第二十一話 協力
その後の診療で、誠一郎は患者の前に立つことはなかった。
おそらく彼の精神状態を察した南雲が患者を回さなかったのだ。
しかし、そのことはさらに誠一郎を追い込んだ。
師匠の信頼を失ってしまったのではないかと感じていた。
そうなるともはや業務どころではない、誠一郎は閉院するまでどこか上の空だった。
業務が終わった後も小さな声であいさつをして、すぐに帰路についた。
受付で残った仕事を片付けていた南雲と東雲は顔を見合わせた。
「英忠、誠一郎に何したんだ?」
東雲の後ろに静かに燃える炎が見えるようだ。
「な、何もしてないよ」
東雲の圧に気圧されるように南雲は少し身を引いた。
離れた距離を埋めるように東雲の威圧感が増す。
「それが一番よくないんじゃあないのか? 弟子の状態を全然わかってないってことだろ? 無意識に誠一郎を追い込んだとしたら師匠失格だぞ。今日あったことを話せ」
師匠失格という言葉に南雲の笑顔が消えた。
表情を曇らせ、珍しく眉間にしわを寄せて今日誠一郎が行った治療について話し出した。
東雲は腕を組みじっと聞き入っていた。
「自信を無くしたんじゃないのか?」
「そうかな?」
南雲は首をひねった。
「そりゃ、明日英忠が治療するなんて言われたら切り捨てられた気もするだろうさ。ただでさえ治療がうまくいかなかったってのに」
「そうかなぁ」
南雲は唸った。
東雲は受付のカウンターに寄り掛かりため息を一つついた。
「お互い、弟子を取るほどできた人間じゃあないんだろうな」
少し遠くを見るように東雲の視線は宙を漂った。
「そうだね。僕らは弟子も取らずにがむしゃらにやってきたもんね。人に鍼灸を伝えることがうまくできないのかもね」
南雲の顔に笑顔が戻ったが、それは自分を嘲笑うものだった。
南雲の言葉を聞いて東雲は鼻を鳴らす。
「もう弟子を取っちまったんだから、そんなこと言ってられないんだよ」
東雲の視線が南雲をまっすぐととらえる。
南雲は何度も頷いた。
「怜子、ありがとう。僕もまだまだだな」
笑みを浮かべたまま、南雲はかぶりを振った。
「当たり前だろ? たかが三十そこらなんだから、私達だってまだまだ若造さ」
東雲は肩をすくめて見せた。
「そうは言ったものの、もう帰ってしまった誠一郎君をどうやってフォローしようか」
そう言った南雲の視線は受付に一番近い治療ブースへと注がれた。
やれやれと言った感じで東雲が息を一つついた。
「夏梨、聞いているだろう? 様子を見に行ってやってくれ」
ブースの中から物音と慌てた声の返事が返ってきた。
盗み聞きをするつもりはなかったが、立ち聞きをしていた夏梨は驚きのあまり、ワゴンにぶつかっていた。
自分の部屋に帰った夏梨だったが、なんと声をかけていいかわからず、なかなか部屋から出られずにいた。
彼女は部屋に置かれた一人用の小さなテーブルの前に姿勢良く正座し、壁にかけられたピンク色の時計を見つめていた。
グレーの地味なスウェットを着て、太い黒縁の眼鏡をかけている。
一人暮らしの女性が部屋で無防備な格好をしているといって男性が真っ先に考えそうな身なりだった。
考えがうまくまとまらなかったのか時より大きくかぶりを振っていた。
何度目かわからないが大きくため息をつく。
夏梨は目を強く閉じ、眉間にしわを寄せた。
「よ、よし」
何か案が生まれたのか、手を組み何かに祈るようにした後で夏梨はそう言って立ち上がった。
しかし、慣れていなかったのか、足がしびれてうまく歩けなかった。
近くにあるカラーボックスに手をつき、しびれが無くなるのをじっと待った。
生まれたての小鹿、もしくは背中の曲がった老人といった言葉がよくあてはまる。
夏梨は顔をしかめ小さく唸っていた。
無意識に正座をするほど思い悩んでいたのだろうか。
しばらくしてしびれが抜けた夏梨はカラーボックスの中に並んだ本の中から何冊か抱え部屋を出た。
息を整え夏梨は意を決して誠一郎の部屋のチャイムに手を伸ばした。
しかし、その瞬間腕の中に抱えていた本がばさばさと音を立てて廊下に落ちた。
慌てて本を拾い上げているとドアが開いて誠一郎が顔を出した。
予期せぬ誠一郎の登場に夏梨は慌てふためき、うまく本を拾えずにいた。
「大丈夫か? なんかすごい落としたけど」
いぶかしげに顔だけを出した誠一郎だったが、音の原因が夏梨だったという事でドアをしっかりと開けて状況を確認した。
「あ、あの、大丈夫……」
ようやく本を拾い上げた夏梨は恥ずかしそうに視線を落としてそう言った。
「そんな恰好で何やってんだ?」
その言葉に夏梨はようやく自分の身なりが完全に就寝前の状態だと気付いた。
彼女はまるで漫画の一コマのように小さく声を出して驚き、再び本を落としてしまった。
「ご、ごめんなさい」
夏梨はそう言うとしゃがみ込み本を拾い始めた。
誠一郎はため息をつき、夏梨の前にしゃがみ本を拾った。
「ありがとう」
夏梨は驚いた様子でそう言った。
誠一郎はいいよと一言言って本を拾った。
「こんなに東洋医学の本ばっかもってどこ行くんだ? 怜子さんの所か?」
拾った本を夏梨が持っている本の上に置きながら誠一郎は言った。
「ち、違うの……。誠一郎の部屋に行きたいの」
一度言葉に詰まったが、夏梨は目を閉じ半ばやけくそのようにそう言った。
声の大きさと言葉の内容が相まって、誠一郎はだいぶ面食らった。
一瞬彼の脳裏に師匠たちに聞かれたら随分とまずい内容の発言なのではないかという思いがよぎった。
「と、とにかく入れよ」
理由を聞く前に誠一郎は招き入れた。
よほど慌てていたのだろう。
二人は折り畳みのテーブルをはさんで座った。
部屋に一つしかない座布団は夏梨の足の下だ。
夏梨は初めて入る誠一郎の部屋を物珍しそうに見まわしていた。
テーブルにベッド、衣装ケースにテレビ、学校の教科書を中心とした鍼灸の本に、少しの漫画、幸いなのは本が少し部屋に散乱しているものの、洗濯物はついさっきしまったという事だ。
こんな部屋に比べれば、部屋着の女性が目の前にいる方が物珍しいと誠一郎は思っていた。
「なんか用だったのか?」
「一緒に今日の症例について考えようと思って」
誠一郎の言葉に本来の目的を思い出しはっとした夏梨がそう答えた。
それを聞いた誠一郎は苦笑いを浮かべて頭をかいた。
夏梨が不思議そうな眼差しを誠一郎に送る。
「今日さ、夏梨に言われてずっと考えてたんだよ。夏梨が言ったとおりだってのはわかってたんだけど、なかなかそれを認められなくてさ。でも、ようやく気持ちが整理できて謝りに行こうと思ってたんだ。そしたら家の前に突然夏梨がいたから驚いたよ」
誠一郎は笑いながら言った。
「ひどい態度取ったのにわざわざ来てくれてありがとう」
彼はそう続けて頭を下げた。
「ううん。こっちこそごめんなさい。私もきついこと言いすぎたなって思ってどうしようかって悩んでたら、東雲先生と南雲先生から様子見てくれって頼まれたの。だから、感謝は師匠たちにして」
謙遜する夏梨が誠一郎にはおかしく思えた。
同時に自分は見捨てられていないという安堵の気持ちが誠一郎の中に広がった。
「来てくれたのは夏梨だろ。そこに感謝してるよ」
正面から真っ直ぐ感謝された夏梨は照れて頬を赤くし、誠一郎から目をそらした。
「さっそく始めましょう」
恥ずかしい心を隠すように、夏梨は持ってきた本の中から適当に一冊選び、特に意味もなく適当にページを開き机の上に広げた。
「目悪かったんだな」
夏梨が持ってきて床に積まれた本のタイトルを眺めながら誠一郎がぼそっと言った。
夏梨はどういうことだといわんばかりに首を傾げた。
誠一郎は自分の目元を指さして見せた。
そこでようやく夏梨は自分が眼鏡をかけていることに気が付いた。
再び彼女は慌てふためいた。
この様子を見ると、今までの人生ではこんな無防備な姿を他人にさらしたことは無かったのだろう。
それだけ気を張って生きてきたのだろう。
これも父親の影響なのだろうかと思うと誠一郎の心の中には苦い気持ちが込み上げてきた。
徹底して今後自分の下になるであろう人間には弱みを見せるなという教育方針なのだろうか。
弱みを見せないという強みを作ろうとした結果どうやら、それ自体が弱みになっているようだ。
自分というものを見られることになれていない夏梨は今にも泣きだしそうだった。
別に悪いことはしていないというのに何度も誠一郎に謝っている。
「着替えてくる」
しまいにはそう言って立ち上がった。慌てて誠一郎が止める。
「こんなみっともない格好じゃ人の部屋にいられないわ」
彼女は顔を真っ赤にして俯いている。
そんな夏梨を見て思わず誠一郎は笑った。
夏梨が涙で潤んだ瞳を誠一郎に向ける。
「その格好の方がなんか落ち着くよ。眼鏡も似合ってるし」
その言葉を聞き、夏梨は少し考えた後、元の位置に座りなおした。
「今度はちゃんとした格好で来るから」
まるで自分に言い聞かせるようにそう言ったあと、彼女は再び本のページをめくった。