「麦畑に婚約破棄されましたので、実りをすべて持って帰りますわ」〜追放された豊穣の聖女、廃領地でスローライフを始めたら王国から食料が消えた話〜
「セレスティア、お前との婚約を破棄する」
収穫祭の喧騒が、一瞬で凍りついた。
王太子ルカスの声が、集まった群衆の頭上に高らかに響く。金褐色に実った麦畑を背に、わたくし――セレスティア・テオドールは、その言葉を静かに受け止めた。
「お前には聖女の力などない。ただの畑女だ」
どよめきが広がる。
ルカスの隣では、桃色の髪をふわふわと揺らした男爵令嬢ミレーユが、勝ち誇ったように微笑んでいた。彼女は指をひとつ振る。ぱっと、足元に色とりどりの花が咲き乱れた。
「まあ、殿下ったら。でも本当のことですものね。ほら、皆さん見てくださいませ♪」
「なんて綺麗……!」
「これぞ真の聖女様の御業……!」
群衆がうっとりと見惚れる。
(……花を咲かせる魔法、ね)
わたくしは内心でため息をついた。
(見た目は派手ですけれど。それ、麦は実りませんのよ。土も痩せたまま。窒素固定も何もありゃしない)
前世――日本の農学部を出て、品種改良と土壌科学に人生を捧げた研究員だったわたくしの記憶が、冷静に告げる。
花は花。作物は作物。この二つを混同する者に、国の食は預けられない。
「セレスティア、何か言い訳はないのか?」
ルカスが嘲るように見下ろしてくる。
「いいえ。何も」
わたくしの授かったギフトは【豊穣】。麦を実らせ、土を肥やし、風で種を運ぶ――ただそれだけの、地味な力。
「そんな地味な力、誰にでもできる。畑を耕すだけの女に、聖女など務まるものか」
ルカスは笑った。ミレーユも口元を隠して笑う。
「うふふ、可哀想に。畑女さん、泣いてもいいのですよ?」
(あら、そう)
わたくしは目を伏せた。
(では、もう――この国の麦畑に風を送るのは、やめにしましょうか)
十年間。毎朝欠かさず、この国の全穀倉地帯に【豊穣】を注いできた。輪作を指導し、土壌を改良し、痩せた大地を黄金の海に変えてきた。
誰も気づいていない。わたくし自身も「当たり前のことをしていただけ」と、ずっとそう思ってきた。
だけど――当たり前を奪われて、初めて人はその価値を知るのだ。
わたくしは、静かに一歩前に出た。
涙のひとつも見せなかった。
ドレスの裾をつまみ、貴族令嬢として完璧な一礼をする。
「かしこまりました」
ざわめきが止まる。誰もが、わたくしが泣き崩れるか、喚くと思っていたのだろう。
だけど、わたくしは顔を上げて、微笑んだ。
「では――実りは、すべて持って帰らせていただきますわ」
ルカスが眉をひそめる。
「……なんだ、その落ち着きは。もっと取り乱すかと思ったが。それに、何を言っている?」
「わたくしの育てた種と、技術。それだけを持って、この地を去ります。どうぞ皆様、これからはご自分たちの力で麦をお実らせくださいませ」
「はっ、勝手にしろ。畑女がいなくなって、せいせいする」
ルカスは吐き捨てた。ミレーユがくすくすと笑う。
「まあ、可哀想。でも大丈夫ですわ、これからはわたくしが花いっぱいの豊かな国にしてみせますもの♪」
(花いっぱいで、餓死者いっぱいにならなければいいですけれど)
わたくしは心の中だけでそう返し、踵を返した。
馬車に積んだのは、わずかな荷物と――ひとつの木箱。
その中には、わたくしが十年かけて品種改良した『歌う麦』の種子と、農法のすべてを記した手記が入っている。
王国が誇る穀倉地帯の秘密は、すべてこの箱の中だ。
誰も、それに気づかない。
馬車が動き出す。窓の外、収穫祭の灯りが遠ざかっていく。
向かう先は、北の廃領地――かつて『風吹き荒野』と呼ばれた、不毛の地。
(さて。前世の知識と、この地味なギフト。どこまで通用するか――試してみましょう)
わたくしの胸に、久しぶりに熱いものが灯った。
それは、婚約破棄の悲しみではない。
研究者としての、純粋な好奇心だった。
◆
風吹き荒野は、噂通りの不毛の地だった。
乾いた土。吹きすさぶ風。ぽつぽつと残る、痩せた廃村。
「……貴族様が、こんなところに何のご用で?」
出迎えたのは、日に焼けた肌の中年女性だった。名はハンナ。夫を魔物討伐で亡くし、細々とこの地で生きてきたという。その目には警戒の色があった。
「畑を作りに来ましたの」
わたくしがそう言うと、ハンナは眉をひそめた。
「こんな土地で? 何を言ってるんだか。ここじゃ麦一粒育ちゃしませんよ」
「ええ。今のままでは、ね」
わたくしはドレスの袖をまくり上げ、その場にしゃがみ込んだ。素手で土をすくい、匂いを嗅ぎ、指ですり潰す。
(乾燥しすぎ。有機物が足りない。でも――塩害はない。風は強いけど、風車を建てれば揚水も脱穀も回せる。悪くない。むしろ、伸びしろだらけ)
「まずは緑肥を植えて、土を作ります。輪作の設計をして、風を防ぐ木を植えて――そうですわね、一年もあれば」
「い、一年で……? 冗談じゃなくて?」
ハンナが目を丸くする。
「冗談で泥に手を突っ込む令嬢がいるとお思いですか?」
わたくしは立ち上がり、荒野に向かって手をかざした。
【豊穣】。
地味な、誰にでもできると嘲笑われた力。
だけど――
乾いた大地に、じわりと湿り気が戻る。眠っていた種が芽吹き、風がやわらかく吹き抜けた。痩せた土に、命の色が差していく。
「な……なんだいこれは……! 土が、湿ってきて……芽が……!」
ハンナが息を呑んだ。
わたくしは微笑んだ。
「当たり前のことを、するだけですわ」
木箱を開け、『歌う麦』の種を手に取る。
泥にまみれた貴族令嬢の手が、荒野に最初の一粒を蒔いた。
ここが、わたくしの本当の居場所になる予感がした。
◆
半年が過ぎた。
風吹き荒野は、見違えるほど変わっていた。
風車が回り、緑の畑が広がり、村人たちの顔に笑顔が戻った。
孤児の少年フィンは、初めて満腹を知った日、泣きながらわたくしに縋りついた。
「お姉ちゃん……! おれ、お腹いっぱいって、生まれて初めてだ……! すごいよ、お姉ちゃんはすごいよ……!」
その小さな背中を撫でながら、わたくしは思った。
(王都では嘲笑われた力が、ここでは一人の子どもの命を満たしている)
そして今、大地には黄金の麦畑が波打っている。
風が吹くたび、無数の穂がさざめき、まるで歌うような音を奏でた。
「まるで、亡くなったみんなが歌ってるみたいだねぇ……」
ハンナが涙ぐんで、そう呟いた。
村人たちは、それを『麦の歌』と呼ぶようになった。
そんなある夕暮れ、わたくしが畑を見回っていると――畦道に、巨大な人影がうずくまっていた。
身の丈二メートル近い、竜人の男。こめかみからは漆黒の角が伸び、深紅の瞳を持つ。『冷血の竜将』と恐れられる辺境の将軍、ガーヴィス・ドラクロアだ。
その彼が。
――ひとり、静かに、涙をこぼしていた。
「……将軍様? どうなさいましたの、こんなところで」
わたくしが声をかけると、彼は慌てて顔を背けた。だが、大きな肩は震えていた。
「……すまない。この畑の歌が」
震える声で、彼は言った。
「この畑の歌は……人を、生かす音だ」
「……人を、生かす音」
「幼い頃、故郷が飢饉に呑まれた。目の前で、家族が飢えて死んでいった。……だから、実るということの意味を、俺は知っている」
わたくしは、はっとした。
彼はまっすぐにわたくしを見た。
「あなたのこの力は。王都の誰も、その価値をわかっていない。だが俺には……わかる」
(あら。地味だと嘲笑われたこの力を、真っ先に理解したのが……冷血の竜将、ですって)
黄金の穂が、風に揺れて歌う。
「……ありがとうございます、将軍様。そう言っていただけたのは、あなたが初めてですわ」
わたくしの胸に、静かで温かなものが灯った。
◆
一方、その頃――王都エルドラント。
セレスティアが去って一年。
異変は、静かに始まっていた。
「今年の麦の実りが……悪い?」
「いえ、悪いどころか、ほとんど実っていません」
穀倉地帯の報告を受け、王太子ルカスは首をかしげた。
「今年の麦の実りが、悪いだと? たまたまだろう。ミレーユの聖女魔法があれば問題ない」
だが、翌年。
事態は悪化した。土は痩せ、麦は枯れ、収穫は前年の三割にまで激減した。
民の食卓から、パンが消えていく。
「ミレーユ、何をしている! 早く豊作にしろ!」
ルカスが叫ぶ。ミレーユは焦った様子で指を振った。
ぱっ、と花が咲く。色とりどりの、美しい花が。
「え、えっと……ほら、花は、こんなに咲いていますわ!」
「……で? 麦は?」
「は、花が……こんなに、綺麗に……」
「花なんぞ食えるか!!」
初めて、ルカスの顔から余裕が消えた。
花は咲く。だが、麦は一粒も実らない。土は肥えない。
ミレーユの『真の聖女魔法』は――ただ、花を咲かせるだけの、見た目だけの力だったのだ。
飢饉が、王国を呑み込んでいく。
痩せこけた民たちが、囁き始めた。
「昔は毎年豊作だったのに」
「そういえば……あの畑女が去ってから、おかしくなったんじゃ」
「まさか……本物の聖女は……」
ようやく、人々は気づき始めた。
国の食を、十年間支えていたのは――地味だと嘲笑われた、あの『畑女』の【豊穣】だったのだと。
失って、初めて。
ルカスは玉座で、真っ青な顔をして震えていた。
◆
「セレスティア様、王都から使者が来ましたよ。それはもう、必死な顔で跪いて」
ハンナが呆れたように告げる。
風吹き荒野の黄金の麦畑に、王都からの使者が跪いていた。
「セレスティア様に、戻ってきていただきたい! どうか、王国をお救いください! このままでは民が飢えて……!」
わたくしは、麦の穂を撫でながら、ゆっくりと振り返った。
「あら。それは、どなたのご命令でしょう?」
「お、王太子ルカス殿下の……!」
わたくしは静かに首をかしげた。
「おかしいですわね」
「な、何がでしょうか……?」
ドレスの裾をつまみ、微笑む。
「わたくしは、ただの『畑女』でしょう? 聖女の力などない、と。誰にでもできる地味な力だと――殿下ご自身が、あの収穫祭で、群衆の前でおっしゃったはずですけれど」
「そ、それは……あの時は、殿下も気が動転しておられて……!」
「誰にでもできるのなら、どうぞご自分たちで実らせてくださいませ」
使者は言葉を失った。
「そ、そんな……! それに、もうひとつご報告が……ミレーユ・ブランシェ嬢の聖女鑑定の結果が……」
「ええ。おおかた、ギフトなど最初から持っていなかった――そんなところでしょう?」
「な、なぜそれを……! 花の魔法さえ、道具と仕掛けのまやかしだったと……!」
わたくしは、穂のさざめく音に耳を澄ませた。
「実力なき詐称聖女を担ぎ上げ、国家の生命線を追放なさった。……因果応報、ですわね」
実力なき詐称聖女。それを見抜けず、真の国家の生命線を追放した王太子。
ルカスとミレーユは、社交界から完全に失墜した。
「どうか……どうか、お情けを……!」
「わたくしは戻りません。この地で、正当に評価される居場所を得ましたから。どうぞ、お引き取りを」
使者は肩を落として去っていった。
黄金の麦畑が、風に歌う。
それは、王都では決して聞こえなかった、人を生かす音だった。
◆
季節は巡り、風吹き荒野は『豊穣の中心地』として栄えていた。
麦を求める周辺諸国と、わたくしは公正な取引を結んだ。かつて誰も欲しがらなかった不毛の地は、今や大陸有数の穀倉地帯となった。
ハンナは村人たちをまとめ、フィンは風の流れを読む才能の片鱗を見せ始めていた。
そして、ガーヴィス。
彼は相変わらず寡黙で不器用だった。言葉の代わりに、黙って風車を修理し、村を魔物から守り、わたくしの畑を見守り続けた。
ある夕暮れ。
黄金の麦の海の中で、彼はわたくしの隣に立った。
風が吹く。無数の穂が、さざめき、歌う。
「セレスティア」
ガーヴィスが、ぽつりと言った。
「俺は、言葉が下手だ」
「存じておりますわ」
わたくしがくすりと笑うと、彼は少し照れたように角の付け根を掻いた。
そして――大きな手を、そっとわたくしに差し出した。
「……君の育てた歌を。一生、そばで聴いていたい」
不器用で、まっすぐな告白だった。
わたくしは、その手を取った。日焼けした働き者の手が、竜人の大きな手に包まれる。
「ええ。喜んで」
麦の歌が、二人を祝福するように高く響いた。
そのとき――遠くから、フィンが駆けてきた。
「お姉ちゃん、大変だ! 隣の国から、えらい人がいっぱい来てるって! なんでも『豊穣の聖女様』に会いたいって……!」
飢饉に耐えかねた隣国が、ついに動き出したのだ。
『豊穣の聖女』を巡る、次なる国家規模の駆け引き。
「……追い返すか?」
ガーヴィスが低く問う。
「いいえ。慌てる必要などありませんわ」
わたくしは慌てなかった。
ただ、麦の穂をそっと撫でて、微笑む。
「あら、いらっしゃい」
風が、黄金の海を渡っていく。
「――風は、わたくしが向かわせたい方へ吹くものですから」




