第三話 別れ
「あ、あの……、さっきはありがとうございました。僕、針崎誠一郎っていいます」
誠一郎は電話なのに頭をかきながら、何回も頭を下げている。
五帝の一人と知って、必要以上のプレッシャーを感じている。
「あぁ、働く気になった?」
対照的に南雲は落ち着いた口調で問いかけた。
「はい。ぜひお願いしたいと思い電話させていただきました」
誠一郎はできる限りはっきりとそう言った。
その申し出を南雲は快く受け入れた。
しかし、ここで一つの疑問が誠一郎の心の中に浮かんだ。
「何故僕なんですか? 弟子を探しているんですよね?」
「そうなんだよ。面倒な制度だよね。僕も弟子は取らない主義だとか言ってみたいよ」
南雲はそう軽口をたたいて一呼吸空けた。
「君なら素晴らしい鍼灸師になれると感じたからさ」
自分で聞いておきながら誠一郎は南雲の答えに恥ずかしくなった。
同時にとてもうれしかった。
例えお世辞だとしても、例え後々勘違いだったと言われようとも、この一時は南雲に認めてもらえたような気がした。
その後の会話は後日一応面接に来てほしいなどといったきわめて事務的なものだった。
誠一郎はスマートフォンを耳と肩の間に挟み、スケジュール帳に予定を書き込んでいく。
通話が終わったことを画面で確認し、誠一郎は深く息を着いた。
そして小さくガッツポーズをする。
「どうだった?」
「今度の日曜に面接に行ってくる」
寒空のテラス席に戻りそんなやり取りをした。
もううどんは食べれるような状態ではなかった。
元道がごめんと言ったが、誠一郎は肩をすくめておどけて見せた。
「もうすぐ卒業だな」
食堂を後にした誠一郎は今にもスキップしそうだった。
卒業後の進路に悩んでいた誠一郎だが、自分の腕がどこまで通用するのか、どこまで自分は高みに登れるのか、楽しみばかりが頭に浮かんでいた。
「ずいぶん嬉しそうだね」
「そうりゃあ、やりたいことができたんだ。今すぐにでも卒業したいよ」
空には青空が広がっているが、少し強い風が吹いているせいで肌寒い。
「正直な話、今の鍼灸業界はみんな自分の事ばっかりで、何か落胆していたんだけど、南雲先生に出会って本当の鍼灸師に会えたような気がしたんだ。だから、そこでいろいろ学べると思うとすごくワクワクするよ」
誠一郎はふと空を見上げた。
ついさっき意念空間で暗雲が晴れたときのように透き通った空が広がっている。
月日はそこからあっという間に過ぎた。
誠一郎は就職に向けて時間の限り勉強した。
時には息抜きもしたが。
双雲鍼灸院は従業員用のアパートがあるとの事だった。
従業員用と言っても鍼灸院が持っているアパートではなく、空いているアパートに全員が住んでいるのだ。治療院から徒歩十分ほどの所にあり、堺市は政令指定都市という事もあり不便はない。
「元道は結局親父さんの所に就職するんだよな?」
卒業式が終わり、着慣れないスーツの襟を正しながら誠一郎が言った。
「そうだよ。父さん人使いが荒いから、明日から仕事なんだ」
対照的にスーツを着慣れた様子の元道の父親は全日本鍼灸団体連合の理事を務めるほどの大物だ。
治療の腕ももちろん評判が良い。
名古屋に拠点を構える多店舗経営の経営者だ。
経営手腕も高く、明帝鍼灸大学の経営論の授業にも来たことがある。
元道は名古屋の本店で働くと言っていた。
誠一郎も翌日には大阪の従業員用のアパートに入り、その次の日から治療院に顔を出す予定だ。
もう荷物はすべて運ばれている。
携帯電話やインターネットなどが発達した現代では、別れの悲しみというものは随分と薄れてきている。
二人は短くあいさつを交わした後固く握手をして別々の道を歩き始めた。