第一話 出会い
木々の葉は鮮やかに色づいていた。
十一月中旬の京都の山奥は随分と冷え込む。
真昼間だというのに風が冷たい。
明帝鍼灸大学の食堂は学生でごった返していた。
針崎誠一郎は何とか温かいうどんを手に入れた。
しかし、室内は満席のようだ。
誠一郎は仕方なくテラス席を目指す。
当たり前だが、テラス席にはほとんど人がいない。
白いため息を吐きながら四人席に一人で座る。
明帝鍼灸大学に来て四年目の冬が到来しようとしていた。
京都の冬は以外と寒い。
骨身に染みる寒さは何年たっても慣れることはなさそうだ。
また一つ深いため息を着く。
痩せているわけではないが、すこし頬がこけているように見える。
彼が憂鬱なのは秋の寒空のせいではない。
うどんのどんぶりが乗ったお盆の脇に数枚の紙を置く。
そこには求人情報と書かれている。
そこに書かれている文面に目を落としながらうどんをすする。
とりあえず関西圏内の求人を適当に取ってきたもののぱっとしない。
「あなたも腕を磨きませんか」「目指せ五帝」などといううたい文句が踊っている。
「部活かよ……」
また溜め息が漏れる。
患者のために治療しているはずなのに、いつの間にか自分の腕を証明するためだけに治療をする鍼灸師ばかりがはびこってしまっている。
誠一郎は自分にはそう言った考え方は合わないと思っていた。
そうは言っても鍼灸は学びたい。
そんな葛藤がここ一年続いている。
ふと食堂の扉が開いて、中から小柄な男が出てきた。
誠一郎と同級生の岡田元道だ。
午前中鍼灸治療の実習に入っていた元道は白衣を羽織っている。
お盆にはうどんが乗っている。
誠一郎を見つけ、元道は歩を進めようとした。
しかし、一歩目が出るか出ないかわからない時点で、元道はお盆を落とし、前のめりに倒れた。
マネキンを後ろから押したらこんな倒れ方をするのではないかと、誠一郎はわけのわからないことを一瞬考えた後、口の中に残ったうどんをまき散らしながら元道の名を叫んだ。
食堂内の視線が一斉に元道に注がれる。
心配そうにしているが、誰も立ち上がろうとはしない。
金と権力の糧になる患者さんにしか一生懸命になれない人間が医療の道を目指しているのだからおかしな世の中だ。
誠一郎は元道のもとに駆け寄り背中を少し揺らした。
「おい、元道! しっかりしろ!」
声をかけても反応が無い。
誠一郎は自分の横に人が立つ気配を感じた。
見上げると一人の男が立っている。
髪の毛は長めのくせっ毛、無造作にぼさぼさだが、着ている白衣はシワ一つなく、白銀の雪のように白い。
目は見開かれ、眼光は猟犬のように鋭く、何かと戦う男の目をしている。
その男はしゃがみ込み元道を仰向けにした。
顏色が青白い。
元道は転んだ時に擦ったようで額に血がにじんでいる。
「彼の友達?」
男は元道の右手の脈を取った。
触っているのは親指側を流れる橈骨動脈だ。
鍼灸の脈診で一般的に用いられる脈だ。誠一郎は慌てて頷いた。
「治療している人間が質問したときはしっかりと声に出して答えろ。必要ないのに患者から視線を外させるようなことはするな」
男は厳しい口調でそう言った。
誠一郎は面喰ったが何とかすいませんと謝った。
「心配ないよ。すぐに起きる」
今度の口調は柔らかかった。
男は右の袖をめくった後、親指で元道の鼻と上唇の間の溝の中心を押した。
人中というツボである。
次の瞬間、白いもやが視界を遮ったような気がした。
思わず誠一郎は目を一瞬閉じた。
瞼を開けると周りにあった大学の景色が無くなっていた。
空は黒雲に包まれているが暗いと感じることはない。
寒さも感じない。
風も吹いていない。
夢でも見ているのかと思ったが、先ほどの白衣の男が目の前に立っている。
男は右の拳を突き出した。
すると拳がまっ黒な空間に消えた。
めくられた腕の筋肉が隆起する。
何かを引っ張り出そうとしているのだろうか。
かなりの抵抗があるように見える。
雄叫びと共に腕が引き抜かれた。
右手と共に黒い空間から出てきたのは白く淡く輝く元道の身体だった。
元道の身体が出てくると同時に、空を覆っていた暗雲は弾けたように一気に晴れた。
透き通る青空が広がっている。
男は一つ深い息をついてふと誠一郎の方を振り返った。
男は驚いた顔をしていた。
そこでまたもやがかかった。
気付くと大学の食堂の前で元道の横にいた。
元道は目を開けて体を起こした。
額の傷が痛むようで、額に手を当てている。
「元道! 大丈夫か?」
「うん。大丈夫。朝ご飯食べてなくて、ちょっとふらついてたんだよね」
元道は苦笑いを浮かべながら言った。
その言葉を聞いて男は立ち上がり去ろうとした。
「あ、あの……」
誠一郎は何かを言おうとしたが、言いたいことをまとめる前に喋り出してしまい、結局言葉に詰まってしまった。
「君は結構筋がいいね」
白衣の男は振り返ってそう言った。
先ほどの表情が錯覚かと思うほど目が細い。
まさに狐目という言葉がぴったりだ。
「ありがとうございます。あの、名前は何ていうんですか? あとさっきの夢みたいのは?」
言えたと思えば質問攻めだった。
コミュニケーションがうまく取れなくて恥ずかしくさえ思う。
「名札を見る癖をつけな。僕は南雲英忠。さっきのは意念空間って呼ばれているものさ。学生さんで全身完璧に入れる人はなかなかいないんだよね。君四年生?」
南雲と名乗った男は笑顔を見せながら言った。
二十代後半か三十代前半と思われる顔つきだが、笑った顔はもっと幼く見える。
誠一郎は頷いた。
意念とは東洋医学における概念で、明確なイメージのことを指す。誠一郎も意念空間について聞いたことはあったが、まさか自分が体験するとは思っていなかった。
ある程度熟練した鍼灸師でも両腕を意念空間に入れるので精いっぱいだと言われている。
全身意念空間に入れるのは選ばれた才能の持ち主だけだと聞いていた誠一郎はまさか自分がと思っていた。
逆に考えればこの南雲という男はものすごく腕の立つ鍼灸師という事になる。
「ちょうどよかった。君来年からうちで働かない? ちょうど求人出しに来たんだよ。この時期だとみんな決まっちゃってて、いい人いないかなって探してたんだよね。もしよかったら連絡ちょうだい」
南雲はそう言うと名刺を誠一郎に渡し風のように去っていった。
呆気にとられた誠一郎は目を白黒させるばかりだった。
名刺に視線を落とすと、「双雲鍼灸院院長 南雲英忠」と書かれている。