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幻想鍼医  作者: ジーン
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第十五話 弱さ

 次の日も双雲鍼灸院は通常運転だった。

乗員の心境は別だが。誠一郎は頭を悩ませ、あまり眠れない日々が続いていた。

職場の空気が悪く胃に穴が開きそうだ。

鍼灸院という世界は狭い世界だ。大きな病院のように何人もの従業員がいる世界ではない。

だいたいが十人に満たない住人で構成されている。

五人を下回ることの方が多い。

そんな狭い世界という事で従業員に係る人間関係のストレスは計り知れない。

一度拗れてしまえばそれをもとに戻すのは至難の技だ。

中でも誠一郎にストレスを与えていたのは午前中の受付業務だった。

夏梨は患者にはスマイルを振りまいていたが、誠一郎に対してのあたりはきつかった。

それは誠一郎が夏梨と比べ仕事がてきぱきとできないという理由もあるが、私の方が仕事ができると言わんばかりの態度を夏梨は取り続けていた。

 午後の診療は誠一郎にとって息が抜ける唯一の時間だ。

そんな考え方は良くないなと思いながら彼は師匠の隣で師匠の手元に見入っていた。

その鍼をうつ流麗な動作は誠一郎の心の靄を流していくようだった。

治療が終わり、誠一郎が患者を見送りに行くと、受付では一歳くらいの子供を抱いた若い女性を東雲と夏梨が対応していた。

新しく来た患者ではないようだ。

母親の顔は憔悴しきっている。

頬はやつれ、青白い顔には肌荒れが目立つ。

髪も荒れ、ぼさぼさの髪を何とか後ろで結んでいる。

きれいなポニーテールには程遠い。


「夏梨、診てくれ」


 カルテを手渡された夏梨は一瞬はっとした表情をしたが、すぐにいつもの涼しい表情に戻った。

カルテを受け取り治療ブースへと誘導していく。

誠一郎がブースへ戻ろうとすると、通路の奥の扉に寄りかかるように南雲が立っていた。

何か考えているのか眉間にしわが寄っている。

いぶかしげな表情で誠一郎が近づくと彼はゆっくりと顔を上げた。


「夏梨ちゃんにはあの患者さんは荷が重いな」


 誠一郎に言ったのか独り言だったのか抑揚のあまりない言葉が南雲の口から漏れた。


「どういうことですか?」


 思わず聞き返す。


「実際に見てくるといいよ。一つ言えるのは、僕が同じ立場なら、あの患者さんを誠一郎に任せるようなことは絶対にしないね」


 そう言い残して南雲は奥の部屋へと引き上げて言った。

誠一郎の心の中には何とも言えない不安が広がる。

いつも軽い表情を浮かべている南雲がまったく笑みを浮かべず、低い声で言った言葉は誠一郎の心に突き刺さった。

すぐに夏梨たちがいるブースへ向かった。

見学を申し出ると東雲は快く承諾してくれた。

彼女の眼は厳しく夏梨を見定めている。

温度の低いオーラが体からあふれ出ている。

患者の母親と話す夏梨の顔が少し青い気がする。

緊張しているのだろうか。

いつもの毅然とした雰囲気が感じられない。


症例二:中村佑介、男性、一歳

主訴:夜泣き

現症:生後すぐに夜泣きが始まり、授乳してもなかなか寝ずに、粉ミルクをあげても寝ない。眠りについたとしても一時間後には起きてしまう。昼寝もあまりしない。昼間はよく運動させている。昼も夜もあまり寝ないため、育児と家事に追われ、母親が憔悴しきっており、夜泣きの改善を求め来院。本日は三回目の受診。最初の治療から夜泣きの回数が減り、今は二時間に一回のペースになっている。昼寝もするようになってきた。食事、大小便に異常なし。


 心なしか、夏梨の手が震えているように見える。

彼女は包装を開け、双雲鍼灸院にある刺す鍼の中で最も細い鍼を取り出した。

そして次の瞬間には意念空間へと入った。

夏梨と意念空間を共有するのは今回が初めてだ。

今回は東雲もいる。

夏梨の目の前には自分の体を抱え込むようにして宙に浮いた佑介君がいる。

目を閉じて寝ているように見える。

その顔は穏やかで、親を悩ませている子供には見えない。

今回の邪気はいったい何なのか。

東雲は仁王立ちをして腕を組み、夏梨の背中を見つめている。


「鍼器」


 夏梨は右手を宙に突き出した。

その腕にまとわりつくようにパイルバンカーが姿を現す。

突き出た杭は鋭利にとがっている。

夏梨のまなざしは獲物を狙う鷹のように鋭い。

息は荒い。

夏梨は宙に浮く赤子に向かい一歩踏み出した。

次の瞬間、宙に浮いている赤子は目を力の限り見開き空気を思い切り揺さぶりながら泣き出した。

思わず誠一郎は耳を塞いだ。

勢いに押され、夏梨は一歩後ずさった。

赤子の体はその名の通り真っ赤に染まっていく。

皮膚にもびりびりと伝わる轟音の中で、東雲は身じろぎ一つせず悠然と立っていた。

その視線は夏梨を捕らえたままだ。

夏梨の呼吸が早くなる。

いくら深く吸おうとしても息が吸えない。

完全に邪気に飲まれている。

小児では多く見られる疳の虫と呼ばれる邪気だ。

夏梨は震える自分の肩を抱き、ついには膝をついてしまった。

邪気と戦える状況ではない。

このままでは治療をすることができないまま、邪気に意念空間からはじき出されてしまう。

そうなれば今日は再び治療することはできない。

誠一郎に夏梨を助けたいという気持ちは無かったが、患者をこのままにしておきたくないという気持ちは強くあった。

無意識のうちに鍼器を呼び出そうとしていた。

しかし、今の今まで身じろぎ一つせず、まったく表情を変えなかった東雲が誠一郎の右腕をつかみ、鍼器が腕に装着されるのを防いだ。


「何故ですか? このままだと佑介君は……」


 そこまで言ったところで東雲の鋭い目が誠一郎を射抜いた。

その鋭さに、誠一郎はその先を口にすることができなかった。


「鍼灸師は孤独で孤高な戦士だ。一度患者の前に立ち、邪気と対峙すれば戦うときは一人だ。鍼を抜いたり、お灸のアシスタントをしたりすることはあっても、治療しているときに他の誰かが一緒に鍼を打つなんてことは普通は無いだろ? それは意念空間でも同じことさ」


 いつのまに意念空間に来たのかわからないが、誠一郎たちの後ろに南雲が立っていた。


「でも、それじゃあ……」


 理屈はわかるが、納得できないという様子の誠一郎を南雲が手で制した。


「ただし、師匠は例外さ。そうだろ怜子?」


 いつもの軽い笑みを浮かべながら南雲は東雲に問いかけた。

それに対し、東雲は静かに頷いた。

誠一郎の腕をつかんでいた手を放し、その腕に鍼器をつかんだ。

黄金に輝く身の丈を超える長い棒だった。

その棒を携え、東雲は夏梨と赤子の間に立った。

 現実世界で東雲はポケットから金色の小児鍼を取り出していた。

東雲の所に来る患者には小児の患者が多い。

彼女は小児鍼の第一人者として日本中に名が轟いている。

小児鍼の場合、成人に使うような鍼を使えば刺激が強すぎる場合があるため、小児鍼という専用の鍼を使う。

鍼と言っても刺すのではなく、こすったり、転がしたり、押したりと様々な種類の小児鍼がある。

その中で夏梨が手にしたのは先端が丸みを帯びた棒状のいわゆる鍉鍼と呼ばれる種類の鍼だ。

素材は十八金で手に伝わる重量感は高級感を醸し出す。

泣き叫ぶ我が子を見て母親の貴子は拒絶反応を示す様に顔をさらに青くした。

東雲が大丈夫だと声をかける。

 意念空間でも赤子の泣き叫ぶ声がいまだに空気を揺らしていた。

東雲は黄金の鍼器を両手でつかみ、体の前に突き出した。


「|幻影〘ミラージュ〙」

 彼女が轟音にかき消される声でそうつぶやくと黄金の鍼器は段々と透けていく。

最後には姿を消してしまった。誠一郎は夢でも見ているのかと目を見開いてみたが、まったく見えなかった。

何も持っていないように見える東雲が赤子に悠然と近づいていく。

そして次の瞬間、再び目を疑う出来事が起こった。

東雲の身体が宙に浮く赤子の体をすり抜け、そのまま歩いていった。

まさに開いた口が塞がらない。

東雲が振り返ったときには赤子は泣き止み、赤く染まった肌もきれいな色白な肌に戻っていた。

そして、空を覆う黒雲が晴れる。

誠一郎は驚きすぎて少しパニックを起こしていた。

現実世界ではないため、多少わけのわからないことが起きても耐性ができていたが、東雲の施術はそのさらに上を行っている。

驚いている間に誠一郎たちは現実世界に戻ってきていた。

東雲の施術を受けた親子はとても喜んで帰っていった。

泣き叫ぶ子供に一時は取り乱しそうになっていた母親だったが、子供が泣き止み穏やかな表情を浮かべているのを見て、優しい母親らしい笑みを浮かべていた。

患者を見送った後、夏梨は奥の部屋へと駆けて行った。その後を、東雲が追う。

心配になった誠一郎も様子を見に行った。

彼が部屋に入るとうつむいたままの夏梨とそれを見下ろす様に立つ東雲が対峙していた。

おそらく怒っているのだろう。

東雲からは冷たい空気が流れ出ている。


「カルテをしっかり確認しなかったね? もし確認していれば毫鍼を選択するなんていう事はしないはずだ。臨床の現場ってのは患者一人一人に臨機応変に対応しなきゃいけないんだ。学校の成績がよかったって臨床に使えなきゃ意味が無いんだよ」


 彼女の口調は厳しかった。

いきなり難しい患者を任せた挙句こんなことを言い出すのだから理不尽じゃないかと思われても仕方ないかもしれないが、誠一郎は東雲が不安に感じていたのはこの事だったと気付いた。

夏梨は机に向かう勉強は素晴らしく成績が良いが、実際の臨床能力はそこまでではなかったのだ。

臨床能力が無いというよりも、患者を前にすると緊張や不安感などから、実力を十分に発揮できないという問題があると言った方が正しいだろう。

夏梨自身にもその自覚はあるのだと思う。

手が震えたり、青い顔をするのはそのせいだ。

夏梨は限界を超え溢れだした涙を隠す様に外へとつながる奥の扉から出て行ってしまった。

沈黙が部屋を包み込む。

目をやると東雲の顔には頼むと書かれていた。

誠一郎は夏梨の後を追った。

 東雲が治療室へ戻ると、ちょうどドアの横の壁に南雲がもたれかかっていた。


「盗み聞きするつもりはなかったんだけどね」


 その顔に笑みは無い。


「あの患者さんを夏梨ちゃんに任せればこうなるってわかってたでしょ?」


 その問いに東雲は下唇を噛んで無言を返した。


「下手すると立ち直れないよ」


 南雲のその言葉に一瞬彼女は体を震わせた。

そうなる可能性があることは理解していたようだ。


「この前あんなことを言われたからとか、家族間の問題でとかそういう理由じゃないんだよ」


 東雲の口調はとがめられて言い訳をする学生のようだ。

わかってるよと南雲は柔らかい口調で言った。


「私には人材育成なんて向いてないのさ。どうしていいかわからないよ」


 今にも消えそうな口調で東雲がそう言う。

誠一郎や夏梨には見せない弱々しい一面が露呈されている。


「あきらめるなよ。弟子を取れると喜んでいたじゃないか。それにここは僕と怜子の治療院だ。困ったことがあるなら僕を頼ってくれ」


 南雲は東雲に向き直り、真剣な眼差しでそう言った。

東雲は弱々しく笑い、誰もいない治療ブースへ姿を消した。

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