あれ? 不穏? ~夏至の夜と炭酸。1
* * *
めまいがした。そう思った。
「あれ?」
気がつくと、ティラミスは厨房ではなく、店の外に出ていた。
暗い通りにはぼんやりと街灯の光がさしており、人気がなく、どこかぞっとするような気配が、静かにたゆたっていた。
「なんで、外……?」
慌てて店内に戻ろうと、きびすを返した時。腕を誰かにつかまれた。
「ひっ、」
驚いて立ち止まると、ふーっ、ふーっ、と荒い息が聞こえた。つかまれた腕に、ぎりぎりと力がかかる。
痛い。
「ちょ、放して! なんなの!?」
これは、あれだ。
暗い道で背後からいきなり現れて、
逃げようとしたものを捕まえる……
女性の敵。変質者!
つかまれた腕を振りほどこうとしたが、強い力がかかっていて外れない。痛くて涙が出てきた。
「だれか、たす、」
助けて、と言おうとしたが、そこで言葉が途切れた。声が出ない。どうして?
ばたばた暴れて逃げようとするが、背後にいる誰かはのしかかるようにして、ふーっ、ふーっ、と息を吹きかけてきた。
生臭い息に、吐き気がしそうになる。
げっ、げっ、という声がして、背後の男が何か言った。
『ナノレ』
えっ、なに? とティラミスは思った。
『ナヲ、ナノレ』
名前?
どうして、と思い、店主やウィルフレッド、じんの助言を思い出す。この変質者、
釣りをする業者なのね!
冗談じゃない。
ティラミスの脳裏に、ワイドショーなどで伝えられる、業者の釣りメールにひっかかった人たちの末路が浮かんだ。
変なメール攻撃やいらない商品の案内が山ほど送りつけられて、ノイローゼのようになったり、ストーカーまがいの売り込みで、貯蓄をむしりとられた人々。
冗談じゃない。
ほんとに、冗談じゃないっ!!!
「地道に稼いで貯蓄を大切にする、一般庶民の幸福を踏みにじるとは、
恥ずかしくないのか変質者~~~!」
怒りのあまり、声が出た。
「本当ですね。このような暗い夜道で女性に手を出すとは、まさに変質者」
そう言う声がして、ティラミスは顔を上げた。目の前に、店主が立っていた。
なぜか、水の入ったピッチャーを持って。
「紅さん!」
「彼女を放しなさい。協定違反で訴えられたいのですか、ルーザード」
店主の言葉に、背後の男が笑う気配がした。
「協定には違反していない。この女は自分から外に出た。店の外に出たなら、協定からは外れる」
「そのように解釈したのですか。ですがそれは、間違いです」
店主は手にしたピッチャーを構えるようにした。背後の男がなぜか、慌てる気配がした。
「なんだと?」
「彼女は、わたしの招待客。もう一つ、彼女にはまだ役割があって、それを果たしていないのです。
ですから彼女はまだ十分に、店の客なのですよ。たとえ、店の外に出たとしてもね。
手を放しなさい、ルーザード。この店の客に手を出すことは、誰であろうと許しません」
動物のような、唸り声が聞こえた。
次の瞬間、びしゃっ! と水がかかり。ティラミスがびっくりしていると、背後から、ぎゃんっ! と、犬の悲鳴のような叫びが上がった。
えっ? と思った時には、腕が自由になっていた。
ティラミスが振り向くと、そこには黒い、大きな犬がうずくまっていた。
なぜか、ぶすぶすと煙を上げながら。
「え? ええ? ワンちゃん、どうして煙……、あ、あの変質者は!?」
ティラミスは周囲を見回した。
「力づくで名前聞き出そうなんて、なんなの、ヤクザ? やばすぎるんじゃないの、あの業者!」
「業者と言えば業者なんでしょうねえ……」
そう言うと、店主は持っていたピッチャーを揺らした。ちゃぷ、と水の音がした。
「ティラミスさん、店の中へ。濡れてしまいましたから、じんさんにタオルをもらって下さい。
そろそろ、歌が始まりますよ。コーラスをお願いしますね」
「へ? え? あ、はい」
店主が少し、立っている位置をずらすと、背後に扉が見えた。
「あの、ここって?」
「裏口です。すぐ厨房に入りますから。怪我はありませんでしたか?」
「えと、腕が」
ティラミスが腕をさすると、店主の眉が上がった。なぜか、煙を上げている犬がびくりとした。
「怪我を?」
「えーと、……あざになったぐらい、です。ちょっとまだ痛い……」
店主は無言で、ティラミスの腕を取った。強く握られて赤くなっているそこを見ると、黙ってピッチャーの中身の水を注いだ。
しゅわー。
煙が出た。水の当たった所から。
しゅわー、と言いながら泡を出すそれを見つめ、ティラミスは首をかしげた。そうして、言った。
「炭酸?」
「そのようなものですね」
店主がうなずく。
「え、でもなぜ炭酸を、腕に?」
「炭酸水は、肌に良いんですよ。化粧品にありませんか?」
「え、そうだっけ?」
「傷口にはしみるから、使わない方が良いですけどね」
しゅわしゅわー。
店主は炭酸水らしいそれを、次々とティラミスの腕、肩、などにかけた。泡と煙が出る。
「中に入ったら、おばばさまに事情を話して、一度見てもらって下さい」
「え、おばばさまって、怪我の手当てとか得意なの?」
「ええ、まあ。どうぞ、中に」
店主にうながされ、ティラミスは疑問ももたず、裏口から店の中に戻った。背後からなぜか再び、『ぎゃんっ!』という犬の悲鳴が聞こえてきたが、
「紅さん? 何かあったの?」
と、声をかけると、
「なんでもありませんよ」
という返事があったので、深く追求しない事にした。
「そう言えば、変質者は逃げたのかしら?」
うやむやになってしまったが、どうなのだろう。どうも店主の顔見知りのようだが。
あんな変質者を店に入れて、大丈夫なのだろうか。