第十一話 新弟子
「師匠と呼ばせてください」
玉枝が治療院をあとにした後、誠一郎は南雲の前に立ち、深々と頭を下げた。
南雲は困ったような表情をしている。
「別にそんなに固い呼び方しなくてもいいよ」
玉枝のカルテを棚にしまいながら南雲が言った。
気付けば時計の針は午後五時を指している。
午前中の患者の来院ピークを過ぎた院内にはもう患者の姿はない。
「いえ、正直感動しました。どうか呼ばせてください」
誠一郎は再度頭を下げた。
鍼灸に劇的な効果があるという事を話に聞くことがあっても、鍼灸の学校に通っている人の中で、それを実際に目にする機会がある人というのは皆無である。
しかし、南雲は今日一日で誠一郎にそれを示して見せた。
つまり、自分の腕の良さを示したことになる。
最後は意念空間での実技付きだ。
五帝の一人としては当たり前のことなのだが、大学を出たばかりの誠一郎にとっては架空の物語を見ているようなドラマチックな一日だった。
「好きにさせてあげなよ。実際に弟子なんだからいいじゃないか」
自分のブースを片付け終わった東雲が奥から言った。
怜子がそう言うのならと南雲はしぶしぶ承諾した。
誠一郎はお礼の言葉と共に頭を下げた。
昭和二十二年に営業免許から資格免許に変わったはり師、きゅう師は学校を卒業することが資格の要件の一つであるため、平成に入り徒弟制度はほぼ完全に廃れてしまった。
三皇五帝制度により徒弟制度は復活したが、師匠を師匠と呼ぶ弟子は珍しいものだ。
「師匠、質問いいですか?」
誠一郎はずいっと一歩南雲に近づき言った。
「な、何だい?」
対照的に誠一郎の勢いに押され南雲は半歩下がった。
「なんで寒邪に対してお灸じゃなくて鍼を使ったんですか? 温めるならお灸の方がいいんじゃないかと思うんですが」
誠一郎の問いをしっかりと噛みしめる様に南雲は受付の椅子に腰かけ足を組んだ。
東雲が入り口の札をひっくり返し施術終了を外に知らせた。
「斉刺っていうのは深い寒邪を取り除く力が強い刺法なんだ。もちろんお灸と比べても深い部分の寒邪には斉刺がいいんだ。お灸でも治療できるけど何回かかかるね」
「寒邪が深いってなんでわかったんですか」
「動かしたとき痛かったんじゃあないのかい?」
受付のソファーに腰かけながら東雲が言った。
窓から差し込む光はだいぶ弱くなっている。
院内には明かりがともされている。
今回の場合、様々な検査をした結果問題が無く、動かすときに痛みが増強しているので筋肉に寒邪がいると考えられる。
筋肉は深いところにあるので、お灸を選択するよりも斉刺を使った方が効果が高いのだと南雲は説明した。
なるほどと誠一郎は頷いた。
「どうだった今日一日」
東雲がカウンターに寄りかかり、誠一郎の顔を覗き込むように言った。
誠一郎にとってその日は自分の無力さを痛感する一方で、南雲の治療に魅了される一日だった。
そう正直に伝えると優しい目つきで東雲は笑顔を浮かべた。
誠一郎が感じていた少し近寄りがたい印象はその表情にはなかった。
南雲と東雲は書類の整理があると言うので誠一郎は先に治療院を出て自分の部屋へ向かった。
車両用の信号が黄色に変わる。誠一郎は自転車を止めた。
そのタイミングを待っていたかのように携帯電話が鳴き声を上げた。
誰からだろうかと画面を見ると南雲からだった。
「誠一郎君? 頼みがあるんだけど」
肩と顔の間に電話を挟んで話しているためか、少し声がこもっている。
「怜子の弟子を迎えに行ってほしいんだ」
その依頼を受け、誠一郎は堺東駅へと向かった。
双雲鍼灸院からアパートへと戻る道とは反対に位置する駅へと向かうために、一度引き返す形になる。
通知音が鳴り、スマートフォンにメッセージが届く。
ポケットから取り出し、目をやると、南雲から怜子の弟子についての情報が送られてきていた。
一度自転車を止め、改めて送られてきたメッセージを確認する。
どうやら七時に駅に着くようだ。
名前は|針村夏梨〘はりむらかりん〙。
誠一郎と年は同じだが、出身の学校は誠一郎の出身である明帝鍼灸大学と関西において権力を二分する杜乃都鍼灸大学であると書かれている。
この鍼灸業界において、その二校のうちどちらかの出身は同業者からはエリートと認識されるほど、有名な大学である。
画面をスクロールしていくと最後に電話番号が書かれていた。
再び通知音が鳴った。もう向こうには事情を説明しているという内容だった。
腕時計に目をやる。
もうすぐ約束の時間になるところだった。
誠一郎はすぐさまペダルをこぎ出し、風を切るように駅へと向かった。
駅が目前に迫る。
バスロータリーを回り、正面出口から伸びる大きな階段の前に雑踏を蹴散らす様に後輪を滑らし自転車を停めた。
あまりの勢いに通行人がじろじろと誠一郎を見ていた。
周りの目を気にせず、再び腕時計に目をやる。
ちょうどデジタル表示の文字盤が午後七時を告げる。
それと同時に携帯電話が鳴った。
あまりのタイミングの良さに誠一郎は驚いた。
取り出して画面を見るとそこには先ほど南雲から送られてきた番号が表示されていた。
針村夏梨からだ。
あたりを見回してみるが電話をかけている女性の姿は見当たらない。
「もしもし、針崎さんですか?」
よく通りそうな声が受話器越しに聞こえてきた。
夏梨も誠一郎が迎えに行くと伝えられているようだ。
「そうです。針村さんですね。今どこにいますか?」
周りをぐるりと見まわしながら言った。
帰宅時間と重なっていることもあり人が多く、見つけ出すのは難しそうだ。
南雲からの連絡には容姿などの情報はなかったためなおさらだ。
「えっと……、大きな階段の下にいます」
すぐ近くだ。
しかし、もう少し情報が欲しい。
「近くに何があります?」
「黄色いマウンテンバイクがあります」
ぎょっとして誠一郎は振り向いた。
自分が乗ってきた黄色いマウンテンバイクがそこにはたたずんでいた。
その向こうに小柄な女性が立っている。
大きな荷物は持ておらず、若者向けの女性誌の表紙を飾るような服装で、視線は遠くを漂っていた。
誠一郎を探しているのだろう。
絹のような黒髪が風になびいている。
誠一郎は雑踏の中を写真で切り取ったような感覚に襲われた。
人とは何か違うオーラのようなものを感じる。
「もしかして、右向いたら電話してる男がいますか?」
誠一郎は夏梨を見つめたままそう言った。
彼がそう感じただけかもしれないが、夏梨はゆっくりと彼の方を向いた。
お互いの視線と視線が正面からぶつかる。
誠一郎が耳にスマートフォンを押しあてたままだったのに対し、夏梨は大きなため息をついて電話を切った。
誠一郎は慌てて電話を切り、夏梨のもとへと駆け寄る。
「針村夏梨。同級生でしょ? 夏梨でいいわ。よろしく」
初対面だというのにあまりにそっけない態度に誠一郎は目を白黒させた。
電話での礼儀正しさは微塵も感じない。
営業トークと言ったところだろうか。
「針崎誠一郎です。よろしく」
何とも苦々しい気持ちだった。
「これあんたの自転車?」
「そうだけど」
夏梨は誠一郎の返答を聞いて再び大きなため息をついた。
「あんたは自転車で私は歩きってわけ?」
初対面なのに随分と刺々しい物言いだと誠一郎は感じていたが、確かに歩いて帰るには少しアパートまでは距離があった。
仕方なく誠一郎は駅前の有料駐輪場に自転車を停め、二人でバスに乗って帰ることにした。
大きな茶色い瞳、すっと通った鼻筋、血色の良い唇。
バスの車中で見た夏梨の横顔はとても魅力的だった。
東雲と比べると年齢の分、綺麗というより可愛いという言葉がよくあてはまる。
愛想がよければどれだけ素晴らしい女性かと誠一郎は思っていた。
駅からバス停を三つほど経て彼らは降車した。
降りた瞬間、冷たい風が彼らにまとわりつく。
夏梨が丈の短いジャケットの襟を立てた。
いくつか角を曲がり、アパートへたどり着いた。
南雲と東雲の部屋に明かりはなく、治療院の業務がまだ続いていることを表していた。
階段を二階へ上がり、一番手前の部屋の前まで行くと、針村という表札がつけられていた。
誠一郎は夏梨へ預かっていた鍵を渡した。
「ありがと。それじゃ」
鍵を受け取った夏梨はそっけなくそう言うと誠一郎と目を合わせることもなく部屋の中へ入っていった。
取り残された誠一郎は奥から物音がするドアを見つめ大きなため息をついた。
自分の家の前まで来たというのに、駅前まで自転車を取りに行くことになるなら、先に置きに来るべきだったという後悔が頭の中を回っていた。