第十二話 不安
次の日の朝、まだ薄暗いうちから誠一郎はベッドを抜け出し支度を始めていた。
昨日よりちょうど一時間早く彼は起床していた。
身支度を済ませ、朝食を軽く取りマウンテンバイクにまたがる。
一つ気合を入れてから自転車を漕ぎ出した。
朝の冷たい風が心地よかった。
午前八時前、誠一郎は意気揚々と治療院の扉を開けた。
しかし、彼はがっくりと肩を落とすことになる。
すでに診療は行われていた。
「おはよう誠一郎君。早かったね」
昨日と同じ反応を南雲は示した。
思わず誠一郎はため息をついた。
「師匠たちは何時から鍼打ってるんですか?」
今日こそは患者さんが来る前に治療院に到着することができたと確信していた誠一郎はなかば呆れ気味に言った。
「今日は七時だね」
現代の日本においてこんなに朝早くから診療を開始する鍼灸院がどれだけあるのだろうか。
「明日からはもっと早く来ます」
朝のさわやかな気分はどこかへ吹っ飛び、落ち込んだ声が口から出ていた。
「無理しなくていいよ」
カルテの整理をする南雲はいつもの軽い声でそう言った。
「いえ、この鍼灸院の一員ですので」
先ほどの口調と一転して、今度は力強く答えた。
「そうだよ。本人がやるって言ってんだからいいじゃあないか」
施術を終えた東雲が患者と共に待合室へと顔を出した。
口調や雰囲気は少しきつく感じる東雲であったが、夏梨とはまるで別物だと誠一郎は感じた。
その違いは何故なのかという問いには答えは出なかった。
「そう言えばお弟子さんは来られてるんですか?」
患者を見送った東雲に、誠一郎は声をかけた。
治療院の中に今の時点で待っている患者はいない。
「まだ来てないよ。初日の誠一郎と一緒さね」
まさに馬のしっぽを思わせるポニーテールを結い直しながら東雲が言った。
誠一郎は昨日のことを思い出していた。
集合時間は九時だと伝えられていた。
あの気の強そうな顔が驚いた表情はどんなものかなどと言ったことを考えながら誠一郎は受付の椅子に座った。
今日も午前中はこの業務をこなさなければならない。
夏梨が来たら協力してやってほしいと東雲に言われたが、よくよく考えれば、誠一郎も夏梨もいない状態で、治療から受付まですべてをこなしていたのだから、改めて双雲とは化け物だと感じる。
正規の診療時間前にぼちぼちとくる患者に対応しながら誠一郎は時計に目をやった。
時刻は八時四十五分。
そのとき、入り口のドアが開いて夏梨が姿を見せた。
服装は誠一郎と同じく、黒いズボンと青いスクラブ。
誠一郎と違うのは胸にふくらみがあることだった。
夏梨は待合の患者と誠一郎の顔を交互に見つめ目を白黒させた。
誠一郎はその反応に思わず吹き出しそうになった。
その一方で自分もこんな感じだったのかと思い、少し恥ずかしく感じていた。
ちょうどよいタイミングで東雲が待合室に入ってきた。
「おはよう夏梨」
打ち合わせでもしているのかと思うほど東雲は昨日南雲が誠一郎にしたのとまったく同じ反応をして見せた。
「おはようございます。遅れてすみませんでした」
驚いてきょとんとしていた夏梨だったが、すぐにきりっとした気の強そうな表情を取り戻し、深々と頭を下げた。
この後のやり取りも役者を変え昨日の再現をしているようだった。
当然夏梨の午前中の業務は受付業務だ。
昨日一日経験のある誠一郎がひと通りの流れを説明する。
夏梨は驚くほど容量がよく一度の説明で完璧に理解して見せた。
一日の経験など簡単にひっくり返されてしまった誠一郎は夏梨の優秀さに感服せざるを得なかった。
大きなカウンターの裏に誠一郎と夏梨は椅子を並べて座り、患者が来るのを待っていた。ふと誠一郎の左わき腹に夏梨の拳が突き刺さった。
体をくの字に曲げ、誠一郎が悶絶する。
「何で集合時間が違う事を昨日教えなかったのよ」
夏梨は入り口を見つめたきれいな姿勢のまま小声で言った。
「俺も昨日は同じような感じだったんだよ」
「知らないわよ。最初から恥かくなんて最悪だわ」
誠一郎はまるで昨日の自分を見ているようだった。
午前九時になり、患者が本格的に来院し始めてからは二人の間に無駄口をたたく時間などなかった。
寄せては返す波の如く、来院する患者は絶え間なく、追われるように時間は過ぎていった。
誠一郎は夏梨がいる分、昨日よりはいく分仕事は楽だと感じていたが、疲労の色は隠せていなかった。
対照的に夏梨は涼しい顔で、少し残った仕事を片付けていた。
二人で行った午前中の受付だったが、圧倒的に夏梨の方が仕事ができていた。
あれよあれよという間に午前中の診療は終わりを告げた。
「やぁ、お疲れさま。どうだった?」
奥から顔を出したな南雲があくび混じりにそう言った。
細い目からは涙が流れている。
「師匠。お疲れ様です。昨日よりは慣れました」
「これくらいどうってことありません」
自信なさげな誠一郎と対照的に夏梨はそう言い切った。
「それは結構だね。そうそう、今日は夏梨ちゃんの歓迎会だから七時に駅前集合ね」
「今日するんですか?」
思わず誠一郎は聞き返した。
まだ、今週は始まったばかりだ。
明日に影響するのではないだろうか。
そんな心配をよそに夏梨は快諾していた。
「心配ないよ。誠一郎君の時も早めに切り上げたでしょ?」
そう言えば、先日の飲み会の後、ふらふらになりながら帰って確認した時計は確か日にちをまたいでいなかった気がするなとあいまいな記憶をたどってみる。
「若いんだから明日のことは気にするな」
受付に入ってきた東雲がそう言った。手には財布を持っている。
昼ご飯を食べに行くのだろう。
誠一郎も奥の事務室へ財布を取りに行った。
夏梨だけが弁当があるからといって食べに出ることを断り治療院に残った。
午後は誠一郎と夏梨はそれぞれの師匠に付きそれぞれの診療を見学した。
誠一郎は昨日と同じようにとにかく技術を盗むために意念空間には入らず南雲の手元を穴が開くほど見続けた。
それこそ、瞼を閉じれば焼き付けられた映像が流れそうなほどに。
流れるような一連の動作、生け花のようにそそり立つ鍼。
南雲の鍼はすべてが美しさを放っていた。それを可能にしているのは基本とされる動作だった。
一切の無駄をそぎ落としたような洗練された動きである。
午前中に比べ、患者の数が少ないため、ある程度じっくりと治療を見学できた。
南雲の治療を受けに来る患者は、日本の鍼灸を受診している人の中では重症な人が多い。
顔面神経麻痺、脳卒中後の後遺症などは当たり前のように来院する。
三皇五帝級の鍼灸師であれば当たり前のことだが、この当たり前は鍼灸業界の常識ではない。
日本の鍼灸業界では、肩こり、腰痛、膝痛などが来院するほとんどの患者の主訴である。
つまり、西洋医学からこぼれた患者を東洋医学が拾うという形が日本ではできていないのである。
日本において鍼灸を受けている人というのは数パーセントといわれている。
にもかかわらず、競争が激しいと言われる。
その原因は数パーセントの患者を取り合っているという事にある。
西洋医学からこぼれた患者の中で東洋医学の適応である患者をしっかりとケアすれば鍼灸の受療度ももっと上がるはずだ。
しかし、それがなされていない。
それは単に学術が足りていないという事が大きな原因である。
日本では鍼灸師自身がそんな重い病気は治せないとしり込みしている。
世界に目を向ければ当たり前に治療が行われている病気であってもだ。
さらに悪ければ日本でも南雲のような名鍼灸師が治療しているという話をしても、レベルが違うからと逃げる始末だ。
誠一郎がそう言った平凡以下の鍼灸師と違ったのは目の前で起こっていることを抵抗なく吸収する純粋さと、それを追い求める向上心があることだった。
それだけで、鍼灸師として成熟したときに達するレベルが段違いに上がるはずだ。
「師匠、質問があります。師匠はお灸をしないんですか?」
午後の診療も終わり、ブースの後片付けをしながら誠一郎は南雲に言った。
大学を出たばかりの浅い知識ではあったが、誠一郎が見立てるにお灸をすることで症状が改善しそうな患者が昨日も合わせ何人かいた。
「しないわけじゃないよ。ただ、ほとんどの場合は毫鍼で十分なことが多いんだ。」
毫鍼とは一般的に鍼と呼ばれ、ほとんどの鍼灸師が常用している鍼のことである。
「古典には毫鍼が北斗七星と同じだという表現があるんだ」
「どういう意味ですか?」
誠一郎は手を止めて南雲に尋ねた。
「北斗七星が常に空から見下ろす様に、毫鍼はすべての経穴に対応するって意味さ」
南雲は上を指さし、そう答えた。
「さらに言うと、毫鍼はやり方に応じて無限の方法がある。だから、時にはお灸よりも効果がいいんだよ」
誠一郎はスクラブのポケットからメモ用紙を取り出し、南雲の言葉を必死にメモした。
「熱心だね」
細い目をさらに細めて笑いながら南雲はブースをあとにした。
「熱心ね」
鼻を鳴らしながら夏梨が顔を出した。
「俺は頭が悪いから、これぐらいしないといけないんだよ」
ほっといてくれよと言わんばかりに誠一郎は口を尖らせた。
「ホントよね。何故あんたみたいなのが五帝の弟子なのか不思議でたまらないわ」
「それは言い過ぎだぞ。誠一郎には誰にも負けない誠一郎の良さがあるからここにいるんだ」
誠一郎が言いたかったことを東雲が代弁した。
誠一郎はありがたさよりも気恥ずかしさを感じていた。
夏梨は再び鼻を鳴らしその場をあとにした。
「悪かったなうちの弟子が」
ため息混じりに東雲が言った。
東雲の普段の印象からはもっと厳しい指導をするのかと思ったが、そうでもないのかなと誠一郎は感じていた。
夏梨を見ているとただのわがままなお嬢様にしか見えない。
誠一郎の口からもため息が漏れる。