第三十話 素質
次の日の朝、誠一郎と夏梨は昨日と同じように原治堂鍼灸院の治療室にいた。
相変わらずの忙しさだ。
目が回りそうとはよく言ったものだ。
人の出入りが激しすぎて確かに目が回ってもおかしくない。
昨日昼間に二宮と別れてから誠一郎と夏梨は二人きりだったが、いい意味でも悪い意味でもまじめな二人は、次の日も早いという事で夕飯を食べた後すぐに自分たちの部屋で休んだのだった。
二人ともなかなか寝付けなかったのはお互いに知ることはない。
昨日の昼食から引きずっている重い空気は健在だった。
二宮は誠一郎と夏梨と挨拶を交わしていたが、五條は誠一郎たちが投げかけた挨拶を完全に無視していた。
そこに原治堂鍼灸院独特の緊張感が加わり、張り詰めた糸のように院内の空気はぴりついている。
盧斎はそんなことを全く気にせず淡々と治療を続けている。
よく静かな心で、無心で鍼を打つことが大事だと言われるが、それを忠実に具現化したようだ。
基本に忠実に、スポーツだろうが鍼だろうがその言葉に変わりはないが、基本を忠実に再現するのが最も難しいことの一つである。
盧斎の治療を見ていると一種の芸術性がある。
その芸術性は映画やジャズ、ロックと言った誰にでも訴えかける華やかな芸術性ではなく、日本の盆栽のように人を選ぶが、心を鷲掴みにして離さない絶対的な芸術性がある。
時刻は午前十一時を過ぎて間もないころだった。
長針は文字盤の十二と一のちょうど真ん中ぐらいを指している。
治療室の前の廊下をばたばたと走る音が聞こえた。
すぐに受付の劉が入ってきた。
「盧斎先生、王さんの所の夢華ちゃんが来てます」
劉の言葉を聞き患者に鍼を刺す盧斎の手が一瞬止まった。
しかし、それは言われなければ気付かないほどの間だけだった。
盧斎はいつも通りのスピードで見ていた患者の治療を終えた。
「先生……」
劉がもう一度声をかけた。
「聞いていた。夢華が来ているんだな。入れてくれ」
盧斎は淡々と次の準備をしている。
「待ってください。次の予約の患者はどうするんですか? いくら顔見知りだからって良くないと思います。先に来ている人を先に見るべきでしょう? 後から来たんだから待たせればいいんですよ」
一斉に全員の視線が五條に注がれる。
「お前は昨日の時点で何か思わなかったのか? 中華料理屋であったときに」
一瞬五條の勢いがひるんだように見えた。
誠一郎たちにも顏色が悪い程度にしかわからなかったが、盧斎は今日診察に来ると予想がついていたのだろう。
予想というよりも確証と言った方が正しそうだ。
「そんなことよりも他の患者でしょ? 次の患者は定期的に来る患者じゃないですか。そう言う患者にはなれられたらいくらあんたの治療院でもやっていけなくなりますよ? あんたはいっつもそうだ。大口の患者さんを治す気が無いとか言って断ったり、格安で町の人に治療したり、頭おかしいんじゃないのか?」
誰もが五條の口をふさごうと動いた。
体を押さえつけて部屋から連れ出そうと動いた。
しかし、部屋にいた誰よりも早かったのは盧斎の右拳だった。
五條の右頬を完全にとらえたその拳は振りぬかれた。
五條はベッドを乗り越え、その向こうへ倒れた。
五條は切れた口と鼻から血を流し、ベッドを支えに起き上った。
歯の部分に当たったのか、盧斎の右拳にも血が滲んでいる。
夏梨は思わず口に手を当てた。
「例えば、詐欺、ギャンブル、インサイダー。短期的に金を稼ぎたければ、自己中心的に、自分のエゴの赴くままに仕事をすればいい。鍼灸師において稼ぐとは患者を診るという事だ。そして一生この仕事をしていく以上、短期的にしか稼げないやつは消えていく。患者がついてくれるというのはこちらの思いやり、つまり患者を思う心に答えてくれているんだ。上辺だけでは一生は騙しとおせない。お前の言っていることは上辺では患者を気にしているように聞こえるが、本心は自分の金の事ばかりだ。本気で患者のためを思える奴だけが、一生この仕事をすることを許させるんだ。今のお前にはそれが無い。考え方を変えなければお前は今よりも成長することはないぞ」
盧斎は五條を見下ろしたままそう言った。
「一度頭を冷やした方がいいんじゃないか?」
治療室の入り口を指さしそう続ける。
五條は流れる血をぬぐいながら治療室を出ていった。
なんと言ったか聞こえなかったがおそらく悪態をついていた。
「二宮」
師匠に声をかけられた二宮ははっとして体を震わせた。
それまで茫然と事の成り行きを見届けるしかなかった誠一郎も我に返ったようだった。
二宮の返事は変に裏返っていた。
「俺の手は見ての通りだ。今日はお前が見てくれ」
盧斎は血のにじむ手をひらひらと見せながらそう言った。
「そんな、師匠の代わりなんて僕なんかに務まるわけないじゃないですか。無理ですよ。絶対に無理です。うまくいくわけがありません」
今まで聞いたことのないほどの大きな声で二宮はそう言った。
甲高い声が治療室に響き渡る。
誠一郎は二宮がこんなにも大きな声を出せるのかと的外れな部分に驚いていた。
盧斎はやれやれと言った感じでけがをしていない左手で頭を掻いた。
「二宮、お前は自分の事をわかっていなさすぎる。お前は十分患者を治療できる知識も技能もあるし、意念空間に入ることのできる素質も十分だ。もうすでに意念空間に入っていなければおかしいくらいだ」
「そんなことは……」
反論しようとした二宮の言葉を盧斎の手が制した。
それは五條に向けられたのと同じ手だった。
「それが、お前自身の問題だ。お前は自分を信じていない。それがお前自身にブレーキをかけているんだよ。自分を信じてやってみろ」
そう言い残し盧斎は奥の部屋へ入っていった。
すぐにライターの音がして息を深く吐く音が聞こえた。
それを合図にしたかのように真っ青な顔をした夢華が母親に連れられて治療室に入ってきた。




