第十四話 星のない空
それから何日かぎくしゃくした空気が続いた。
患者の前ではコミュニケーションをとるものの、臨床から一歩外れれば全く会話などなかった。
南雲と東雲は患者に不穏な空気を悟られないように必死だった。
そんなある日の帰り道、誠一郎は治療院に忘れ物をしたことに気がついた。
家の鍵が無い。
アパートへの帰り道、信号待ちでふと確かめたズボンのポケットは空っぽだった。
治療院の自分の机の上に鍵を忘れてきたことを思い出し、誠一郎は思わず声を漏らした。
信号待ちしている人たちがいぶかしげに誠一郎を見つめている。
その視線を振り払うように踵を返し双雲鍼灸院へ自転車を走らせた。
数分後、誠一郎は双雲鍼灸院の目の前で自転車に鍵をかけていた。
院内には明かりが灯っていた。
扉を開けて中に入る。
しんと静まり返った待合と治療室を抜けて奥の従業員用の部屋の扉を開ける。
顔をあげて誠一郎を迎えたのは東雲だった。
南雲の姿はない。
お疲れ様ですと誠一郎は頭を下げた。
すぐに東雲は机の上に広がる書類に目を落とした。
「師匠はどこに行ったんですか?」
自分の机から部屋の鍵を取りながら誠一郎は言った。
「コンビニに行ったよ」
椅子の背もたれに体を投げ出し、目頭を押さえながら東雲が答えた。
患者の前では絶対に見せない疲れがあふれ出ている。
ふと東雲の机の上に目をやると、そこに広がっている書類に目をやるとすべて夏梨のサインが入ったカルテだった。
夏梨と誠一郎は午後交代で患者に施術していた。
夏梨が双雲鍼灸院に来てから、東雲は毎日毎日同じ作業を続けていた。
日ごとに増えていくカルテを毎日一から見直していた。
当然作業の時間は日に日に伸びて言っていた。
弟子の書いたカルテをすべて確認しているにはどんな理由があるのだろうか。
「毎日見てるんですか?」
「ん? あぁ、毎日見直してるよ」
今度は背中を丸めて頬杖を突き東雲が言った。
「何でやってるんですか?」
その質問に対して彼女は深いため息をついた。
誠一郎はしてはいけない質問をしてしまったかと肝を冷やした。
「それは、また今度な。それより、ちょっと付き合え」
憂いを少し含んだ表情で立ち上がった。
双雲鍼灸院には裏口がある。通りに面しておらず、塀で囲まれている狭い庭があるだけなので、ほとんど使われることはない。
しかし、カフェテラスにあるようなおしゃれな椅子が二脚と、小さいテーブルが一つ。
横に並んだ椅子の間には喫煙所に置いてありそうな無骨な灰皿が立っている。
部屋のぼんやりとした明かりが短い雑草を照らす中、東雲のつけた煙草の火がぼんやりと浮かんだ。
誠一郎は東雲に促され横に座った。
「夏梨の事どう思う?」
紫煙が暗闇に消えていく。
「えっと……、別に、好きとかそう言うんじゃないです」
唐突な質問に若干声が上ずった。
「そういう意味じゃあないよ。鍼灸師としてさ」
おぼろげに見える東雲の表情は少し柔らかくなったように見える。
的外れな回答をしてしまったことで、誠一郎は火を噴きそうなほど恥ずかしかった。
「なんていうか、優等生って感じですね。すごく勉強できる印象です」
「そうか、確かにすごく勉強しているのは伝わるな」
東雲は誠一郎が自分の感じている通りの回答をしたことに対してため息交じりで言った。
「不安だな……」
思わず口をついて出た。
「何故ですか?」
当然の疑問だった。
優秀な弟子が入ってきたことは家庭の事情を抜きにしても本来喜ばしいことのはずだ。
東雲は優秀な部下に自分の実力が追い抜かれる心配もないはずだ。
そんなことを心配するほど度量も小さくない。
「今のは聞かなかったことにしてくれ……」
それだけを言って東雲は口を閉ざした。
話すつもりはないと言いたげだ。
もやもやとした気持ちを抱えたまま、誠一郎は空を見上げていた。
もう日の沈んだ夜空には都会の明かりに隠され星は瞬いていなかった。
紫煙を吐きながら東雲は煙草を灰皿に入れた。
じゅっと火種が水に落ちる音が鳴った。
それと同時に扉が開き、南雲が顔を出した。
手にはコンビニのビニール袋が下げられている。
「おやおや、夜の密会かな? 失敗したな。怜子の分しか飲み物を買ってこなかった」
軽口をたたいた後、困ったように南雲は頭をかいた。
「別に隠してなんかないよ。その飲み物は誠一郎にやってくれ」
東雲はそう言いながらもう一本の煙草に火を着けた。
その視線は煙の先を見る様に遠くを眺めていた。
寒空の下東雲を一人残し、誠一郎たちは治療院の中へと戻った。
夏梨が来てからというもの、誠一郎の心の中にはもやもやとした気持ちが広がっていた。
優秀で素晴らしい人材の彼女に何があるというのだろうか。