第十九話 再戦
次の日の午後、誠一郎と夏梨が二人で回すベッドに先日受診した中村佑介が来院した。
夜泣きの方はもう問題ないという。
では今回はどういった症状で来院したのだろうか。
症例二:中村佑介、男性、一歳
主訴:便秘
現症:四日ほど前から排便が無い。綿棒浣腸も試してみたが、効果はなかった。綿棒浣腸は癖になり、自力な排便ができなくなる可能性があるため、あまり多用できず便秘の解消を目的に来院。睡眠は前回の治療以後特に問題はない。腹部に熱や冷えはなく、張りがある。食事、小便に異常なし。
当然担当するのは夏梨だ。
誠一郎は佑介親子を残し、夏梨をブースの外に連れ出した。
「手首大丈夫なのか? 怜子さんに任せた方が……」
小声で誠一郎が告げる。
彼の視線が向けられた先にはいまだに腫れている右手首がある。
「心配ないわ」
そう言うと誠一郎の返答など待たずにブースの中に夏梨は戻っていった。
患者を見送った東雲が待合室から戻ってきた。
事情は彼女も理解している。
誠一郎と共に東雲はブースに入った。
患者の気持ちとは意外と言葉にしなくても術者に伝わってしまう事が多い。
前回の治療で失敗してしまった夏梨に不安の眼差しを向けていた貴子は東雲がブースに入ったことで少し表情を緩ませた。
しかし、佑介に対峙する夏梨を見て再び貴子の表情が不安にかげる。
「心配しなくて結構ですよ。彼女は私の弟子です。この間は少し失敗しましたが、私が彼女の腕を保証します」
東雲がやさしい笑顔で貴子に語り掛けた。
その言葉を聞き、貴子の顔が再び少し緩んだ。
夏梨が金の鍉鍼を手にするのと同時に三人は意念空間に入った。
金色の棒を携えた夏梨が立っている。
その前ではごつごつとした岩のような邪気が猫背をさらに丸めて夏梨を見下ろしている。
おとぎ話に出てくるトロールのような風貌だ。
邪気が低く喉を鳴らす音があたりに響く。
裂けた様に大きな口の間から牙が見える。
地面にはその大きな口から垂れる大粒のよだれが落ちていた。
今回の邪気は気滞と呼ばれるものだ。
夏梨は躊躇することなく邪気に歩み寄ろうとした。
しかし、邪気の前に、子宮の中の胎児のように体を丸めた赤子が現れた。
前回の東雲の治療でおとなしくしていたはずの疳の虫が再び騒ぎ出そうとしていた。
そして糸が切れたように赤子は泣き出した。
夏梨の息が荒い。
手も震えているようだ。
その姿を誠一郎は真っ直ぐに見つめていた。
東雲も同じだった。
夏梨は誠一郎の方を振り返った。
顔が青い。
誠一郎は何も言わず頷いた。
夏梨は疳の虫の方へ向き直り、息を整え口を結んで気合を入れなおした。
「幻影」
夏梨は金色に輝く棒を目の前に突き出した。
みるみる棒が透けていく。
しかし、東雲の時のように完全に消えてしまう事は無かった。
目を凝らせば棒の輪郭が見える。
しかし、誠一郎はとても驚いていた。
この短期間で東雲からここまで技を盗んでしまうのはもはや天賦の才としか言いようが無かった。
夏梨は東雲がやったようにそのまま疳の虫へ向け歩き始めた。
沼に入っていくようにゆっくりと夏梨の身体が赤子の体を通り抜けていく。
しかし、ちょうど体が赤子と重なったとき急に動きが止まった。
金縛りにあったように夏梨は動かなくなった。
正確には金縛りを無理やり振りほどこうとするように、ほんの少しずつ足が前へ動いていた。
最後には抵抗を振りほどき夏梨は赤子を通り抜けた。
彼女は邪気の前に倒れ込んだ。
赤子は爆散し消えた。
しかし、空の黒雲は未だ漂っている。
「ちょっと強引だが及第点だな」
その言葉とは裏腹に東雲は弟子の成長が嬉しそうだった。
しかし、まだ終わったわけではない。
今回倒さなければならない邪気は疳の虫ではないのだから。
夏梨は邪気の前に倒れ込んでしまった。
駆け寄ろうとする誠一郎の襟首を東雲がつかみ東雲が止めた。
「この前の南雲の言葉を思い出せ。助けに入ることは許されないんだよ」
南雲の言葉というのは、鍼灸師は孤独で孤高な戦士という言葉を指している。
鍼灸師は一度一人の患者さんと対峙すれば、治療に関して誰かの手を借りることはないという事だ。
夏梨に邪気が迫る。
ごつごつとした夏梨の体よりも太い腕が彼女めがけすごい勢いで伸びる。
子供がおもちゃの人形を持ち上げる様に、軽々と夏梨の華奢な体は持ち上げられた。
そして次の瞬間彼女の体は茶色い砂の地面に叩き付けられた。
一度彼女の体は跳ね上がり、地面を転がった。
砂埃が舞う。我慢の限界を超えた誠一郎が東雲の手を振りほどこうとする。
しかし、東雲はその体のどこから出てくる力なのか全くわからないが、誠一郎の体を片腕で地面に押さえつけた。
何故だと言わんばかりに誠一郎は東雲の顔を見上げた。
「まだだ、まだ行くときじゃない」
東雲はそう言ったが、表情は険しく、歯は噛みしめられている。
彼女も随分と辛抱しているのだろう。
夏梨は何とか立ち上がることができた。
着ている青いスクラブと黒いスクラブは砂で柄をかいたようにあちこちが汚れている。
立ち上がった夏梨の膝はダメージの影響からか盛大に笑っていた。
それでも彼女はふらふらと邪気に向かい歩き始めた。
しかし、途中で金色の棒を落としてしまった。
夏梨は顔をしかめ右手首をつかんだ。
先ほど疳の虫に幻影を使ったとき、けがをしている右手首が技の負担に耐えられなかったということだろう。
手先を激しく使う幻影という技は、普段は何ともないが、けがをしている手には厳しい技だ。
誠一郎は起き上ろうと力を込める。
もちろん、夏梨の助けに入るためだが、驚くべきことに全く起き上ることができない。
意念空間だからという事もあるが、驚異的な力だ。
「まだだ、うちの弟子は私以上に器用だった。あれくらい問題はない」
東雲は夏梨をまっすぐに見据えそう言った。
誠一郎はあきらめて、事の行く末を見守るしかなかった。
夏梨は左手で金の棒を持ち上げた。
「幻影」
彼女は左手に握られた金色の棒を宙に突き出す。
すると、見る見るうちに透けていった。
右手でやったときと同じように完全にはすけなかったが、誠一郎は驚きを隠せなかった。
「驚いただろ? 夏梨は右手、左手の区別が無いぐらいにどちらの手でも鍼を操れるんだよ。その上器用なんだから鬼に金棒だな」
誠一郎を抑える東雲の腕の力が緩んだ。
誠一郎はゆっくりと立ち上がり砂を払った。
夏梨は邪気に向かっていった。
邪気の大きな左手が彼女めがけ振り下ろされる。
地響きと砂埃が舞った。
夏梨はその拳を避けることもなくすり抜けた。
そして悠然と邪気の懐に入った。
彼女の左手はまるで天を突くように振り上げられた。
鈍い音と共に邪気の喉元に鍼器が叩き込まれた。
苦しそうな雄叫びを上げ、邪気は爆散した。
それに引っ張られるように空の黒雲が飛散し青空が現れた。
意念空間から戻ると、夏梨が治療が終わったことを貴子に伝えていた。
意念空間では汚れていた着衣も乱れはない。
体に負った傷も意念空間から現実世界に影響を及ぼすことは特殊な場合を除いてない。
少し疑うような目を夏梨に向ける貴子に東雲は心配ないと太鼓判を押した。
様子を見ますと告げ貴子は子供を連れ帰った。
帰り際佑介は微笑んでいた。