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幻想鍼医  作者: ジーン
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第八話 開院

 双雲鍼灸院の午前の診療は十二時までと看板には書いている。

しかし、午前中の診療は一時半過ぎまでずれ込んだ。

この午前の診療の数時間を例えるならばまさに嵐だと誠一郎は思っていた。

受付、誘導、カルテ整理、予約確認、会計と教えられた作業をほとんど休みなく続けた。

初日で、要領を得ていなかったという事もあるだろうが、まさにてんてこ舞いだった。

午前の診療の最後の患者さんを送り出した後、誠一郎は受付の机に突っ伏し、大きなため息を吐いた。

南雲が診察室から顔を出し、お疲れさまと声をかけた。

あわてて体を起こして誠一郎が返事をした。


「どうだった?」


 南雲は受付のカウンターに寄りかかりながら言った。


「正直な話、ここまで忙しいとは思ってませんでした」


 誠一郎は午前中の嵐を思い起こしながら言った。

今日の午前の診療だけで来た患者は五十人を超えていた。

日本の鍼灸院としてはかなり多い人数が来院している。


「うちはほとんどが午前中の患者さんだから午後は実際に僕たちの治療を見てもらえると思うよ」


 南雲がそう言ったところで、東雲が診療室から上着を持って出てきた。


「立ち話もいいけど、昼ご飯にしないかい?」


 双雲鍼灸院の午後の診療は午後三時から始まる。

外に食べに出ても時間的に十分な余裕があった。

三人は近くの定食屋に行くことにした。


 双雲鍼灸院では午後の診療は完全予約制となっている。

そのため、診療開始三十分前に返ってきたが、待っている患者さんはいなかった。

南雲と東雲は帰ってきてすぐにベッド周りの掃除や、備品の補充などを始めた。

誠一郎は一番受付に近いブースを割り当てられた。

見よう見真似、わからないところは聞きながらも、なんとか準備を終えた。


「ここのブースは誠一郎君が使っていいから」


 段ボールを抱えた南雲が通り過ぎざまにそう言った。

誠一郎は耳を疑った。


「治療するんですか?」


「当然でしょ?」


 振り向いた南雲は笑みを浮かべながらさらりと言った。


「でも、僕なんかまだ免許取ったばかりで経験もないですし」


 自分でもみじめなくらい、おろおろと誠一郎は口走った。


「誰でも最初は初めてなんだから、経験なくて当たり前だろ」


 奥のブースから東雲の声が聞こえた。


「経験は積むものなんだから、新人は無いのが当たり前だよ。でも、免許を持っているという事は一人前の鍼灸師ってことなんだから、治療ができないなんてことは、もう言えるような立場じゃないってことは自覚しておかなきゃいけないね」


 今度は真剣な表情で、窘めるような口調で南雲が言った。

その言葉に、誠一郎は下唇を噛んだ。

与えてもらったチャンスから、醜く言い訳をして逃げ出そうとしていた自分が恨めしい。

誠一郎は謝罪の言葉と共に深々と頭を下げた。


「まぁ、そうは言っても予約制だからほとんど患者さんは来ないと思うけどね。あんまり気張ってもしんどいだけだから、気楽にいけばいいさ」


 東雲のその言葉が誠一郎にはとても温かく感じた。

改めて自分の任されたベッド周りを見渡す。

準備に不備はない。

そうこうしている間に午後の診療が始まった。

午前中ほどではないにしろ、南雲と東雲はほとんど間を空けず患者を治療していった。

誠一郎は患者の同意をそれぞれ得た上で、南雲と同じ治療ブースに入り、治療の見学をしていた。

見学に入る前に南雲から注意点が告げられた。

それは、意念空間に入らないようにというものだった。

そのやり方は簡単だった。

意念空間へ入る条件の一つである患者を思う心を閉ざせばいいのだ。

つまり、目の前の患者を治したいと意識的に思わなければよい。

何故南雲がこのようなことを言ったかというと、意念空間に入ってしまっては、実際に患者に対してどのような施術が行われているかわからないからだ。

しっかりとそう言う部分も学ばなければいけないと誠一郎も思っていたため、南雲の言いつけを守り、南雲の手元に見入っていた。

南雲の鍼治療はまさに基本に忠実であった。

日本では鍼管と呼ばれる管を使い、押手と呼ばれる左手の人差し指と親指で鍼管を固定し、鍼管から出ている鍼柄(鍼は体に刺さる鍼の部分である鍼体と持ち手の鍼柄とに分けられる)を人差し指でたたき、その力で鍼先を皮膚の中へ入れるのだが、その動きはどんな時も一定だった。

鍼と鍼管を包装から取り出し、左手で経穴を探り、その上に押手を作り、押手の間に鍼感を入れ込む。

押手を少し叩き、針先が患者の皮膚に触れていることを確認し、押手で固定された鍼管から数ミリ出ている鍼柄を右手の人差し指でたたく。

ここまでの流れが、まったく同じどころか、どんなところに鍼をしてもこのタイミングがずれることはなかった。

一流スポーツ選手並みのルーティンである。

魅了されたように南雲の治療に見入っていると、治療院のドアが開き、ベルが鳴った。

南雲が不思議そうに顔を挙げた。

誠一郎は腕時計を確認して、次の患者さんが来るにはまだ早いなと思った。

南雲に断りを入れて、誠一郎は待合室へと向かった。

待合室に入ると誠一郎は思わずぎょっとした。

ドアを入ってすぐの所にへたり込む女性と、それを必死に支えようとする男性がいる。

うちは救急病院じゃないはずだよなと誠一郎は困惑した。

女性の方にはなんとなく見覚えがある。


「大家さん。またやったのかい?」


 立ち尽くす誠一郎の後ろから覗き込むように東雲が言った。

東雲の言葉で誠一郎はこの女性が誰なのか思い出した。

自分が住んでいるアパートの大家だ。

部屋を借りる際に、鍵を受け取ったことを思い出した。


「あぁ、いつもよりもひどい。歩くことすらできやしない」


 相当な痛みがあるようで、しゃべるのもままならないのだろう。

苦しそうに大家の女性は言った。


「とりあえずベッドに運ぼうか」


 南雲もブースから出てきた。

南雲も東雲も患者の治療はストップしている。

誠一郎が治療後に聞いた話だが、大家を連れてきた男性は大家の夫だそうだ。

商店街で八百屋をしている。

南雲と誠一郎の二人がかりでふくよかな体を支え運ぶ。

動くたびに痛みが走るようで、一歩ごとに大家は小さく悲鳴を漏らした。

運んだ先は誠一郎が用意したベッドだった。


「誠一郎君よろしくね」


 南雲はそう言って自分の患者のもとへと帰っていった。

東雲も同様に誠一郎のもとを去った。

誠一郎の中には再び言い訳が渦巻いていた。

しかし、目の前で苦しんでいる大家の姿が誠一郎の心の闇を払った。

今この患者を救えるのは自分しかいない。

せめて手の届くところにいる人だけでも救いたいと誠一郎は拳を握った。

手にアルコールを吹きかけ消毒をして、ベッドに横たわり痛みに苦しむ患者の前に椅子を持ってきて座った。

問診を開始する。

いよいよ誠一郎の治療家としての一歩が踏み出される。

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