第二話 背景
「さっきの人が僕を起こしてくれたんだよね?」
元道が何とか立ち上がりながら言った。
額の傷は浅いらしく、血は流れ落ちるほど出ていない。
「覚えてんの?」
元道は首を横に振った。
頭を打ったことを気にしてか、ふり幅は小さかった。
そんな気がするんだと元道は小さな声でつぶやいた。
誠一郎は元道に肩を貸し、自分が座っていた椅子の隣に座らせた。
先ほどは出ていた湯気がうどんから出ていない。
もう伸びてしまっているだろう。
それどころか元道のうどんは地面にまき散らされたままだ。
誠一郎が食堂の出口に敷かれたうどんの絨毯を片付けようと向かうと、食堂のおばちゃんが新しいうどんのどんぶりをお盆に乗せて食堂から出てきた。
おばちゃんは誠一郎に新しいお盆を渡すと片付けは自分がするから昼ご飯を食べなさいと言った。
誠一郎は申し訳なさそうにお盆を受け取った。
揚げたてのコロッケが一つ余分に添えられている。
誠一郎は元道の前にそのお盆を置いた。
元道がお礼の言葉と共に誠一郎にコロッケを差し出した。
「大丈夫か?」
コロッケを受け取り、誠一郎は椅子に座り、背もたれに背中を預けた。
硬い背もたれは冷え切っている。
元道は頷いた。
箸を持って行儀よく手を合わせる。
誠一郎と元道は大学に入学してからの知り合いだが、元道の礼儀正しさは子供の時のしつけのおかげだ。
「さっきの人南雲英忠って言ってたけど、双雲鍼灸院の人?」
「そうだけど、知ってんの?」
それを聞いた元道はうどんに乗っているねぎを気道に招き入れてしまい激しくせき込んだ。
掃除をしている食堂のおばちゃんが心配そうにこちらを見ている。
誠一郎は慌てて元道の背中をさすった。
「知っているも何も、五帝の一人だよ? 知らない方が珍しいと思うよ」
元道は口元をぬぐいながら苦しそうにそう言った。
五帝という言葉を聞き、誠一郎は無造作にポケットに突っ込んだ名刺を取り出し食い入るように見た。
五帝の文字は書かれていないものの、南雲英忠の文字には確かに見覚えがあるような気がする。
名刺には電話番号とメールアドレス、双雲鍼灸院の住所が書かれている。
大阪府堺市にあるようだ。
ふと誠一郎は先日の授業の時に五帝の話題が教員の口から出ていたことを思い出した。
今年の全日本鍼灸団体連合において、五帝の続投が決まったと言っていた。
去年なったばかりの新人が多い中の続投という事もあり、相当な腕の持ち主だという評判が全国に広がっているらしい。
その五帝のうちの一人が先ほどの南雲英忠であり、彼は双雲鍼灸院の院長を務めている。
「双雲鍼灸院もめちゃくちゃ有名だよね」
元道は箸をきれいに並べて置いた。
手を合わせてご馳走様でしたとつぶやく。
元道のいう有名というのは患者への評判がいいという事もあるだろうが、むしろ業界内で有名という意味合いが強い。
その理由は双雲鍼灸院で働くもう一人にあった。
双雲鍼灸院は院長と従業員の二人で切り盛りしている。名前は東雲怜子。
驚くべきことに東雲も五帝の一人に名を連ねる。
南雲と東雲、文字通り双雲という事だ。
「そんな人が俺をスカウトしたぞ?」
誠一郎は引きつった笑いで名刺を見ている。
「五帝なんだから誰でもいいわけじゃないはずだよ。絶対行った方がいいよ」
元道が名刺を覗き込みながら言った。茶化している様子は全くない。
もともと三皇五帝制度は政治的な場に臨床家の意見を反映させようとする制度だが、制度ができてからすぐに徒弟制度を義務化させた。
三皇五帝制度に世代交代の意味を持たせたのだ。
各業界団体の代表が五十代、三皇が四十代、五帝が三十代であるため、それぞれの者たちに二十代の弟子を取ることを義務付けた。
鍼灸業界はもともと、第二次世界大戦以前では徒弟制度が中心であったが、昭和二十二年の「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」により都道府県知事免許となったことで、完全に学校を卒業しなければ得られない資格となったわけだ。
弟子を取ろうにも、学校を出て免許を取得するまで待たなくてはいけなくなった。
ほぼ徒弟制度は滅んでしまったと言っても過言ではないだろう。
さらに追い打ちをかける様に、2000年代に入り、鍼灸学校の設立基準が緩和され、学校の乱立が起こった。
鍼灸の学校は大学、専門学校関係なく、学校外での臨床経験に乏しい鍼灸師が教員になることがほとんどである。
その結果何が起こったかというと、臨床能力の低い鍼灸師が排出されてしまったのだ。
業界にとって最も良くなかったのは、学校の乱立に伴い、質の悪い鍼灸師が大勢世に出てしまったことだ。
臨床の基本を理解していないものはいくら育てようとしても育たなかった。
それが保険診療を廃止したときに大勢の離職者を出す原因となった。
後に保険診療危機と呼ばれる。
下の世代が育たない業界は今後が危ういと感じた針村隆司は、三皇五帝制度の制定の翌年、三皇五帝それぞれに弟子を取る義務を与えた。
およそ十年ごとに世代を分けることで、質の高い鍼灸師が途絶えないようにと考えてのことだった。
自分の所へ取る弟子の選出は三皇五帝に一任されている。
つまり、今回五帝の一人である南雲が誠一郎に声をかけたという事は弟子になれという事を表している。
誠一郎は胸の高鳴りを感じていた。
運命的な出会いだとすら感じる。
自分の求める金や権力を追い求める雑輩な鍼灸院とは違い、本物の鍼灸を学べる気がした。
それは意念空間への目覚めから来た感情でもあった。
自然に表情が緩む。
「ちょっと、電話してくる」
誠一郎はそう言って立ち上がり、元道の返事を待つことなく駆け出した。
建物の裏に入り、誰もいないことを確認して、名刺に書かれている携帯電話の番号に電話をかけた。
スマートフォンの画面が発信画面に変わるのを確認して耳に当てた。
「もしもし、南雲です」
数回のコールの後、南雲が答えた。
針灸の歴史: 悠久の東洋医術 (あじあブックス) :小曽戸洋(著)を参考にしています。