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「宮様、わたくしは幸せでございました」
そう言って儚く微笑む黒髪の女性。
首を傾げた際に鴉の濡羽色をした豊かな長い髪が、サラサラと音を立てて肩から流れ落ちた。
「馨子、逝かないでくれ」
搾り出した声は苦渋に満ちており、縋るように両の腕で女の細くたおやかな肩を抱きしめる。
馨子――と呼ばれた女性は声なく笑うと「嫌ですわ宮様。そんなお顔をしないで下さいまし。わたくしは幸せだったと申しましたでしょう。笑顔で送り出して欲しいのですわ」
そう言って自分に縋り付くよう抱き止める男の頬を、手の平で優しく包み込む。
「私と共にあった為にこのような事になったにも関わらず、幸せであったと申してくれるのか」
何かを堪えるように表情を歪めた男は、ゆるゆると両の腕から力を抜くとそう呟いた。
「宮様と共に過ごせた時こそが、わたくしにとっては天上の時間でございました。ですから、このような事で御心をお乱しにならないで下さいまし」
「馨子……ならば私は笑顔で送り出そう。そなたが愛しいと申してくれたこの笑顔で」
深い悲しみに濡れた双眸、そのせいで満面の笑みとはいかないが馨子の好きな笑顔だった。
「ありがとうございます。わたくしには勿体無き御言葉でございます」
そう言って閉じた女の瞳から幾筋かの涙がこぼれ落ちる。
この女性はさして身分が高くないにも関わらず、
宮様と呼ばれたこの高貴な男性の愛を一身に受けたため数々の嫌がらせを受けることになった。
嫌がらせというには度が越しており、
汁椀の中にネズミの死骸入っていたり、室の前の廊下に糞尿が撒かれていたこともあった。
しかしどんな事をされようとも、事を荒立てる訳にはいかなかった。
嫌がらせを指示していた相手は北の方、そして宮家の血筋の高貴な方なのだから。
有力な後ろ盾もなく男の愛情だけが自身の後見であったこの女性は、
次第に心身共に弱り果て、いつしか床に就いている時間の方が長くなっていった。
今まさにこの女性の寿命は尽きようとしていたのである。
「馨子、私が愛したのはそなただけだ。守りきれなかった私を許してくれ。
そして許されるならば、来世でも馨子、そなたと添い遂げたいと思う私の願いを聞き入れてくれまいか」
「宮様、わたくしも宮様ただ一人をお慕い申しております。
わたくしも許されるならば、また宮様と添い遂げとうございます」
そう言って最期の命の灯火を振り絞るようにして微笑んだ。
先程までの紙のように青白い顔色から、ほのかな桃色に紅潮した頬が彼女の美しさを一層引き立てる。
二人は抱きしめ合ったままじっと穏やかに流れる時間を楽しむ。
これまで共にあったが、決して穏やかとは呼べぬ時間ばかりであった二人にとって、何事にも代え難い至福の時であった。
しかし彼女に残されていた時間は無情にも過ぎ去り、
男の背に回していた腕が無言のまま力なくポタリと床に滑り落ちる。
「馨子、来世も共に……約束だ」
男はぐっと唇を噛み締め嗚咽を堪えると、冷たくなって行く身体をいつまでも抱きしめ続けるのだった。