十三話 暗雲
数時間後、四人はジョッキを合わせていた。
夏梨を歓迎するための乾杯がなされた。
自分が主役だというのに、夏梨の仏頂面は変わらなかった。
誠一郎はなんとなく居心地の悪さを感じていた。
何故東雲は夏梨を弟子に取ったのだろうか。
聞きづらい疑問が誠一郎の頭に浮かんだ。
嫌な空気にまとわりつくように東雲の吐く紫煙が部屋を漂っていた。
店内は賑やかな声に囲まれている。
個室じゃなければ店の中で浮いていたことだろう。
「今日一日どうだった?」
一杯目という事もあり、ジョッキに入ったビールを南雲は口に運んでいる。
「これも仕事ですか?」
夏梨はジョッキをテーブルに置き、南雲を見据えてそう言った。
誠一郎は夏梨が質問に答えなかったことにも驚いたが、それ以上に彼女の凍えるような冷たい口調に驚いた。
にこやかな表情を変えない南雲の心境を読むのは無理だった。
あまりに唐突なことだったので、夏梨の本心を読み解くこともできない。
どれぐらいの間があったのかわからないが、東雲が紫煙を吐き出す音が時間を再び動かした。
「夏梨は歓迎される側なんだから、仕事なわけないだろ?」
煙草は灰皿に押し付けられた。
「この際だからはっきり言っておきますけど、私はあなたと仲良くやっていくつもりはありませんから」
夏梨の視線は東雲を射抜いていた。
完全なる敵意を夏梨から感じる。
本来師弟関係において存在しえないようなどす黒い感情が伝わってくる。
まだ始まったばかりの師弟関係においてはなおさら不可思議なことだ。
ここまではっきりした敵意を感じている相手に弟子入りなどまずしないだろうし、受ける側も拒否しそうなものだ。
誠一郎は今にも砕け散ってしまいそうな張りつめた空気に堪えられずおろおろとしていた。
「まぁまぁ、夏梨ちゃん……」
「あなたともなれ合うつもりはありませんから。もとはといえばあなたのせいでもあるんだから」
なだめようとした南雲をぴしゃりとシャットダウンした。
南雲は肩をすくめて見せた。
どんな事情があるか知らないが、師匠たちに随分な言い草じゃないかと誠一郎の中に怒りの種が燃え出した。
おせっかいと言われればそれまでなのかもしれないが、せっかく南雲たちがセッティングした歓迎会の場において、年長者の顔に泥を投げつけるような行為はいただけない。
夏梨は最後に鼻を鳴らし、荷物をまとめて部屋から出て行った。
南雲は止めなかった。
誠一郎が席から立ち上がろうとするのを手で制した。
東雲が夏梨を追いかける。
荷物は部屋に置いたままだ。
珍しく普段はきれいに整った彼女の表情が苦虫を噛み潰したように歪んでいた。
誠一郎と南雲の間には重たい空気だけが残された。
さすがに南雲の顔からも笑みが消えていた。
テーブルに置かれたジョッキに注がれた視線は動くことはなかった。
対照的に誠一郎の視線は宙を泳いでいる。
この空気をどうすればいいのか彼には全くわからなかった。
個室であることが恨めしい。
時計を確認することも叶わない。
いったいどれだけの時間が過ぎただろうか。
数分しかたっていない気もすれば、数時間過ぎているようにも感じた。
唐突に部屋の襖がノックされた。
驚きのあまり誠一郎は飛び上がった。
はいと南雲が静かに答える。
襖があくとそこには店員が枝豆やら唐揚げやらをお盆に乗せて立っていた。
まだ、店に入って間もなく、突き出し以外はテーブルに並んでいないという事をすっかり忘れていた。
ただならぬ空気に加え、入店して間もない部屋から早くも二人、しかも女性が消えて男性が残っている状況をだいぶ不審そうにしていたが、業務をこなし部屋から出て行った。
ふうっと南雲が一つ大きな息を着いた。
「なんか、ごめんね」
少し、暗い表情を浮かべ南雲が言った。
顔に影が落ちているように見える。
「いえ、とんでもないです」
誠一郎は慌てて否定しようとして、わけのわからない返答にならない返答を口走った。
本当は困惑など様々な感情が渦巻いているにもかかわらず、その感情を意識せずに隠そうとするのは日本人特有の習性なのかもしれない。
「何で怜子さんは夏梨を弟子に取ったんですか? 明らかにおかしくないですか?」
様々な感情が渦巻く誠一郎の心境の中ではっきりとしていたのは、夏梨へ対しての嫌悪感だった。
「まぁ、そうなるよね……」
細い目を伏せて、再び溜め息を吐いた。
しばらく沈黙が二人の間に降りた。
南雲は無言のまま枝豆に手を伸ばした。
男にしては細くすらりとした手から枝豆の空が皿に向かって弾き飛ばされた。
「怜子は夏梨ちゃんを自分で選んだんじゃないんだ」
もう理由が語られることはないのかと思った矢先、驚くことがたくさんあると思うけどと前置きをして南雲がぽつりぽつりと話し出した。
「怜子には婚約者がいるんだ」
枝豆の空がもう一つ宙を舞う。
「師匠ですか?」
「僕? まさか」
思わず聞き返した誠一郎の質問に対して、南雲はどこか寂しそうに苦笑いを浮かべて答えた。
「|針村正志〘はりむらまさし〙って男さ」
苦笑いは嘲笑に変わった。
いつも笑みを浮かべている南雲だが、こんな笑いを浮かべるのは珍しかった。
誠一郎は針村という苗字を聞いてはっと気づいた。
「夏梨ちゃんのお兄さんんだね。それと同時に全日本鍼灸団体連合会会長である針村隆司の息子だ。夏梨ちゃんは末っ子なんだ」
突然出てきた大物の名前に誠一郎は身震いした。
「針村家は代々続く鍼灸師の家系で、正志も夏梨ちゃんもサラブレッドってわけだね」
南雲の表情は晴れなかった。
まだ半分ほど残っているジョッキのビールを一気に飲み干す。
そして、店員を呼ぶためのボタンをおした。
何とも間の抜けた音が鳴る。衝撃的な情報が南雲の口から発せられたが、一つの疑問も解決していなかった。
「その話だけだと、怜子さんと夏梨が仲が悪いって理由は説明できませんよね」
誠一郎は畳みかける様に身を乗り出してそう言った。
まいったなと言わんばかりに南雲は頭をかいた。
ちょうどよく店員が注文を聞きに来た。
南雲はもう一杯ビールを頼んだ。南雲に目で促され、誠一郎もビールを頼んだ。
「怜子は正志を愛してはいないんだ」
安っぽいドラマに出てきそうな言葉をまさか自分が聞かされるとはと誠一郎は驚いた。
ありきたりなセリフだが、実際に聞くことはそうない。
「どういう事なんですか?」
「僕も詳しいことはわからないんだけど、針村隆司が仕組んだ政略結婚らしい。それを利用して夏梨ちゃんを怜子の弟子に無理やりねじ込んだってことなんだ。どうやら夏梨ちゃんは望んでないようだけどね」
そう吐き出す様に言うと南雲はジョッキをあおった。
相当きな臭い話だ。この現代社会に政略結婚なんてものがまだあったこともそうだが、東雲のようなこういったことを一番嫌いそうな人種がその渦中にいるという事が一番誠一郎の不信感をあおっていた。
何か特別な理由がありそうだ。
誠一郎が深いところに踏み入った質問をしようと思った瞬間、部屋の襖が開き東雲が姿を現した。
表情からあまり状況は思わしくないという事が伝わってくる。
「悪かったね。せっかく集まってもらったのに」
気丈にふるまおうとしているのが余計に痛々しかった。
東雲は席に座ると残っていたビールを飲み干し、煙草に火をつけた。
「夏梨ちゃんはどうしたんだ?」
「帰ったよ。私を認める気はないとさ」
ため息とともに紫煙が舞う。
「誠一郎君には事情を話しておいたよ」
「そうかい。悪かったね誠一郎。私の問題に巻き込んじまって」
誠一郎は無言でかぶりを振った。
何と言っていいかわからなかった。
また沈黙が降りる。
「愛していないなら婚約なんかしなければよかったんじゃないか?」
最後の枝豆を手に取った南雲が言った。
ほっといてくれと言わんばかりに東雲が鼻を鳴らす。
やはり、語りたくない事情があるのだろうか。
「昔からそうだけど、怜子は自分のこととなるとそうやって抱え込む癖がある。まぁ、言いたくないならいいけど、困っているなら力になるから言ってくれ」
南雲の言葉はゆっくりとナイフを体に刺していくように鋭く重かった。
それだけ彼も心配しているのだろう。
「そうなったら言うさ。さて飲み治しだ」
南雲の言葉をかわす様に東雲は気丈にふるまった。
その日は皆が心にかかった暗雲に触れないようにぎこちなく会話を交わしながら夜が更けていった。