十伍 赤ノ罪
……泣いている。
誰かが泣いている。
なんで、泣いているんだろう。
震える指先が頬に添えられる。
その掌を握り締める手。
止めどなく流れる涙が二人の手を濡らす。
唇が動く。
声は聞こえない。
悲しみは伝わる。
深い悲しみ。
顔は見えない。
胸が静かに押し潰される。
その全てが伝わってくる。
そして、真っ黒に塗りつぶされた虚無の絶望。
二人は一つになり、一つは全てになり、この世界を染める。
赤い、赤い、全てを赤く。
全てが赤く染まった血濡れの草原の中で少女は踊る。
永遠に。
永劫に。
白き少女は赤く染まり。
全てを――
「!?」
目の前にメイルの顔。
急速に覚醒する意識がこの場を認識する。
ここは自宅のベッド。
身体に軽く圧迫感。
俺の身体に馬乗りになっているメイル。
その顔は満面の笑みで。
「たーくや? ご飯出来たよ~♪」
お気に入りの花柄エプロンを羽織ったメイルが寝ている俺の上に乗っかって起こしてくれたのだ。
メイルが怪訝な顔をする。
「拓也? どうして泣いてるの?」
「えっ?」
指先で目元を拭う。
濡れる指先。
確かに俺は泣いていた。
メイルが心配そうな顔をする。
「怖い夢みちゃったの? よしよし」
頭をよしよしと撫でられた。
いや、俺は別に子供ではないのだが。
でも、そのよしよしの感触はなんだかすごく安心できて。
俺はしばらく為されるがままになっていた。
「よしよし」
………………
自宅を出たら既に光陽は高く昇り、足元に落ちる影は短くなっていた。
時刻は既に昼過ぎであり、朝食というか昼食を家で済ましてきた俺達はのんびりと街の散歩に繰り出した。
「ふぁあ~…………ああ」
俺は大あくびをかましダラダラと南中央通りに向けて歩を進める。
昨夜の帰還祭が終わった後もそのままみんなと遅くまで語り、遊び、飲み食いしてしまい家に帰ったのは夜明けに近かったから流石に眠い。
街は相変わらず大勢の人々でごったかえしていた。
祭りに参加した観光客はしばらくアークガルドに逗留するのが常であるので、あと二、三日は祭りの余韻がこの街を包むはず。
ま、それも徐々に冷め、一週間が過ぎる頃には元の日常が戻っているだろう。
俺とメイルははぐれないようにしっかりと手をつなぎながら祭りの余韻を楽しんでいた。
「っていうか、暑いな。ちょっと冷たいものでも飲もうぜ?」
「うんうん、こう暑いと喉乾くもんね―」
俺の提案にこくこくと同意するメイル。
よっし、それじゃあ……お、あそこに良い感じのカフェテラスがあるじゃないか。
「じゃ、あそこのカフェに」
メイルの手を引いて道の反対側のカフェに歩き出す俺。
繋がれた手に抵抗感が伝わる。
「…………」
メイルは動かなかった。
「ん? どうし――」
俺の言葉はそれ以上続けられなかった。
(ミツケタ)
それはとても純粋で、美しく、共感でき、世に溢れ、営まれてきたもの。
世界を形作るもの。世界を輝かせるもの。
そして。
世界を滅ぼすもの。
(変化なんてこちらが望まなくても来る時はいっぺんに全てを変えていってしまうものよ)
天に変化は無く。
地に異変も無く。
宙に予兆有り。
ゴロゴロと遠雷の音が辺り一面に鳴り響く。
空を見る。
雲ひとつ無い快晴だ。
ならば。
この音はなにか?
この黒き陽炎はなにか?
地面を走る何本もの黒き陽炎。
それは漆黒の稲光を纏わせながら幾何学状に広がり進む。
次の瞬間、視界の全てが紅く染まる。
大地を歪ませる激震と大気を引き裂く轟音が同時に続く。
地面を疾走る漆黒の稲妻が赤黒く揺らめく。
己を遮る全てのものに―――
己に触れた全てのものを―――
己を見下ろす全てのものへ―――
等しく<赤ノ断罪>が下される。
天昇る真紅の炎柱が地を這う漆黒の稲妻から産まれ昇る。
人々の命の灯火を糧にしながら。
轟々と渦巻く炎に包まれる洒落たカフェテラス。
通り沿いに立ち並ぶ種々雑多な品物を扱う屋台や露天が次々と消し飛ぶ。
異国情緒あふれるエスニックレストランが燃え崩れる。
石造りの堅牢な聖堂ですら一瞬で紅に染まりその青碧美麗なステンドグラスが飴の様に溶け落ちる。
恋人同士の愛の語らいも、朴訥な青年の勇気を振り絞った告白の一言も、身寄りのない幼き姉弟の生命も。
身体を売る女も、一人ぼっちの独身男も、歌を亡くした歌姫までも。
全てが天と地を穿つ無慈悲な雷炎によって灰塵に帰す。
大勢の人々の怒号と悲鳴が響き渡る。
必死に愛する人の名前を叫ぶ悲痛な声。
泣きわめき、泣きじゃくる幼き声。
親は子を、子は親を半狂乱になって呼び求める。
苦痛の声を、怨嗟の声を、怒りの声を上げ続ける。
目の前の友人が、恋人が、肉親が灼熱の炎の舌に巻かれ縊り殺される。
もうもうと天を衝くように立ち上る黒煙。
建物が崩れ落ち、大量の火の粉と猛煙が巻き上がる。
そして、目の前で更なる怪異が実を結ぶ。
地を這い、触れるもの全てを灰と化す黒き稲妻。
暴虐の限りを尽くすその漆黒の死神が渦を巻くように収斂する。
同心円上に幾重にも黒が重ねられる。
黒は黒で塗りつぶされ漆黒と成り、漆黒は暗黒の子宮を成し、忌まわしき産道より昏き闇が生まれる―――
闇は歓喜の産声を上げ、宙を侵蝕し巨大な竜躯を形作る。
「悪夢級第一種警戒災害『赤ノ断罪』
竜種であって竜種じゃない超越種」
その声は微かに強張り、俺の手を強く握り締めている<メイル>の手は小刻みに震えていた。
…………………
バチバチと無数の火の粉が舞い上がる。
熱風が顔を炙り、黒煙が視界を塞ぐ。
身体の急激な酷使により肺が貪欲に酸素を追い求める。
手足はだるく、喉も涸れ、息苦しさが襲ってくる。
だが、立ち止まる訳にはいかない。
俺はメイルの手をしっかりと握り大通りを無我夢中に、全力疾走で逃げ続ける。
周りには俺達と同じように恐怖に眼を血走らせ逃げ惑う人々の姿が映る。
それも無理は無い。
先程から断続的に断末魔の悲鳴と天に立ち上る炎柱が、空気を焦がす音が間断なく背後から聞こえてくるのだから。
耳を塞ごうにもそんな余裕はどこにもなく。
何が起こっているのかさえわからない。
ただ、一つ分かっていることは立ち止まれば、死あるのみという事実のみ。
背後の地面から地を這う死神の影法師が迫り来る。
「う、うわぁぁあああッッッッッッッッ!!!!!!??????」
不運にも足がもつれ地面に倒れてしまった中年の男が自らに迫り来る黒き稲妻を凝視し絶望の叫び声を上げる。
地を這う黒き稲妻は男の身体に接触した瞬間に赤き炎と姿を変え、その身体を丸呑みする。
――絶叫。
全身をまる焦げにされ、皮膚が溶け、筋組織が崩れ、内臓が煮沸し、骨までも灰と化す。
だが、最後の瞬間まで意識はあり、苦痛の悲鳴を、苦悶の啼き声を、助けを求める救いの声を出し続けるのだ。
天に召される煉獄の炎柱と共に。
眼を瞑っている暇は無い、耳を塞いでいる余地は無い、悲しんでいる時間も無い、同情している余裕も無い。
一体、なんだっていうんだ。
これは、一体なんなんだ。
俺の疑問に答える者は無い。
横を向いてメイルの顔を確認する。
その顔は予期せぬ惨劇と全力疾走により苦しげに歪んでいた。
だが、俺の視線に気がつくと健気にも笑顔を作る。
そうだ、俺はメイルを守らなければならない。
絶対に。
序章 終わり