第7話
ドカンと大きな音がしたと思ったら急にすぐ近くに感じていた息使いが遠のいて何かが床を転がるような音がした。
おそるおそる目をあけたら真黒な壁……大きな背中があった。
音がした方に視線を向けると、どんなに頑張っても動かなかった扉が開いていて、床には男の人が殴られたであろう頬を抑えて悶え転がっていた。
「何をしてやがる」
地を這うような低く冷たい声が響く。聞くだけで戦慄してしまうその声はフォンセのもので、いつもは冷静な彼からは想像もできないほどの激情が秘められていた。
ビリビリと伝わる怒気は真っ直ぐに床に転がっている男の人に向けられている。
「フォンセ……」
小さな声で名前を呼ぶとフォンセは私を振り返って顔を歪めた。
そのまま、まるで壊れものに触れるようにそっと目尻を拭われる。
我慢していた涙がポロリと零れた。
翡翠の瞳に確かな怒りを宿してフォンセは男の人に吐き捨てた。
「失せろ」
その言葉に転がるように逃げて行った男を凍えるような目で見届けて、もう一度私に向き直ると苦々しく顔を歪めた。
「……大丈夫、か?」
「、ぅん」
「待ってろすぐに龍哉と母さんを」
「ゃ!ひとりにしないで!お願い……」
お父さんたちを呼びに行こうとしたフォンセに縋りつく。
ビクリと身体を震わせたフォンセはまだ震えの収まっていない私に気がつくと大人しく抱きつかれてくれた。
トクリ、トクリと聞こえるフォンセの少し早目の心音が心を落ち着かせてくれる。
いつのまにか背中に回った腕に柔らかく抱きしめられて、ようやくちゃんと息ができた気がした。
「落ち着いたか?」
「うん……」
フォンセの腕の中は妙に居心地がよくて安心した。
まるでお父さんに抱きしめてもらってるみたいだ。私を傷つけない、絶対の安心をくれる場所。
どうしてかフォンセにも同じものを感じてしまった私は、それに浸るように頭をフォンセの胸に押し付ける。
ピクリと反応したもののフォンセが私を引きはがすことはなかった。
それどころかぎこちない手つきで頭を撫でてくれた。自然と口元がゆるむ。
もう大丈夫だと離れようとしたとき、閻魔様も裸足で逃げ出してしまうくらいに低くて怖い声がして私をフォンセから引きはがした。
「何をしてるんだい?」
凍えた声でそう言ったお父さんの目はちっとも笑っていない。
ピシリと固まる私とは反対にフォンセは小さく舌打ちして平然とお父さんと向き合っている。硬直する私の顔を見たお父さんの怒気が増した気がするのはきっと気のせいじゃない。フォンセを睨みつける目がますます鋭くなっているのも。
「お、お父さん……?」
「君は黙ってなよ」
「なに怒ってるの? というかどうしてフォンセに怒ってるの?
フォンセは私を助けてくれたんだよ?」
「……どういうことだい?」
「あのね、」
「俺が説明する。瑠璃、お前は母さんと静奈のところに行ってろ。
ついでに親父とグレンを呼んできてくれ」
「わかった。……ありがとう、フォンセ」
翡翠の瞳に気遣うような色を見つけて私は小さく微笑む。
それを見てフォンセもどこか安心したような顔をした。
お父さんは険しい表情のままだけど、私に向けられる視線はありありと心配の色を孕んでいる。
「一人で大丈夫かい?」
「うん。だいじょ」
大丈夫と言い切る前にグレンが慌てた様子で駆けこんできた。
「フォンセ! お前なにしちゃってんの!?
好色爺…じゃなかった! 子爵がお前に殴られたつってるんだけど」
「ちょうどいい。子爵はまだいるんだな?」
「え?あ、あぁ。
……瑠璃、お前、泣いたのか?目が赤くなってる」
戸惑った顔が私を見た瞬間にぎょっとする。
見る見るうちに心配そうに表情が歪んでフォンセがしてくれたよりずっと慣れた手つきで目元をさすられた。
すかさずお父さんがグレンの手を払い落す。
「お父さん……」
「いいよ。龍のこれには慣れてるし。それより大丈夫か?」
咎めるように声をあげた私にお父さんはツンとそっぽを向き、グレンはけろっとした顔で払われた手をプラプラさせる。
笑み浮かべていた顔はすぐに心配そうに私を気遣うものになった。
今更だけど、ちょっと泣いただけどみんな過保護だよね。
目にゴミが入っただけとか思わないのかな。お父さんもグレンもなにがあったのか知らないはずなのに。
頭の片隅でそんな場違いな事を考えながら心配いらないとニッコリ笑う。
「うん。もう大丈夫」
「グレン、瑠璃を母さんのとこまで送って父さんを連れて来い。ついでにエロジジイもな」
「……もしかしてキレてる?」
「早くしろ」
「はいはい。じゃあ行こうか」
短く命じるようなフォンセにグレンは慣れたように返事を返すと私に向き直って手を差し出した。
私はすっと差し出された手に気付かないふりをして頷く。
酷い!というグレンの声が聞こえたけど聞こえないふりをした。
「何か聞かれたら俺が説明するって言え」
そう言って最後まで気遣ってくれるフォンセに素直に甘えることにする。
流石に自分の口から何があったのかを言うのには勇気がいるし、フォンセのおかげで随分落ち着いたけど話していたらきっとまたあの恐怖が蘇る。フォンセが来てくれなかったらと思うとゾッとする。
思い出してしまった恐怖にぎゅっと手を握りしめるとそれさえ見透かしたようにフォンセが大丈夫だと囁いた。
その声に凍えそうだった胸が温かくなったのを感じながら、コクリと頷いてグレンと一緒におじ様たちのもとへと向かった。
おじ様たちの元に戻ると、どうしてか一様にギョッとされた。
その反応に思わずグレンの腕を掴む。グレンはなぜかとっても嬉しそうな顔をしながらテンパっているアルセさんを宥め、おじ様にフォンセが呼んでいると告げた。
「親を呼び付けるとは随分偉くなったじゃねぇか」
そう言いながらもおじ様の顔に浮かぶのは私への心配とフォンセの呆れだった。
「瑠璃の涙の訳もフォンセが知ってるみたいだ。
つーことでお袋とエアルさん、瑠璃のことよろしくお願いします」
「勿論よ」
「任せてください」
「おう、行って来い」
「何言ってんだよ。親父はこっちに決まってんだろ。龍が暴れたらどうすんだよ」
「イヴェールがいるだろっ! 俺も瑠璃心配!!」
「なら勿論、原因解明に来るよな。久しぶりにフォンセもキレてるみてぇだし」
「ますます行きたくねぇ」
「面倒な組み合わせだな。チビ、何があったか知らねぇがエアル達の側にいれば安全だ」
何も心配いらねぇとおじ様がそっと私の肩を叩く。アルセさんも「龍哉とフォンセのことは任せとけ」とニカッと笑った。
ついさっきどさくさにまぎれて私たちと一緒に残ろうとした人とは思えない言動にグレンと静奈さんが呆れた視線を向ける。それでもアルセさんの笑顔は私の心を明るくしてくれた。
つられるように笑顔で頷いた私に三人は満足した様に頷いて、フォンセたちが待っている扉が壊れた控室に戻って行った。