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第三話 五番目の部屋

 ここ数日、ハートリペア村の門の外は快晴です。

 天はどこまでも高く、空には雲一つありません。ハートリペア村を取り巻く霧は、通常の霧と違って、晴れている日には出ません。だから村が霧に包まれている日は、つまり村全体が雲に包まれた状態になっているんだと思います。

 美鳥さんは、道路を掃きながら門の外を見て溜息をつきます。霧に包まれていないと、お客さんが来ないからなんです。ハートリペア村は霧の中に在りますからね。代わりに快晴の日には、ハートリペア村の村人たちは、門から出て少し離れた場所にある街まで買出しに出かけます。でも、帰ってくる途中で霧に遭ってしまうと、戻って来れなくことがあるので、大抵の人は、あまり出かけたがりません。だから出かけるのは、どうしても仕入れが必要な生地屋さんや、金属を使う道具屋さんが、主です。食べ物や木材は村で採れるからなんです。

「お出かけですか? シンシアちゃん」

 美鳥さんは、大きな籠をしょって、温度屋の前を通るガチムチマッチョな男の人に声を掛けました。

「えぇ。ちょっと街へ行ってくるわ。そろそろ流行の布地が入っている頃ですからね。何か、街でほしい物はある? ついでに買ってきてあげるわよ?」

 シンシアちゃんは、身長が百九十は超えていようかというデカめな男の人です。だから小柄な美鳥さんは、いつも星を眺める時の顔の角度でシンシアちゃんと話します。本業は、潤し(うるおしや) なのですが、副業で洋裁屋もやっています。足が速いのを見込まれて、生地屋さんに、買出しの代行を頼まれたんでしょう。本名はシンゴ、いえ、シンタロウ? あら? シンノスケでしたかね? とにかく、シンシアというのは、彼のニックネームなんです。

「じゃあ、メイプルシロップのケーキがあったら、お願いしようかな」

「あなた、またそれなの? かぼちゃパイは? もう出回ってる季節よ?」

「じゃあ、それも……」

「どっちも食べる気なの? ブタになるわよ?」

「……じゃあ」

 じゃあメイプルシロップケーキだけでいい、と言おうとした美鳥さんの言葉をシンシアちゃんが遮ります。

「いいわ。あなたブタになりなさい。そうしたら服を仕立てなおす必要が出てくるから、アタシが儲かるわ」

「え~」

 頬を膨らます美鳥さんを横目で見ながら、シンシアちゃんは、さっさと門へ向かって歩き出しました。

 シンシアちゃんは、口は悪いけど、実はすごく優しい人なんです。彼は結局、メイプルシロップケーキとかぼちゃパイどころか、クッキーやらキャンディーやら腸詰やらチーズやら、頼んでないものまでどっさり仕入れてきては、村中の人に振舞うことでしょう。美鳥さんは、それを知っているので、すぐに笑顔になってシンシアちゃんの背中に手を振りました。

「気をつけてね~」

 シンシアちゃんは、後ろを見ずに手を振り返しました。


 シンシアちゃんは、一見オカマさんに見えますが、実はそうではありません。綺麗なフリフリの洋服が、好きなんだそうです。でもそんなデカい男の人が着るフリフリの服なんて、ほとんど手に入りません。だから自分で作ることにしたんだそうです。で、自分の為に作った渾身の純白ウエディングドレスを着て、鏡の前に立った途端、吐いちゃったんだそうですよ。似合わな過ぎて、気持ちが悪くなったらしいです。それ以降、フリフリの服は、もっぱら売る為だけに作っているんだそうですよ。

 いつものシンシアちゃんは、素肌に黒のレザーベストを着てレザーパンツを履いているので、どこかの怪しい芸人さんみたいです。でもカワイイ色も大好きなシンシアちゃんは、髪をピンクに染めて角刈りにしているので、その異様さは、頭一つ分抜けているかもしれません。筋肉モリモリのマッチョ体型は、シンシアちゃんの日頃の鍛錬の賜物です。何事につけ正しく美しくあることに拘る人なのです。でも拘った結果、見てくれが強面になってしまい、村の子どもたちが、泣くか逃げるかどちらかの反応しかしてくれなくなったので、おネェ言葉にしてみたのだそうです。効果は抜群で、今では、子どもからお年寄りまで、みんなシンシアちゃんのことが大好きなんですよ? 以上が、現在のシンシアちゃんへ至った経緯です。


 シンシアちゃんが行ってしまうと、見計らっていたかのように、蓮さんが通りに出てきました。

「行ったか……」

 美鳥さんは、こっくりと頷きます。蓮さんは、シンシアちゃんが苦手なんです。蓮さんの顔を見る度に、シンシアちゃんがドレッシーなタキシードを着せたがるのが原因かもしれません。蓮さんは、和装が好きですしね。

「しばらく戻って来なくていい。あいつのどピンク頭を見るとクラクラする」

 思い出しただけでクラクラするのか、蓮さんは中指で眉間を押えます。

 でも門の外は雲一つない快晴です。少し薄めの青が、どこまでも、どこまでも、広がっているのが見えました。

「霧は当分出そうにないから、すぐに戻ってくるんじゃないですか?」

 くすくす笑う美鳥さんに、蓮さんは顔を顰めました。


 シンシアちゃんが戻ってきたのは、本当にすぐでした。二人が立ち話をしている間に、もう戻ってきたんです。いくら足の速いシンシアちゃんでも、隣町に着くまでに一時間はかかるはずなんですが……。しかも、何やら背中に、籠以外の物を背負っているようです。

「なんだそれは……」

 蓮さんが顔を顰めます。

「門の外で拾ったのよ」

 見れば、やつれた様子の男の人が、ぐったりと目を閉じたまま背負われています。その男の人を見るなり、蓮さんは顔を顰めました。

「捨ててこい」

「犬や猫じゃあるまいし……」

「犬や猫なら、捨ててこいなどとは言わない」

「でもその人、修理が必要みたいですよ?」

 男の人の顔を覗きこみながら、心配そうに言った美鳥さんの言葉に、蓮さんは更に顔を顰めます。

「その男は、ここに来てはいけない人間だ。霧が出ていないのに、ここへ来た者はろくな人間じゃない。禍をもたらすに決まっている」

「でも……」

「美鳥さんの言う通りよ。ここはハートリペア村。必要なら修理してあげなくちゃ。いいわ。まず私が潤してみる。それでダメなら、美鳥さんのところで……」

 シンシアちゃんの言葉を、蓮さんが乱暴に遮りました。

「駄目だ。美鳥さんのところには、絶対に連れて行くな。おまえの所でダメだったら俺のところに連れてこい。それか、門の外に叩きだすかどっちかだ」

「わ、わかったわよぅ」

 蓮さんの剣幕に、シンシアちゃんが怯みます。蓮さんが声を荒げることなんて、滅多にないんですけどね。見かけによらず穏やかな人なんです。蓮さん……どうしちゃったんでしょうか。


 シンシアちゃんが、潤し屋に男の人を運びこむと、蓮さんは大きくため息をつきました。

「……蓮さん、一つ言ってもいいですか?」

 美鳥さんが、蓮さんを見上げます。蓮さんは、眉間にしわを寄せて見下ろしました。

「言いたいことは、分かってるさ。俺だって、晴れた日にやって来た癖にと言いたいんだろ?」

「いえ、そうではなくてですね……蓮さんは、晴れた日にここにやってきましたけど、禍なんてちっとももたらしていませんよ、と言っておきたかったんです。それだけです」

 蓮さんは、美鳥さんの言葉に一瞬ポカンとしてから微苦笑しました。

「……美鳥さん、あんた貯めたポイントを使おうとは思わないのかい?」

 貯めたポイントを使うには、村の外れにある禁断の森の奥に住んでいる魔法使いの所まで行かなくてはなりません。何故禁断の森と呼ばれるのかと言うと、ポイントが貯まっていない人は、入ってはいけないからなんです。美鳥さんも連さんも、ポイントが貯まる前に入ったことがないからよく知らないそうですが、別の生き物になっちゃうらしいんです。トカゲとかイモ虫とか。そして、森から出るまで治らないんだそうです。前にアリになっちゃった人がいて、森から出る為に、もの凄くたくさん歩かなければならなかったことがあるらしいですよ?

「使おうかな、と思ったことはありますよ? でもね、ポイント交換所で訊いてみたんです。何と交換してもらえるんですかって。そうしたら、私に欠けているものをくれるんだって言われました。でも私、自分に欠けているものが、どうしても思いつかなくって……」

 美鳥さんは、小さく声を上げて笑います。

「それをもらったら、この村から出ることになるんだって言われました。でも自分が気づきもしない欠けたものをもらう代わりに、ここを出なきゃいけないんだったら、私、使わなくてもいいかなぁって思ったんですよ。でもね、お陰でようやく分かりました。ポイントを使ったら何をもらえるのか、どうして誰も知らないんだろうって、ずーっと不思議だったから。ポイントを使ったら、この村を出なきゃいけないですね」

「あんた、本当にこの村が好きなんだな」

「大好きですよ~」

 美鳥さんは、にっこり笑って続けます。

「村にあるどんなお店も、森の木々も、ここを吹き抜ける風も、住んでいる人たちも、私、みんな大好きなんです」

 美鳥さんの言葉に、蓮さんは少し切なげに笑んで、そうか、と頷きました。

「蓮さんは? 蓮さんはポイントを使って、村を出たいと思わないんですか?」

「……思わないな。それに、少なくとも、あんたがここに居る間、俺はこの村を出て行けないだろう」

 意味ありげな蓮さんの言葉に、美鳥さんは首を傾げます。

「……蓮さんは……何かを知ってるんですね? もしかして、私に欠けているものが何かも、知っているんですか?」

「……さあな」

 肩を竦めると、蓮さんはさっさと自分のお店へ戻ってしまいました。


■□■


 ひどい気分だった。

 生温かく塩辛い海水に似た成分の水が、洪水を起こして、カラッカラに乾いてひび割れていた大地を呑み込んでいく。乾いてめくれ上がった大地は、いきなり与えられた水気に、悲鳴を上げた。

 チリチリ ジュー じゅわじゅわ ピシッ ぴきっ

 痛みだ。痛みしか感じない。乾き過ぎていた心に耐えがたい痛みが走る。

 ――やめてくれ。もうやめてくれ。もう放っておいて欲しいんだ。俺に必要なのは、何も感じない乾ききった心だと言うのに、何故余計なことをする?

 声にならない悲鳴を上げながら、感情の海におぼれてゆく。

「あなた大丈夫?」

 俺を覗きこむどピンクの頭。

 ――ここはどこだ? 亜由美は?

 きょろきょろと辺りを見回すと、どピンク頭が再び口を開いた。

「ここはハートリペア村の潤し屋よ? あなたの心が渇いていたから、潤してあげたの。気分はいかが?」

 ――なんだ? こいつ。オカマか? ハートリペア村? 潤し屋? なんだか良く分からないが、こいつが、何か余計なことをしたってことか?

 俺は、一つ舌打ちをしてから起き上った。

「どうやら邪魔をしたようだ。悪かったな。料金は?」

 そう言いながら、懐に手を入れて固まる。財布が無い。

「おい、あんた、俺の財布を知らないか?」

 見上げるとどピンク頭は、少し困った顔をしていた。俺は、イライラしながら再度問う。

「俺の財布を知らないか、と訊いている」

 ――まさか、こいつが財布を盗んだんじゃ……。

「事情も訊かずに、ここでいきなりお金を払おうとした人は、あなたが初めてだわ。蓮さんの言った通り、あなたは色々問題がありそうね~」

 意味不明なおネェ言葉をしゃべり続けるどピンク頭に、俺は更にイライラして立ち上がった。

「あんたが俺の財布を盗ったのか?」

「盗ってないわよ。そんなもの盗ってどうするの? ここじゃ、お金なんて何の役にもたたないのに」

「じゃあ、誰が盗ったって言うんだっ」

 どピンク頭は、俺の言葉に大きくため息をついて首を振ると、

「ここじゃ無理ね、あなた、ちょっと来なさいよ」

 そう言い残して、すたすたと店の外に出て言った。

 ――あいつっ、逃げやがった!

 俺は、慌てて後を追う。どピンク頭が向かったのは、三軒程先の『叩き屋』という看板が上がった店だった。どピンク頭が店に入って奥に声を掛けると、藍染め縦縞の和服を着た眼つきの悪い男が出てきた。

「やっぱり来たか。だからこんな奴、すぐに門の外に叩きだせと言っておいたのに……」

 蓮と呼ばれる、その眼つきの悪い男は、俺の顔を見るなり、鋭い目つきで俺を睨んだ。

 ――どピンクオカマの次は、和装の殺し屋か?

「俺は、こいつに財布を盗まれたんだ。あんたからこいつに言ってやってくれよ。人の物を盗むことは、犯罪だってな」

「だから、アタシは財布なんて盗ってないって、さっきからそう言ってるでしょ? アンタも分かんない人ねぇ。ねぇ、連さん、こいつのねじ曲がった根性を叩きなおしてやってよ」

 どピンク頭は、俺を指さしながら殺し屋に訴える。

「手遅れだ。そいつの心を叩きなおすことは、もうできんだろう」

「なによ~ 自分の腕の悪さを自慢しないでよね」

「なんだとっ? 俺の叩き屋の腕にけちをつける気か?」

「だって、そうじゃないの」

 喧々諤諤、お互いの腕の悪さをなじり始めた二人にうんざりした俺は、彼らを無視してその場を立ち去った。ひどく喉が渇いていたのだ。

 何なんだ? この村は……。

 ウサギやクマやアルマジロの着ぐるみを着たやつらが、店先に立って俺をジロジロ見ている。売っているものを見たが、一体何に使うのか、さっぱり分からないものだらけだ。ウサギの店にはオレンジ色のジュースを売っていたが、ニンジンが大嫌いな俺は、目をそむけて通り過ぎた。いくらウサギだからって、ニンジンばかり置くことはないと思うのだ。

 その時、『温度屋』という看板が上がった奇妙な店に、目が止まった。女が一人、店の前にある木からリンゴを収穫している。

「すまないが、そのリンゴを一つ分けてくれないか?」

 声を掛けて振り向いた女の顔に、俺は釘づけになった。

 ――亜由美? いや、違う。亜由美の訳がない。だってあいつは……。あいつは? どうしたんだっけ……。

「あら? あなた、さっきシンシアちゃんに連れて来られた人ですね?」

 さっきのどピンク頭、シンシアなんて名前なのか? やはりオカマか。

 俺は、玄関先に犬糞を見つけてしまった時のような気分で、眉間にしわを寄せた。

 女は、三段ほどしかない低い脚立から、そろりそろりと降りてくると、俺にリンゴを差し出した。

「どうぞ」

「……あいにく、金の持ち合わせが無いのだが……」

「お金なんか要りませんよ? ここでは使えませんしね」

 女はにっこり笑う。

 小ぶりなリンゴに齧りつくと、程良い酸味と良い香りの果汁が喉を滑り落ちた。しかしリンゴはあまりにも小さく、喉の渇きは満たされた気がしない。そう言うと、女は俺を店の中へ案内した。ジュースをくれると言う。

 案内された店内で、ニンジンジュースを振舞われた。てっきり、りんごジュースをもらえると思っていた俺はがっかりする。金を払えない以上、文句は言えないか。しかし……ここら辺には、ニンジンジュースしかないのか?

 勧められるまま、俺は顔を顰めてジュースを口に含む。さほどニンジンくさくはなかったが、好きな味では無い。次第にむしゃくしゃしてきて、酒が飲みたくなってきた。

「ここは一体どこなんだ? あんたは誰なんだ? 温度屋って何なんだよ。さっぱり分からない」

 俺は少しイライラして、半分ほど飲んだニンジンジュースのコップを、たんっとテーブルに戻した。もうこれ以上飲む気になれない。

 ――俺、どうしてこんな所に来たんだっけ?

「ここはハートリペア村ですよ。心を修理する場所です。私は温度屋の美鳥と申します。温度屋は心を適正な温度にする店なんです。あなたの心は、少し熱くなり過ぎているようですから、少し冷ます必要がありそうですね。潤し屋さんは、いかがでしたか? 心が潤ったでしょう?」

「最悪だった。俺の心は潤す必要なんてなかったんだ。余計なお世話なんだよ。どうせ、あんたも余計なことをするに決まってる」

「おかしいですね。潤し屋のシンシアちゃんは、腕が良くて評判なんですよ? この前のお客様なんて、潤い過ぎて号泣したまま止まらなかったので、乾かし屋さんの所に行ってもらわなきゃならなかったくらいで……」

 延々と続きそうな女のおしゃべり、にうんざりし始めた頃、表から声が聞こえてきた。

「あんたがゴチャゴチャ言うから、逃げられちゃったじゃないのよ」

 どピンクオカマの声だ。

「大体、おまえがあんなやつを拾ってくるのが悪いんだ」

 和装の殺し屋の声だ。

「あの野郎、どこに行った? まさか温度屋に行ってないだろうな」

 声がだんだん近づいてくる。ここに向かっているようだ。つくづく面倒臭いやつらだ。

「ちょっと邪魔させてもらうぞ」

 俺はそう言い捨てると、二階に駆け上がった。女が何かごちゃごちゃ言っているようだったが、無視だ。面倒事は、ごめんだ。俺は、二階の、五つ並んでいるドアの一番手前の(五)というプレートが掛った部屋に隠れることにした。


 その部屋に入った途端、俺は息を飲んだ。

 強烈な冷気が、俺を包み込む。息で白く霞む向こう側に、女が血を流して倒れていた。俺の手には、未だぽたぽたと赤い液体を滴らせている血濡れの包丁が握られていた。こんな凄惨な現場なのにもかかわらず、辺りにはカレーのスパイシーな良い匂いが漂っている。

 ――思い出した。

 俺が部屋に行くと言った時、あいつはすごく喜んでご飯を作って待っていると言った。そんなものを作る必要などないと言っておいたのに。

 俺はあいつと別れるつもりだった。

 足元には、編みかけの小さな靴下。それは血しぶきを浴びて赤く染まっていた。

 ――そうだ。俺は……亜由美を刺したんだった。

 亜由美は、出会い系サイトで知り合った女だった。大学生だと言っていたが、どこの大学なのかは知らない。小遣い目当てで、キャパクラにも出入りしていると言っていた。キレイな子だったし、体の相性が良かった。何よりも後腐れなさそうなところが気に入って、俺は彼女をしょっちゅうホテルに呼びだした。俺には、結婚したばかりの妻がいたが、形だけの妻に愛情はなかった。だが面倒なことも御免だったのだ。

 半年過ぎた頃、子どもができたと亜由美から告白された。

 冗談じゃない。それが俺の子だという証拠はどこにある?

 俺の言葉に、亜由美は思いつめた表情で、DNA鑑定をすれば分かると言った。絶対に、間違いなく俺の子だから、大丈夫なのだと言い張る。

 ――何が大丈夫なのか。

 それが俺の子だと判明しようかしまいが、いずれにしても大丈夫な訳がなかった。妻は上司の紹介で結婚した女で、俺の会社での地位を保証してくれる女だ。その妻を差し置いて、外で子などできたと知れたら、俺の身が危うい。

 堕して欲しいと頼んでも、亜由美は産みたいと泣いた。病院を予約して無理やり連れて行こうとしたら、激しく抵抗された。更にあろうことか、女は死ぬの生きるのと大騒ぎをおっぱじめやがった。それを止めようと揉み合った挙句、このざまだ。死ぬのは勝手だが、俺のいないところでやってくれよ。迷惑だろ。

 手に持っていた血濡れの包丁を振り落とそうとするが、まるで手に貼りついているかのように離せない。体中が凍りついているようだ。動かせない。とにかく逃げなければ……。

 うぉぉぉぉぉ

 獣のようにうなりながら、俺は自由に動かない体を駆使して、背後にあったドアに体当たりを喰らわせた。二度三度体当たりすると、ドアが開いた。ドアの向こうには明るい光が満ち溢れていて、その光の中にあの女が佇んでいた。

 温度屋とかいう変な店の女だ。

「あなたが殺したのは亜由美さんだけじゃないですよ? お腹の子と、あなたの未来も殺してしまったんです」

 そう言って悲しげに微笑む女に、カッとなった俺は、持っていた包丁でその女を刺した。


■□■


 潤し屋でも温度屋でも叩き屋でも、それこそハートリペア村の他のどのお店でも修理できないハートは、残念ながら、少なからずあります。

 中には、今回のお客様のように自暴自棄になった挙句、店のものに危害を加える方もいらっしゃいます。さすがに刃物で刺すという、今回のようなケースは珍しいですけどね。

「美鳥さんっ」

「ちょっとあんた、何やってるのっ」

 温度屋に、蓮さんとシンシアちゃんの声が響きます。

 美鳥さんの胸には氷でできたようなキラキラ光る透明な剣が突き刺さっていました。

「俺は……俺は悪くないっ。こいつがっ、この女が俺のことをバカにするからっ」

 男はわめき散らしました。

「……可哀想な人。もう誰もあなたを救えない」

 美鳥さんがそう呟いた刹那、彼女の体は光りはじめました。まるで夜空に咲く花火のように広がった真っ白な光は、やがてその男を呑み込んで、辺り一面を真っ白に覆いつくしました。あまりの眩しさに目をあけていられなくなった頃、光の中心に芥子粒程のとても小さな暗黒が生まれました。暗黒の粒はやがてもの凄い勢いで光を呑み込み始め、辺りを真っ暗に染め上げました。そして次の瞬間音もなく消滅したのです。

 それを呆然と見守っていた蓮さんとシンシアちゃんの前に、どこからともなく膝を丸めた姿勢の美鳥さんがポンっと現れて、ふわふわ中空を漂いながらゆっくりと着地して、その場にぺたりと座り込みました。

「美鳥さんっ」

「アナタ、大丈夫なの?」

 連さんとシンシアちゃんが、慌てて駆け寄ります。ぺたりと座ったまま虚ろな瞳で宙を見つめている美鳥さんの肩は細かく震えていました。

「可哀想な人……」

 そう呟くと、美鳥さんは泣きじゃくりました。


 こういうお客様は、本当に困るんですよ。美鳥さんが泣き始めると、しばらくは温度屋が営業できなくなりますからね。もちろん、温度屋が休業していても、他のお店でハートの修理はできるんですが、何と言っても温度屋はハートリペア村の老舗ですからね、そこが休業してしまうと、他のみんなもすっかり元気がなくなっちゃうんです。

 だからそれ以降、蓮さんとシンシアちゃんはもちろん、ウサギのタロさんも三日月クマさんも、その他の店の人たちみんなが、毎日温度屋に通っては、美鳥さんを励まさないといけなかったんです。でも一番苦労したのはカホちゃんかもしれません。美鳥さんってば、食事もロクにとらないで泣いていましたからね。ご飯を食べさせたり、お風呂に入れたり、子守唄を歌って寝かしつけたりしなくちゃいけなかったので、大変だったそうですよ。オタクさんのポケットの中を少しだけ懐かしく感じたと、後になってカホちゃんがこぼしていました。


 美鳥さんが泣きやんだのは、それから二週間も経ってからでした。


 その日も門の外は快晴で、シンシアちゃんは街から、かぼちゃパイだのメイプルシロップケーキだのチーズだの腸詰だの甘い葡萄酒だのを買いこんできて、村の集会場で宴会を開いたんです。ちょっぴり葡萄酒を飲んですっかりぽーっとなった美鳥さんは、蓮さんが一生懸命披露してくれたジョークに、小さく声を上げて笑ったんです。

『隣の家に塀ができたね。へ~』『前の家に囲いができたよ。カッコイイ』 的なたわいもないジョークばかりだったんですけどね。

 でも少しでも笑えたならもう大丈夫なんです。明日からまた温度屋が営業を再開することでしょう。

 ほら、そろそろ霧も出てきたようですしね。


 ――いらっしゃいませ。ここはハートリペア村の温度屋です。お客様の心を適正な温度にして差し上げます。


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