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幻想鍼医  作者: ジーン
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第十八話 過去

 数日後の休日、誠一郎と夏梨は地下鉄御堂筋線の車内で隣同士に座っていた。

何故こんなことになっているかというと、それは夏梨の前室の唐突な申し出によるものだった。

その日誠一郎はいつも通り業務をこなし、いつも通り帰路につこうとしていた。

ところがいつもとは違う事が起きた。

薄暗い中、治療院の前の自転車に向かうと、自転車のすぐそばの街灯の明かりの中に夏梨がたたずんでいた。

誠一郎は驚いて思わず声を上げた。


「何よ。人をお化けみたいに」


 夏梨はあからさまに口をとがらせて見せた。


「ごめん、ごめん。帰らないのか?」


 誠一郎は苦笑いを浮かべながら自転車のカギを外す。

夏梨からの返事は帰ってこなかった。

誠一郎が顔を上げると、彼女はうつむき、何やらもじもじとしていた。

いぶかしげな顔で、誠一郎は夏梨の顔を覗き込んだ。

目が合うと夏梨はすぐさま顔を逸らした。

誠一郎の頭の中に疑問符が舞う。


「えっと……、一緒に帰らない?」


 目を逸らしたまま、夏梨はそう言った。

予想外の言葉に驚いた誠一郎は意味を理解するのに時間がかかった。


「だめ?」


 誠一郎の表情を窺うように上目使いで夏梨が言った。

断る理由のない誠一郎は承諾した。

徒歩で通っている夏梨のために誠一郎は自転車を押しながら歩き始めた。

二人は並んで歩いた。

はたから見れば学生のカップルがどちらかの家に遊びに行く途中のように見える事だろう。

四月の心地よい夜風が二人を撫でる。


歩き出したはいいが、特に口を利くわけでもなかった。

しばらく歩き、横断歩道で信号が変わるのを待っているとようやく夏梨が口を開いた。


「明日暇?」


 目の前を行きかう車のヘッドライトを眺めながら彼女は言った。


「特に予定はないな」


「じゃあ一緒に梅田に行かない?」


 まさかの申し出続きで誠一郎の頭の中は若干混乱していた。

いったいどういう風の吹き回しなのだろうか。

急に親しく接してきているような気出してならなかった。

何か裏があるのではなどと心の悪魔がささやく。


「俺でよければ」


 努めて平然を装い、誠一郎は返答した。

その様子は、初恋の相手に褒められて本当はうれしいのにそっけない態度を取ってしまうまさにそれだ。


「じゃあ決まりね。朝九時に迎えに行くから」


 一面に花が咲くように夏梨の表情が一気に明るくなった。

誠一郎はまさに心を射抜かれるような感覚にとらわれた。

魅力的な満面の笑みは薄暗い夜道でもまばゆいばかりに明るかった。

隣に立つ誠一郎の肩ぐらいの身長の夏梨はすらりとスタイルがよく、どの角度から見ても人目を引きつけるという事に彼女を意識するようになり誠一郎は気づいた。

その後、アパートに着くまで特に何かを話したわけではなかったが、夏梨は鼻歌を歌いだしそうなほど笑顔だった。

二階の一番手前の部屋に住む夏梨が誠一郎よりも先に部屋に入る。


「じゃあ、また明日ね」


 そう彼女は手をひらひらと振りながら笑顔で扉の向こうに消えて行った。

誠一郎は自分の気持ちを整理するようにしばらくその扉を見つめていた。

部屋の中からは足音や物音が聞こえてくる。


 次の日の朝、誠一郎は部屋のテーブルの前で正座をしてそわそわしていた。

まだ約束の九時まで十五分ある。

しかし、いてもたってもいられなくなった彼は斜め掛けの赤いバッグを肩から掛け部屋から出た。

玄関のドアを開けたところで驚いて彼は恥ずかしい裏返った声を上げた。

扉を開けるとそこには普段の印象とは違い細いバンドのオレンジ色のリュックを背負いカジュアルなパンツとジャケットを着た夏梨が立っていた。

いつからそこにいたのだろうか。

間違いないのは今来たばかりではないということだ。


「あ、おはよう」


「お、おはよう」


 先に口を開いたのは夏梨だった。

二人はぎこちない挨拶をかわした。

さわやかな朝だというのに、何ともぎこちない空気が二人の間に流れる。

中学生の初々しいカップルのようだ。


「ずっと立ってたのか?」


 玄関の扉を閉めて鍵を閉めながら誠一郎が言った。


「そんなわけないじゃない。今来たところよ。ただ、まだ時間があったからまだ起きてなったりしたら迷惑かなと思ったり……思わなかったり……」


 何やら終盤の歯切れが悪い。


「十五分前で起きてないと思ったらむしろチャイム鳴らしてくれよ」


 自然と笑いがこみ上げてきた。

二人は堺東駅へと向かい歩き始めた。

昨日とは違い、お互いには笑顔が見える。


 梅田駅に到着したことを知らせるアナウンスが車内に流れる。

大阪はよく心斎橋や難波を中心とするミナミと梅田を中心とするキタという表現で分けられる。

キタにはJR大阪駅や世界一広いと言われる地下街、夜の街北新地などがある。

また、関西で最大の売り上げを誇るヨドバシカメラ、大阪の玄関口にそびえるツインタワーであるグランフロント大阪など一日では到底見切れないほど見所がある。

今日は日曜日という事もあり、地下鉄の乗り降りは激しかった。

ホームにも多くの人が行き交い、人の多さが休日であることを表していた。


「で、梅田まで来たのはいいけど、どこに行くんだ?」


 人ごみの中をすり抜け前を歩く夏梨に誠一郎はそう声をかけた。

梅田に行こうと漠然と誘われただけでどこに行きたいのか詳しく聞かされていない。


「まずはジュンク堂かな」


 夏梨は歩くのをやめず、振り返って言った。

彼女の前方からは歩きスマホをしながら歩いてくる青年がいる。

声をかけるよりも早く手が動いた。

誠一郎は夏梨の右腕を少し強引に引き、自分の横に引っ張った。

歩きスマホの青年はそのまま誠一郎にぶつかった。

あろうことかその青年は謝りもせず、舌打ちをしてその場を去った。

誠一郎の口からは安堵と怒りの混じったため息が漏れた。

引っ張るときに強引にしてしまったせいだろうか。

夏梨は右手首を少しさすっていた。


「大丈夫か?」


「うん。ありがと……」


 そう伏し目がちに言った夏梨の顔は少し赤かったように思う。

規則正しく流れる人の波の中で立ち止まる二人は行き交う人の注目の的だった。

誠一郎が促し二人は改札の外に出た。

どこを見渡しても人の渦だ。

二人は地上へと上がった。

目の前に阪急百貨店前の大きな通路が広がる。

と言っても、煩雑な人の流れの印象が強い。


「鍼灸の本を買いに来たのか?」


 人混みを縫うように歩く夏梨の後を追いかけながら誠一郎が声をかけた。


「そのつもり。なかなか普通の本屋には置いてないから」


 鍼灸の専門書は夏梨の言う通り取り扱う書店はかなり少ない。

町の本屋ではまず間違いなく置いていない。

現代ではインターネットという便利な代物があるので、手に入れるのは難しくないが、実際に本の中身を確認してから買いたいという人は実際にジュンク堂のように大きな書店に足を運ぶしかない。

医学書はあっても鍼灸関連の書籍は無いというところがほとんどだ。

ツボ(経穴)の本は置いてあるのに鍼灸の本はないという始末だ。だいたいのツボの本は一般人向けのセルフマッサージの本である。

この現状は鍼灸の世間の扱い方を表しているようにも思える。

しかし、これは鍼灸師側にも問題がある。本屋とて商売だ。

売れる本は店頭に並べるわけだ。

鍼灸師は勉強熱心な人が少なく、本を買わない人が多いから本屋に鍼灸関連の本が売ってないのだとも言われている。

この意見に関していえば業界としては全く反論ができない。

勉強熱心なのは一部の人で、その他大勢は本を買ってまで鍼灸の研鑽に励もうと思わないのだ。

誠一郎は地方出身のため、大学に入学する前は鍼灸の情報を取り入れるのに苦労していた。

本屋を手あたり次第あたってみても一冊も見つからないのだから。


 ガラス張りのビルの中にジュンク堂はある。

ビルの中と言っても、ビルすべてがジュンク堂だ。

一階から七階まで本棚の中に本がびっしりと詰まっている。

話題の小説から絵本、若者に人気の雑誌、はたまた浮世絵の画集までなんでもそろっている。

鍼灸の専門書は医学書と同じ六階にある。

二人はエスカレーターを登っていく。

目的の書棚を見つけた。

鍼灸の国家試験の問題集、治療院を成功させるためのノウハウが書かれたハウトゥー本、古典、漢方に関する本などが並んでいる。

鍼灸関連の書籍では関西、いや西日本でなら最大の品ぞろえがあるだろう。

しかし、実際に鍼灸関連の書棚に来てみると先ほどの言葉が身にしみてわかる。

医師や看護師関連の書棚にはそれなりに多くの人がいるのに対し、鍼灸関連の書棚だけ、空間がすっぽり抜けたように人がいない。

空いているというのは来ている人間からすればいいことだが。

夏梨は古典に分類された本を物色し始めた。

誠一郎も気になった本を手に取って見てみる。

一般的な外邪についての基本的な解説がされている。


「この本どう思う?」


 そう言って夏梨は一冊の本を誠一郎に渡した。

本には黄帝内経素問と書かれている。

黄帝内経は鍼灸の最も古い書物とされている本で、素問と霊枢という本からなっている。

誠一郎は持っていた本を棚に戻し、受け取った本を開いてみた。

すると、漢字だけが記号のようにびっしりと並んでいた。

当たり前のことだが、鍼灸は中国で生まれたものであるため、その最も古い書物となれば当然漢文である。

誠一郎は後頭部がむずがゆくなるような感覚に襲われ本を閉じた。


「ちょっと、ちゃんと見なさいよ」


「いや、読めないよ」


 誠一郎は本から目を逸らしながら夏梨に返した。


「読めないの?」


「読めないよ」


 驚いた表情の夏梨に対し、誠一郎は渋い顔で頷いた。


「今まで何で勉強してたのよ?」


「そりゃ、学校の教科書がほとんどだよ。基礎的なことを解説した本とかかな。臨床について書いてある本とか古典とかってあんまり読んだことないんだよ。だいたいにして漢文の読み方なんてわかんないし」


 誠一郎は手を八の字に広げ肩をすくめた。


「私も実はわかんないのよね……」


 夏梨はそう肩を落としながら言い、手に持っていた本を棚に戻した。

孔子の言葉に温故知新というものあるように、先人の知恵を学ぶことはとても大事なことだが、日本の鍼灸教育というものは国家試験に焦点を当てすぎて、その辺のところをおざなりにしている。

鍼灸の真髄を求める上で黄帝内経はとても重要なものになってくる。

それどころか、鍼灸の重要な書物は漢文であることが多い。

にもかかわらず、日本の鍼灸教育の場では大学、専門学校を問わず漢文の読み方はほとんど教えることはない。

その結果、古典を敬遠し重要な分野であるはずの古典をないがしろにする鍼灸師が多くなってしまうのだ。

黄帝内経をはじめとする中国の鍼灸の古典書かれている内容は現代でもほとんどのことが当てはまる。

つまり、国家は変化しても人体の構造や機能、自然の摂理などは変わっていないという事だ。


「日本語訳が載ってるやつにしたらどうだ?」


 誠一郎は背表紙に日本語訳と書かれた黄帝内経素問を棚から取って言った。

中を見ていると、先ほどの漢字のみの本よりはいくらか優しそうだ。

夏梨は誠一郎から本を受け取り中を見た。

誠一郎も彼女の肩越しに覗き込む。

漢字だけの白文の後に書き下し文、そして日本語訳が理路整然と並んでいる。

見慣れた日本語があるだけでこんなにも落ち着くものなのかと誠一郎は苦笑いを浮かべた。


「これにするわ」


 そう言って棚から同じシリーズの霊枢を取り、両手で抱える様に持った。

おもむろにもう一セット残っていた同じ本を手に取った。


「買うの?」


「俺も勉強してみようかなと思って」


 夏梨はふふっと小さく笑った。


「じゃあ、一緒に勉強しましょうか」


 悪戯っぽく笑いながら他の本を見る彼女を誠一郎は横で微笑みながら見ていた。

誠一郎と夏梨はその後もいくつかの本を手に取り、会計を済ませた。

会計をするとき、夏梨は小銭を床にばらまき、周りの人に拾ってもらっていた。

会計を済ませた夏梨は左手に本の入った紙袋を下げ、出口へ向かう。

その一連の動きが誠一郎の心に引っかかっていた。

ジュンク堂を出てすぐに誠一郎は夏梨の右手を取り手首を見た。


「痛っ」


 夏梨は小さく声を漏らす。


「腫れてるじゃないか」


「大丈夫よこれくらい」


 夏梨はすぐに手を引っ込め、歩き出した。

ため息を一つつき誠一郎は彼女の後を追った。


「喫茶店に入ろうか」


 夏梨がそう言って指さした先にはサンマルク・カフェがある。

二人は春の日差しが降り注ぐ道路に面した席に荷物を置いた。

レジに向かう列に並ぼうとする夏梨を誠一郎が止める。


「座っとけよ。何飲むんだ?」


 椅子を引いて誠一郎が促す。


「ありがと。ホットコーヒーがいいな」


 素直に椅子に座り、夏梨はそう言った。

財布を取り出そうとする夏梨を誠一郎は止めた。

コーヒー一杯ぐらいどうという事はないとレジに向かう。

しばらくして左手にホットコーヒー、右手には自分用のホットティーを持った誠一郎が席に着く。

コーヒーを受け取った夏梨はそれを口に運ぶ。

すぐさま彼女は熱さに顔をしかめた。

それを見て誠一郎は微笑んだ。


「いい天気だな」


 他愛もない話題が口を突いて出る。


「そうだね」


 夏梨は空を見上げそう言った。

ビルの合間から見える青空にビルの影から流れる雲が漂っている。


「一つ聞いていい?」


 コーヒーを覚まそうと息を吹きかけながら夏梨が言った。


「どうぞ」


 足を組み、背もたれに体を預けて誠一郎が促した。


「何で鍼灸師になろうと思ったの?」


 夏梨はコーヒーのコップをテーブルに置き、真っ直ぐに誠一郎の目を見つめて言った。

二人の間に春の穏やかな風が吹く。

ちょっと長くなるけどと前置きをして誠一郎はぽつりぽつりと話し始めた。


「中学二年の夏だったんだけど、おじいちゃんが肺がんで死んだんだ。それ自体がきっかけじゃないんだ。実はおじいちゃんは死ぬ二年前に余命が三か月だと告げられた」


 誠一郎の祖父清は肺がんだと診断された後、すぐに西洋医学的な治療を受けることは無かった。

というよりも、医者には手の施しようが無いと見放されてしまったのだ。

そこで清は湯治をしたり、東洋医学を試してみたりと自分なりに病気と闘った。

そのおかげなのかは定かではないが、彼は余命三か月と告げられてから二年間生きた。

最終的には酸素ボンベを必要とするほど呼吸機能が落ちてしまったが、亡くなる一か月前までは入院することもなく、残された時間を誠一郎を含む孫たちと過ごすなど、充実した生活を過ごしていた。

だが、病気には抗えなかった。

急速に弱り、入院を余儀なくされたのだ。

そして、がんの痛みが清を襲う。

それまで一切西洋医学的な治療を受けていなかった清だったが、体を襲う痛みを和らげるためにモルヒネを使う事を決めた。

しかし、モルヒネを投与し始めた途端、清の体はみるみる弱り出した。

それまではあった食欲も無くなり、液体も受け付けなくなってしまった。


「別にモルヒネが原因だったって決めつけるわけじゃないんだけど」


 そう言って一呼吸置くように誠一郎はコップを口に運んだ。

紙でできたコップの中身は温度が変わりやすい。

もう冷めてしまっている。


「まぁおじいちゃんががんだってわかって死ぬまでの間、西洋医学ではどうしようもないことや、わからないことがたくさんあったんだよ。もともと人のためになる仕事がしたいと思っていた俺は東洋医学を志そうと思ったわけさ」


 最後まで身じろぎせず真っ直ぐと誠一郎を見つめていた夏梨は何かを考え込むようにじっとテーブルに視線を落とした。


「悪かったな。あんまり明るい理由じゃなくて」


 暗くなってしまった空気を払うように、誠一郎は手をひらひらと振った。


「ううん。すごいしっかりした理由だと思うわ。学校にクラスメートにはなんとなく目指したとかいう人も多かったし、中には鍼灸師の仕事内容について全然知らない人もいたから」


 夏梨は視線を上げ、かぶりを振った。


「そういう夏梨は何で鍼灸師になろうとしたんだ?」


 その質問に明らかに夏梨の顔が曇る。


「言いたくなきゃいいけど……」


 気まずさが声色にも乗る。


「いいの。聞いてくれる?」


 再びかぶりを振る夏梨とは対照的に誠一郎は大きく頷いた。


「外から見れば世襲よ」


 夏梨は自分の両手に包まれたコーヒーの入ったコップを見つめながら溜め息のように言った。

夏梨の父である針村隆司は全日本鍼灸団体連合会を束ねる日本でも屈指の鍼灸師である。

その娘なのだから世襲と言われても納得できるが、何か裏があるのだろう。


「うちのお父さんはいわゆる野心家なの。そう言えば聞こえはいいかもしれないけど、簡単に言えば権力を求めすぎるのよ」


 夏梨は今日の天気とは正反対の重苦しい空気をまとっている。

夏梨の兄である正志は長男であるためもちろん順当に親の後を継ぐ道を歩み始める。

父の期待も大きかった。

しかし、娘でしかも末っ子の夏梨には鍼灸における期待を一切かけなかった。

幼少のころから隆司は息子に対し鍼灸を叩き込んだ。

しかし、過保護とは教育上よくないもので、順当に杜乃都鍼灸大学に入学したものの、自分の知識や技術に慢心していた正志は事もあろうに大学一年目にして留年してしまう。

その時隆司は相当焦ったことだろう。

針村という名門に傷がついたのだから、彼の性格を考えれば当然のことだ。

そこで、隆司は安全策をとることにした。

それこそが夏梨なのだ。

当時十二歳だった彼女の生活は激変する。

帝王学にも似た針村という名前の重さを思春期前の女の子は毎日叩き込まれた。

鍼の実技も嫌と言うほどさせられた。

その結果鍼を持つと精神的に不安定になってしまうほどに。


「それが原因だったのか……」


 夏梨の弱さの原因を知り、誠一郎は下唇を噛んだ。


「正直、今親元を離れて思うのは、父さんの考え方はちょっと過激すぎるという事ね」


 まるで他人事のように夏梨は言った。

彼女のいい方から、躾を通り越した体罰もあったのではないかと考えてしまう。

誠一郎はかける声が見つからなかった。


「でも、お兄さんはちゃんと鍼灸師になったんだろ?」


 何とか見つけた話題の選択に失敗したことに言った後に彼は気づいた。

案の定夏梨の表情は曇る。

休日でカップルの姿も多い中、はたから見れば別れ話をしているように二人は見える。

それだけ空気が重い。


「兄さんと東雲先生が婚約してることは知ってるでしょ?」


 誠一郎は口を結んだまま頷く。

正志は大学で一度転ぶだけに飽き足らず、勉学を怠った。

その結果、隆司が期待するほどの力をつけることができないまま大学を卒業し国家資格を取った。

さらに卒業後も思うように力を伸ばすことはできなかった。

そこで隆司がとった方法は五帝を家族に引き込むというものだった。

詳しくは語らなかったが、夏梨はそれが正志と東雲の婚約の理由だと言った。

そして、その婚約を利用し、夏梨は東雲の弟子として送り込まれた。

なんだかドラマのような話だと誠一郎の頭は深く考えるのを拒否していた。

ただ一つ言えることは、今のままでは針村家にはメリットがあるものの東雲がその婚約を飲む理由が無い。


「お兄さんが鍼灸師になったなら、夏梨が無理してなる必要もなかったんじゃないか?」


 重苦しい空気のせいなのか、誠一郎は喉がどんどん乾いて行くのを感じていた。


「別に鍼灸は嫌いじゃないんだけど、それ以上に私にも役割があるって父さんが言ってるの」


 夏梨はそう言いながら意味もなくコップを回していた。

まるで自分の駒のような言い回しだ。


「役割って何だよ?」


 だんだん誠一郎の心の中では怒りの感情が芽生えていた。

少し間があった。

言いにくいことなのだろうか。


「東雲先生の弟子に入れられたってことが深く関係してるいわ」


「まさか……」


 夏梨の言葉でその意味に気付いた誠一郎は絶句した。

無意識に身を引いていた。


「東雲先生たちと私はちょうど十歳ぐらい離れてる。つまり、東雲先生たちが三皇になるぐらいにちょうど私たちは五帝になれる年になるわ。私の役割は五帝の中に入ること。それができない場合は三皇五帝の誰かと結婚すること」


 自分を嘲笑するように夏梨は小さく笑った。

最後の一言は誠一郎の予想を超えていた。


「何だよそれ……」


 すこし誠一郎の声のボリュームが大きくなる。


「だから、南雲先生や……誠一郎に近づけって言われているわ」


 夏梨は再び自分の手元に視線を落とした。

誠一郎は勢いよく立ち上がった。

まだ理性が歯止めをかけているのかテーブルを叩くことはしなかった。


「今日誘ったのもそのせいか?」


 怒りを押し殺しているのがびりびりと伝わる。

周りの視線が二人に注がれている。


「疑われても仕方がないけど、そんなつもりで誘ったんじゃないわ」


 心なしか声が震えているように感じる。


「信じろって言うのか?」


「嘘ならこんな話はしないわよ」


 大きな声と共に夏梨の目から大粒の涙が落ちる。

それが誠一郎を冷静にさせた。

彼は静かに席に着いた。

店員までもがこちらに目を向けている。

心の中では男女の修羅場を楽しんでいることだろう。


「私はいつも父さんの言う通りに生きてきたの。今すごく父さんに疑問を持っている。でも……、どうすればいいのかわからないのよ」


 涙声の彼女の訴えは痛切だった。

通りに面した席に座る二人には行き交う人の視線も二人にくぎ付けだった。

中にはわざわざ立ち止まる人もいる。

テーブルにぽたぽたと涙のしずくが落ちる。


「泣くなよ……。自分の人生だろ? 自分で決めればいいじゃないか」


 泣くまいと口を結び夏梨は頷いた。


「たまに相談してもいい?」


 涙は止まったようだが、まだ若干しゃくりあげながら彼女は言った。

すがるような視線を誠一郎に向ける。


「もちろん。俺なんかでよければ。ただ、自分と結婚すればいいのかを相談されるのはなんか変な感じだな」


 苦笑いを浮かべる誠一郎につられ夏梨の顔にも笑顔が現れた。

それを見て誠一郎はほっと胸をなでおろした。


「でも、俺の事なんて知ってるんだな」


 残り少ない紅茶を口に運びながら彼はつぶやいた。


「父さんがこの業界の主要なことで知らないことはないわ。誠一郎は五帝に弟子入りしたんだもの。父さんじゃなくても知ってる人は多いわよ」


 だいぶ落ち着きを取り戻した夏梨がそう言った。

誠一郎は自分が業界に対して疎いことを痛感した。

三皇はおろか、南雲と東雲以外の五帝の名前すら知らない。

その弟子となればもってのほかだ。南雲に聞いてみようかと彼は考えを巡らせた。

ふと誠一郎は腕時計に目をやった。

時計の針は正午過ぎを指している。


「昼飯食べに行こうか」


「そうね」


 二人は残っている飲み物を同時に飲み干した。


「そう言えば、夏梨と昼飯食べるの初めてだよな?」


「そうかしら」


 二人は再び、人の波に身を任せながら歩き始めた。

誠一郎の記憶が正しければ、夏梨はいつも一人で治療院に残り昼食を取っていた。

今日は二人にとって新鮮なことばかりだ。

お互いに少し距離が縮まった気がしていた。

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