Prologue. ― 破局
……さえずりに続いて、アカマツの葉から飛び散る露。
澄み渡るような、あるいは染み渡るような木漏れ陽に、ブナの若木が照らされて……いつか、木漏れ陽を掻き消してしまう。
そうして、森は移ろい変わってゆく。いわゆる植生遷移。
でも、それは……起きてはならない事なのだ。この地では。
ここは東京、かつて、日本の首都だった場所。
もう、それほどの時が経っている。裸地が陽樹林に至るほどの。
見上げても、清々しい蒼空に見つめ返されるだけ。摩天楼に見下ろされる事など……もはやありはしない。
……それでも、人の営みは失われていなかった。
多摩川下流域にあって順調な遷移が進みつつある事こそ、確かな文明が保たれている何よりの証左。
それに今、野ざらしの根につまづきながら、アカマツ林を駆け抜けてゆく影が見えた…あれは…人――「あったらがえ!つっさぇ゛!」
『あっちべれ!あめら!あめらぁ゛!』「あっぢらさえったでよ!がえ!がえぃ!がぇい゛!」「かるなぁぁ゛ぁ゛ぁ゛」
それほど粗雑という程でもない、適度に色付いた麻服を身に纏って……確かな人だ、文明人だ…!それに――あぁ…やはり「人の営み」は生きていた!
矛先荒ぶりながら怒号を浴びせ、汗を跳ね散らし駆け続ける農民達の目付き――!
遂に足をひねらせて突っ伏し、もはや逃げ筋は無きものと思って懐刀を抜き放つと、身を寄せ合う二人の姿――!
「がぁぃぃぃ゛!」『あめらい゛!がぁぁぁ!おいさなや!おいさなやぁ゛ぁ゛!』『いぃぢ!』「いねやぁ゛ぁ゛!」『ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!』
「槍」とは人の根底に染み付く「恐れ」の顕現……「殺り返されるのが恐い!」、「死にたくない!」のだと、死からより遠くに在る事を望んだ「ホモ・サピエンスの象徴」!
あぁやはり!人の営みは、人類文明は――まさに陽樹林の中で生きていた――!
「――通詞を呼べ!通詞を!」その城門は内側から開かれた。
一頭の家畜を綱引いて、焦げ果てた耕地を歩みゆく。
五十三日に及ぶ包囲戦の結末。もはや助けは来ないと知った上、渇水と疫病の惨劇に耐えかねた市民は、遂に自ら閂を抜き解いたのである。
…
『みんだがや!あんれギェイネンちぃほぉぐっされどおうしはす!むっさめゔぉもてぎれもうしはす!でっかルィダイだまいごほるしふれはす!』
「…何と申したのだ。」
「この者は『皆様方、我々「外苑」市は降伏申し上げます、あの女達は手切れにございますから、どうか旦那様に御許しを頂きたく参上致しました』と…そう申しております。」
――ある種の手切れとして。彼らは余りある穀物や家畜、織物、家財、そして娘達を差し出した。略奪を恐れての事だが、対価として「渇きを癒す事」を欲したのもある。
しかし、それは随分と悪手だった。五十三日という「おあずけ」は……余りにも長すぎたのだ。周囲の村々を略奪し尽して、食の減りを覚え始めていた包囲軍の目には、「涎を垂れさせるだけの撒き餌」として映った。
それだけではない、包囲軍はこれまでに何度も何度も興奮を煽られていた。
幾千もの人口を誇り、幾百もの都市を従え、いにしえの超常的な魔術によって築かれた要塞都市「外苑」――その大城壁に一切のつなぎ目はなく、かつて「世に並ぶもの無き」と讃えられた堅牢さをこれ見よがしに眼前で誇っていたのだから、包囲軍にとってこれ以上の苦難というものは無かった。
……人は苦難があればあるほど報酬を求めるもの。
内に秘められた富の莫大さを……想像しない筈が無い。
それが五十三日である。門が閉ざされて、また開かれるまで。
あまつさえ、守備隊は蓄えの余裕を見せつけるべく…城壁の歩廊で宴会を開いたりして、何度も何度も「富」を誇示してきたのだ。
もはや限界。耐えられぬ。それほど懐が減っている。腹もそれほど満たされていない。
それでも、入城した希代の征服者達は、商家の邸宅や神社仏閣、教会、モスクなど目もくれず、棄てられた宮廷から淡々と行政文書を運び出し、職人と幾らかの女性達を攫うに留まった。
少なくとも……それまで、彼らの行為はそれだけだったのだ。彼らの行為は。
……では、興奮を煽られた徴募兵達は――?
希代の征服者達は矛先揃えて――各門の正面に陣取った。
誰も逃がさぬ、それが目的で。
〝兵の入城を赦す。〟
――その瞬間、あるいは寸前に、人の正体というものは露わとなった。
雪崩れ込む大波は次々と家屋に攻め入って、悲鳴に、怒号に、歓声に、数多の感情で以って城内は編み込まれてゆく。
木戸が閉ざされたと分かれば力を合わせ、急造の破城槌で以って困難を打ち砕く。三十万年間、人類が人類を人類たらしめさせてきた「協力」というものが――真に遺憾なく発揮されてゆく。
そうして、外苑の全住民を半年以上養えるだけの穀物が、一挙に運び出された。
それから金品は言わずもがな、豚、山羊、牛、馬、塩、麻織物、毛織物、女性、奴隷――ありとあらゆる都市民の財産が搔き集められる。
もはや、外苑の市民は次の冬を越えられない。
今であろうが、後であろうが、外苑の民は死にゆくものと定められたのだ。
それまではまだ良い、「冬を越えられない」なんて……この世の常だったから。
……それから始まったのは、グランギニョル。
秘められていたとばかり思っていた外苑の富が、それほどのものではなかった事に気付き始めた兵士達は、その落胆を掻き消すような……それはそれは莫大な財宝を求めて、ありとあらゆる手段を経て「秘密の地下室」のありかを文字通り炙り出そうと試みたのだ。
やがて、家々の床下や地下室から確かな「財産」が運び出されるも、期待外れとしか言いようがなく、堪え難い落胆はヴァンダリズムへの変貌を遂げる。
家屋にはむべもなく火が放たれ、土屋根を伝って商家の屋根瓦を剥がしている最中にあった兵士達も、同士討ちの業火に包まれた。
家屋のことごとくが紅に染め上げられて、兵士達も、外苑の市民も、もはや城内には居られないと駆け出した――両者が掠奪品を抱えて。
その頃には、あの希代の征服者達も乱痴気騒ぎに興じていて、ありとあらゆる人々が…近隣のアカマツ林へと逃げおおせてゆく……。
……そうして、かつて内閣総理大臣の〝宮廷〟が在った日本最後の首都「外苑」――「皇居外苑」は、あっけのない陥落を迎えた。
いにしえの時代に築かれた驚異の都市は、つなぎ目のない一枚岩の大城壁だけを残して、その姿を消してしまう。
……暫くの間は。
それでも、人の営みは失われなかったのだ。
大城壁。いにしえの超常的な魔術によって持ち来たらしめられた一枚岩。人知を超えた驚異の保護者。……それこそ、真に人の欲する所。やがて人々は、再び〝かつての保護者〟に救いを求めたのだ。
幾らかの空堀と土塁しか持たぬ諸都市よりも、超常的な何かに護られたいと思うのは必然だった。
そうして、低木の生い茂る城内は、避難民の都市に戻ってゆく。整然と、区画に沿って崩れゆく廃墟の合間に、ただ粗末な小住居群がせめぎ合うように形成されてゆく。
それこそ……かつて「外苑」という都市を構築した、たった一つの要素だったから。奇妙に思うだろう。だが、本来「中世」とはそういうものなのだ。
「……。」そして今、私は、その外苑が存在したとされる地を……眺めている。
葦に囲われた水面を……白い鳥が線引いて…今、飛び立つ。
あの何処か、泥濘の奥底に……あの都市が沈んでいる。
かつて、大洪水に押し流されたとされる、あの都市が。




