第73話
ジャン・ノエル・ラヴァンシー。
この国が建つ前の国、侯爵家の初代たちの革命で消えた国、ラヴァンシー王国最後の王。
潔白の身でありながらその体に流れる血故にすべての罪を背負って断罪された王の名前。
ラヴァンシー一族はジャンの奥方とその子供の系譜。歴史を見守る者とも言われている。
紆余曲折あって侯爵家の人間にとってラヴァンシーは保護するべき一族だとされている。
王政が廃止される前は頻繁にラヴァンシーの名を利用して反逆に走る人間がいたそうだ。
彼らは5代目、6代目の時、『ノエル』と名乗り特に活発に活動していたらしい。
彼らのような人間に、時に蹂躙され、利用され、それでも誇りを失わず流れる歴史を見守り続けた一族。
そんな一族の血が私にも流れているらしい。
だけど王政が廃止された今、どうやってその名を利用しようというのだろう。王家といえばもう象徴的価値しかない。
「ラヴァンシーの利用価値なんてもうそれほどないと思っていたのだけれど、この名は人を変えてしまうみたいだわ」
「まさか、ラヴァンシーの名のもとに王政を復活させる気ですか?」
「そのまさかよ。
私の隠し持っていた日記を見つけてからあの人は変わった。妙な連中と付き合うようになって私を利用することを考え始めた。
だからお腹にいたアンジュを死産だったことにして私の独断で孤児院に預けたの。私の出身であり、時折黒龍が出没すると噂の和の国にある孤児院に。まさか、そこを買収して仄暗いことのアジトにするとは思わなかったわ。でも私にはどうすることもできなかった。
ただ、それが夜の闇か黒龍の目に着いて子供たちが助かることを祈ることしかできなかった。ごめんなさい……」
「謝る必要はない。私は君に感謝している」
扉の隙間から滑り込んできた声に息をのむ。油断した。
唇をかむ私の前へとアリサさんが滑り込み、静かに声の主が現れるのを待つ。
「可愛い娘を産んでくれた。それも我が身に余る高貴な娘を」
優しくほほ笑むグリッシュ子爵に奥方が悲痛の声を上げた。
「私たちは道具ではないわ! ラヴァンシーの名に如何ほどの価値があるというの!!
正気に戻って! 優しかったあなたに戻って! お願いよ……!」
奥方の必死の声の聞き入れられずに子爵は答える。
それどころか子爵のそばに控えていた執事は平然とした顔で奥方に銃を向けた。
すかさずレイさんが庇うように奥方の前に立ったけれどその顔は蒼白で恐怖に歪んでいた。
「価値ならあるさ。夜闇に侯爵が君臨し続ける限り、その名が朽ちることはない」
例えハリボテの王家が地に堕ちようと、真実の王が君臨し続ける限り世代交代のチャンスはある。
「君のラヴァンシーの名を聞いて随分調べたよ。
今の王家がマガイモノでしかないことも、この国が建ったそのときから夜闇の侯爵こそが真実の王であることも。
僕がいう世代交代の相手はマガイモノの王じゃない侯爵さ」
その人は歪んだ笑みを浮かべてそう告げた。
この場ですべての意味を理解しているのはきっとアリサさんと奥方だけだ。
それでもやらなければいけないことがある。
「さぁ、アンジュ。こちらへおいで」
「……」
「オウカはもう役に立たない。私に必要なのはお前だけだ」
さぁ早くと手を伸ばす男に吐き気がした。
顔を歪めるだけで動こうとしない私に苛立ったように子爵は語気を強める。
一度目を閉じてすぅっと息を吸って吐く。スカートの上からそっと太ももに付けたおじ様から預かったお守りを撫でた。
アリサさんが焦るのを感じる。
それでも次にこの目が光をとらえた時、私は1歩踏み出さなければならない。私が此処に来た目的を果たすために。
私は確かな覚悟をもって瞼を押し上げた。
「瑠璃ちゃんッ!!!」
「お嬢様ッ!!!」
焦った声を聞きながらアリサさんの前に足を踏み出す。
「下がってください!危険です!!」
「私を誰だと思ってるんですか?」
私の腕を掴み後ろに下がらせようとしたアリサさんの腕を振りほどく。
ニタリと子爵が笑みを零したのに合わせて私も唇を歪めた。
「ご自分の為すべきことをしてください」
「さしずめそれは命乞いかな??」
勝利を確信した子爵のあざ笑う声に笑顔で否を唱える。
「いいえ。高貴なる方の保護ですよ」
すっと身をかがめて執事の持っていた銃を蹴り飛ばすと手にした短刀を子爵に突き付けた。それによって執事は身動きが取れずに蹴り飛ばされた手を押さえながら悔しげな顔でこちらを睨んでいる。
「私はあなたの娘じゃなくて黒龍の娘です」
「お嬢様……」
「さぁ、今のうちにおふたりを連れて逃げてください!」
「っ、すぐに戻ります!!」
しっかり蹴り飛ばされた拳銃を拾ったアリサさんがふたりを連れて部屋を出たのを確認しながら手にした短刀をぐっと握りしめた。
ひとりで乗り込むつもりだった私におじ様が渡したものだ。
銃の扱いに慣れていない瑠璃のために用意された瑠璃を守るための短刀。
「ふ、はははっ!!!流石夜の闇で育っただけある。これは期待できそうだ」
突然笑い出した子爵に瑠璃は顔を歪める刹那、襲い掛かる何かの気配に慌てて頭を下げた。
そこを通る太い腕。どうやらいつの間にか背後を取られていたらしい。
「それに銃は彼だけが持っているわけじゃないんだよ」
自分へと向けられた銃口を静かに睨み付ける。
鋭く研ぎ澄まされた刃のような瞳で見据えるのは自分に血を分けた男らしかった。
私を愛してくれた人を傷つけ、追いつめた男だった。
カチャリと安全装置が外れる音がする。けれど焦ったりしなかった。
未だかつてないほど冷静だった。それは撃たれても殺されはしないという確信があったからか、それとも当たってやる気が全くなかったからか。
手に握るのは慣れ親しんだ愛刀ではない。
けれど今は、あの男を斬ることさえできればそれでいい。
銃の照準は変わらず自分を狙っている。手に馴染まない短刀を握り直して私は足を踏み出した。
ガキン。
捉えたと思った刃は男に突き刺さることなく何かに受け止められる。
慌てて身を引こうとした瑠璃の手首を素早く何かが掴んだ。
「もういい。もう、十分だ」
静かな声だった。
張り詰めた瑠璃の全身の力を抜いてしまう声だった。
声の主は弛んだ手から短刀を抜きとると優しく瑠璃の身体を引き寄せた。
「あとは俺が引き受けてやる。
目を閉じて耳を塞いでろ」
甘く優しい囁きに意思を奪われ、まわされた腕に耳を塞がれ、押し付けられた胸板に視界を覆われる。
トクリ、トクリ、と命を刻む音に、守るように抱きすくめる腕に、じんわりと伝わる温もりにひどく安心している自分に気がついて唇を噛んだ。