時に全ての街門部隊が届け出た人間の顔と名前、所属組織を覚える。
今後、その人間と所属組織は街門をすんなりと通過することは不可能となる。
隅々まで身体と荷物を執拗に検査され、様々な難癖を付けられ、細々とした各種手続きを要求され、挙句の果てには街に入ることすら許されなくなる。
つまりは、泣き寝入りするのが一番賢いという不埒な現実。
要求するものは多すぎず、少なすぎずが肝要。
要求する金額や物資が多すぎると、自爆覚悟で治安機構に届ける馬鹿が出てくるからである。
少なすぎると旨味がない。
ここらへんは相手の心情をうまく読み取り、ぎりぎりの線を要求するのが『出来る』街門部隊員として皆から称賛されるコツであった。
なぜなら、獲得した戦利品は当該部隊内で分けるのが内規となっているからである。
半分が要求した部隊員。四分の一が部隊長。残りの四分の一を他の部隊員で分ける。
優秀な強請り屋が部隊内に居れば隊員の収入は飛躍的に伸びる。
如何に泣き寝入りしそうで、それなりに金が有り、自爆するほどの勇気も覚悟も無い人間を見極める眼とそれらのカモの顔を一つでも多く覚えられる記憶力。
他の街門部隊が持っている最新のカモ情報にも通じている事も大事である。
ティトの部隊にはそのような優秀な人材は居なかったが関係ない。
部隊長である自分がうまく強請れれば戦利品の四分の三を自らが獲得することが出来る。
全く、問題ない。
これまで一回も強請りに成功していない部隊の部隊長でありながらティトは根拠なしの自信を自らに課した。
『必要だからやる』を『必要だから出来る』に無意識に置き換えた錯誤。
彼は追い詰められていた。
精神的にも金銭的にも。
「ん?」
ティトは突如耳に入ってきた遠雷の様な音に気づき、周囲を見回す。
瞬間――
背後から凄まじい爆雷音と閃光が周囲を襲った。
「うわッッッッッッ!!!!??????」
街門部隊である彼にとっては街中以上に安全で安心な領域は無いはずであった。
常に街の外に眼を光らせ、背中は街中に向けて立っている歩哨任務。
その絶対安全領域である背中側からの異変に彼は腰が抜けるように地べたに座り込んだ。
ティトの眼が街の南の方から昇る何本もの炎柱と崩れ落ちる数多の建物。黒煙が空に吹き上がる様を捉えた。
なにか、ものすごい事が起こっている。
彼が認識し、思考した事はその程度であった。
街門の脇にある東街門部隊の詰所から第一部隊長が飛び出してくる。
街壁上の上にいた第三部隊長も階段をすごい勢いで駆け下りてきた。
二人はへたり込んでいるティトをちらりと一瞥した後に慌ただしく会話を交わす。
そして、それぞれの部隊を率いて北の方に走り去っていった。
北門には街門大隊の本部があり、おそらくは本部に向かったのだろう。
第一部隊から一人が外れティトの方に向ってきた。
眼には明らかな侮蔑の色が浮かんでいる。
「街門長からの命令です。第二部隊は現行任務を維持。別名あるまでこれを遂行せよ、とのことです。
では」
若干の憐憫もにじませながら若い第一部隊員は走り去る。
何のことはない。
街門部隊は自らの判断で街門任務を放棄することは出来ない。
少なくとも今、現段階の時点では。
街門任務を第二部隊に押し付け、自分たちは本部に行き、本隊と合流する。
街門部隊は戦闘部隊ではない。
目的はあくまで入出街審査と目に見える範囲の哨戒任務だ。
だが、騒動が街中で起こってしまった場合は?
街中の管轄はアークガルド治安機構街内大隊の七百五十名がその任にあたる。
街門部隊がその任に関わる事はおそらく、無い。
で、あるならば街門大隊本部はすみやかに安全地帯へと退避し状況についての情報収集と確認にあたる。
状況が致命的であれば頃合いを見て街門大隊長から全街門部隊への撤収命令が発令される。
それを受けて初めて各街門部隊は撤収ができるのだ。
無論、それまでに生きていればの話だが。
つまりは捨石。
ティト達第二部隊の六名は第一部隊と第三部隊が安全に逃げ延びるための体の良い捨石になったのだ。
だが、ティトはこの状況を正しく認識しなかった。
彼が考えていたのはこの状況はどうにかしてチャンスに変えられないかということだった。
現在、小うるさい第一部隊長も生意気な第三部隊長もいない。
今、この東門の最高権力者は自分だ。
この混乱の中、通行人に少々無茶な強請りを仕掛けたとしても有耶無耶になる可能性が高い。
彼の愚かな脳はそんな事をぼんやりと考えていた。
そして、彼は彼が指揮している第二部隊員五名を街門大隊の本部に向かわせた。
名目は大隊支援人員の補充。
第二部隊員達は自分たちを助けるために部隊長が全ての責任を負ったのだと正しく誤解し感謝した。
そして、東街門にいる街門部隊員はティト一人になった。
通行人からの押収品の独り占め。
ティトが考えていたのはやはりその程度の物でしかなかった。
彼の目がアークガルド東街道をこちらに向って歩いてくる一人の商人の姿を捉えた。
商人はフードを深く被り、ゆったりした貫頭衣姿で大きな荷布を背負ってゆっくりと近づいてくる。
荷布は丸く膨らんでおり中身には荷物がパンパンに詰まっている物と思われた。
しめた、緊急事態でも異常事態でもいい。とにかくなにか適当な名目であの荷物を奪ってやる。
なに、背後の惨状を見れば納得するだろう。納得しなければ部隊長権限で制圧するだけの事だ。
ティトは考えるべきだった。
遠目に見てもわかりすぎるほどにわかるこのアークガルドの惨状を見ても何故、あの商人は悠然とアークガルドに近づいてくるのかを。
何故、彼は歩いているにも関わらず頭が上下に動かないのかを。
何故、彼が背負っている大きな荷布からぽたぽたと赤い雫が垂れているのかを。
何故、しばらく前から東アークガルド街道の方からは誰一人として通行人が歩いて来なかったのかを。
今一度、注意深く観察し考えてみるべきだった。
だが、ティトは焦っていた。
彼には早急に金銭が必要だった。
ティトが商人の異様さに気づいたのはおよそ二メートルの距離まで近づいてからだった。
そして、次の瞬間にティトは絶命した。
商人と思わしき人型、その袖から伸びる寄り集まった触手に頸部を切断されて。
ティトは最後の瞬間まで考えていた。
人買い置屋に並べられている女たちの中で彼好みの清楚で黒髪の少女の事を。
新しい愛人となったその少女との甘やかな褥での幻想を。
ティトの生首は荷布の中に優しく入れられ人型は悠然と街門をくぐった。
この時、中央庁のシステムセクレタリーによるアークガルド街内走査は『赤ノ断罪』に集中しておりそれ以外の部分の走査網の目はかなり荒くなっていた。
その荒い目を人型災害はすり抜け混乱しきっている街の人々の波の中に静かに消えていった。
………………
ムスタファ・エトゥ。
彼にとって世界とは自分の手の届く範囲であり、彼の屋台そのものであった。
回転受け皿の上で垂直に串刺しにされた薄切り肉の固まり。
肉がじっくりと炙られる香ばしい匂い。
肉と肉の間に挟まれた脂が溶け、肉油と交じり合い芳醇な香りに花開いていく過程の至福の時間。
グリルバーナー部分が発する熱風。
綺麗に形が整えられている肉柱の造形美。
そのどれもが彼を魅了してやまなかった。
他国から来たムスタファがこの屋台を持つまでには長い時間が必要だった。
ブロイルミートは彼の出身国の伝統料理である。
彼はブロイルミートを愛していた。
自分がこんなに美味しいと思っているのだからこの国の人間も美味しいと感じてくれる筈。
親兄弟や親戚にまで大金を借りて若きムスタファはこの街、アークガルドに立派な店を構えた。
最初は物珍しさも手伝って大盛況だった。
ゆくゆくは親兄弟も呼び寄せ、チェーン店にしよう。
初日の営業を終えてムスタファは高揚する気分と将来の経営計画を組み立てるのを止めれなかった。
そうだ、従業員も増やし調理器具も注文しなければ、材料の仕入れの目処を立て話を通して置かなければ。
二月後、彼の店は資金繰りが付かずに潰れた。
ムスタファには莫大な借金だけが残った。
彼は全てにおいて妥協しなかった。
高品質の商品を相応の値段で提供する。サービスも充実し、従業員の教育も万全。店内の清掃も行き届き。内装も完璧。
壮大な裏目。
客が望んでいたものは手軽に食べれるファストフードであり、勘違いした高級志向の外国料理ではなかった。
味もアークガルドの人間の好みとは微妙にずれていた。
物珍しさで食べに来た人間は二度とムスタファの店に来なかった。
店が潰れた後、母国の親兄弟や親戚とは険悪になった。
酷い言葉で罵られもした。
彼は一言も言い返せなかった。
ムスタファにできる事は少しずつ借金を返していく事だけであった。
獣人達に混じって荷役作業をしながら着実に。
全てを手放した彼であったが一番小さなブロイルミートの焼き器だけは大事に手元に置いていた。
休日には荷役作業を一緒にやっている仲の良い獣人達とそれぞれに肉を持ち寄って焼き器で肉を焼き、皆に振る舞うのが彼の唯一の楽しみであった。
仲間たちは彼の肉柱を削ぐナイフ捌きや絶妙の焼き加減、様々な特製ソースの出来栄え、焼いている間の薀蓄などに惜しみのない称賛を浴びせた。
ムスタファは二十年もの間、意図せずにブロイルミートの店頭販売の下積みをしていたのだ。
決定的だったのは仲間の一人がムスタファが削り落とした肉片をパンに挟んで食べた事だ。
手も汚れずに、フォークもいらずに、歩きながらでも食べられる。
ムスタファの身体に衝撃が疾走った。
この国の健康志向や色彩的な美しさも兼ねて丸葱や赤トマト、チシャなどの野菜を加えた。
アーク・サンドの完成である。
彼の顔に刻まれた皺と長い年月は彼から若さを奪い去ったが代わりに様々な経験や知識を与えた。
今度はムスタファは失敗しなかった。
この街の同業者に目をつけられないように。
資金的なリスクを追わない為に。
何より自分自身が出来る範囲で。
彼はアークガルドショッピングアベニューにひっそりと小さな屋台で再開業した。
アーク・サンドの屋台を。
ムスタファの屋台は見る見るうちに評判になり、アークガルドの名物としてその名と味は轟いた。
すぐさま、フランチャイズの申し込みが殺到し模倣店までもが多数出店する事態になった。
彼はフランチャイズは許可しなかったがブロイルミートの製法は全て開示し、模倣店にもその資料を送りつけた。
そして、アーク・サンドの商品名の使用許可も出した。
やりようによっては一財産を築けたであろう。
だが、今のムスタファにとっては母国の伝統料理を大勢の人たちが笑顔で食べてくれる事だけで満足だった。
借金は利息を多めにつけて全て返済した。
後は自らが暮らしていけるだけの収入とわずかばかりの貯金があれば問題ない。
結局彼はブロイルミートを愛していただけなのかもしれなかった。
彼は幸せだった。
アークガルドには多くのブロイルミートの店が出来、大勢の人たちが毎日食べてくれる。
既に彼は幸せだった。
ただ、一つだけ心残りだったのは先日自分の屋台に来てくれた若い男女の二人組の事だ。
女の子の方は彼のアーク・サンドを満面の笑みで食べてくれたのに、男の子の方は食べてくれなかった事だ。
女の子は流れるような銀髪に狐耳と尻尾が付いた可愛らしい獣人の娘だった。
男の子の方は人のよさそうな顔をした人間みたいだったが二人はいい雰囲気に見えた。
時代は変わっていく。
一昔前は人間と獣人が付き合うなんて考えられなかったが最近はその垣根は徐々に崩れつつ有る。
ムスタファは口元を綻ばせた。
男の子の方は次に来てくれた時にはアーク・サンドをきっと食べてくれる。
彼はそう信じていた。
惜しむらくはそのアーク・サンドを自らが手がけられない事であり。
それだけが少し心残りだった。
彼の眉がかすかにしかめられる。
目の前でブロイルミートの焼き器が。
二十年もの間、共に暮らしてきた相棒が紅き炎柱に包まれる。
炎の勢いが強すぎる。
全くなっていない。
ド素人以下の醜態だ。
これではせっかくの肉の甘味が焦げ目による苦味でぶち壊しになってしまう。
早く廃棄処分にして奥の大型冷凍庫から代わりの肉柱を持って来なければ。
ただ、その表情は0.1秒間しか続かなかった。
0.1秒後に彼の肉体と精神もまた、完全に溶け崩れてしまったからである。
彼は最後の瞬間までブロイルミートを見つめていた。
だが、彼は満足だった。
自分の人生に対して。
ムスタファは笑顔で天に召された。