第71話
コンコンというノックの音にアリサさんが帰ってきたのだと思ってドアを開ける。
そこには予想していなかった人がいた。
レイさんだ。
「どうして、」
「レイさん?」
「どうして来られたのですか!」
泣きそうな顔でそう怒られて私は混乱する。
とりあえず部屋の中に通したところでアリサさんが戻ってくる。
唇に人差し指を当ててレイさんに気付かれないように待機してもらう。
レイさんは俯いていた顔を上げて私を睨む。
「どうして戻ってきてしまったのです!」
「レイさん、落ち着いてください」
私の冷静な声にレイさんも落ち着きを取り戻す。
「も、申し訳ございません!」
「いえ、それよりどういうことですか?」
「私の口からは……。
ここに来てしまったからにはどうか奥様に会って差し上げてください。
そうすれば貴女様の知りたいことがわかるでしょう」
それではと部屋を辞そうとした彼女を引き留めてアリサさんにお茶を淹れてもらう。
「貴女にお話したいことがあってここまで来ました」
話を聞いて頂けますか?
真剣な顔をする私に彼女は戸惑った顔をしながら頷いた。
ソファーに腰を落ち着けたあと私はアリサさんに聞かれるのも構わず夢で見たこと、思い出したことを彼女に語り始めた。
それはつらくもあたたかな記憶。
日常的に繰り返される虐待から守ってくれた姉さまや兄さん姉さんの姿を。
少ない食料を分け合った日々の記憶を。
少しでも大人の魔の手から守るようにと男の子として育てられたことを。
「姉さまは私を守って亡くなりました。ごめんなさい」
嗚咽交じりにそう語り終えた私にレイさんもぽたぽたと涙をこぼす。
けれど彼女は私を責めることはしなかった。
「娘はお役目を、果たしたのですね」
「ごめ、なさ、い」
「謝らないでください。
あの子が貴女様についていくと言い出した時から覚悟はしておりました」
「レイさん」
「娘に申し訳なく思うならあの子に恥じないように生きてくださいませ」
「は、い」
「奥様に会えるように手配いたします」
そういって部屋を出て行ったレイさんの背を見送り私は静かに涙を流す。
泣いたらいけないと思うのに涙は止まってはくれなかった。
「お嬢様……」
隣に座ったアリサさんが肩を抱いて抱きしめてくれる。
それにまた涙がこぼれた。
「ごめんなさい。もう、大丈夫です」
ようやく止まった涙を拭ってぎこちなくほほ笑むとアリサさんは何か言いたげな顔をしたけれどため息をひとつ零して何か冷やすものを取ってきますと立ち上がった。
自分が戻るまで誰が来てもドアを開けないようにと釘を刺して。
その言葉にここが敵地なのだということを思い出す。
私を娘にと望む子爵の目的もレイさんの言葉の意味も分からない。
私はここに来てはいけなかった??
ではパーティーで私に声をかけたのも彼女の独断?子爵との接点を作るためではなくて?
わからない。
「そう……。あの子が来たの」
ベッドに横たわったまま美しい黒髪の女性は悲しげに目を伏せた。
自らの運命に巻き込むまいと手放した愛しい娘。
けれど彼女は戻ってきてしまった。
手元の日記帳を指でたどる。
思えば引き継いだ名に振り回された人生だった。
先祖はこの名に振り回されぬようにと遠い異国に渡ったというのに、愚かな自分は結局その道に引き戻され娘までもその道に巻き込もうとしている。
この体が脆弱なばかりに自分が背負うはずだった咎が娘に渡ろうとしているのだ。
「どうか、お会いください」
それなのに幼いころから共にいてすべての事情を把握している侍女は娘に会えという。
一体どの面下げて会えというのか。会ってしまえば娘に手元の日記帳と共にこの名に与えられた歪な運命まで継承しなければならないというのに。
女性は憂いを帯びた表情で幸せを願って手放したはずの娘に思いを馳せた。