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王国の地図にない村

作者: 星渡リン

 地図の空白は、嫌いだ。


 白い部分を見ると、胸の奥がざらつく。

 そこに何かがあるはずなのに、何もないことにされている。

 紙の上だけ、世界が途中で終わっているみたいで。


 王都の地図局。

 朝から机に向かって、古い地図を広げていた。


 俺は定規を置き、指先で“空白”をなぞる。

 境界の森の奥。王国の端に近い場所だ。

 街道が一本、途中で途切れている。


「……ここ、変だな」


 ぽつりと言うと、隣の机から溜息が返ってきた。


「変なところは放っておけ」


 先輩のノエルだ。

 羽根ペンを走らせたまま、こちらを見もしない。


「でも、道が途中で切れてる。昔は続いてたはずだろ」


「続いてた“ことにしない”場所もある」


 ノエルの声が、今日は妙に硬い。


 俺は地図の端を指でなぞった。

 紙は黄ばんで、角も少し破れている。

 それなのに空白だけが、新しい傷みたいに目立つ。


「……誰かが塗ったのか?」


「知らない方がいい」


 ノエルがやっと顔を上げた。

 薄い灰色の目が、俺の手元を見る。


「レイ。お前は真面目なのはいい。でも、地図は世界の形じゃない。王国の都合でできてる」


「都合?」


「載せたら、管理しなきゃいけない。管理したら、取り立ても、兵も、全部行く」


 その言葉が、思ったより重かった。

 俺は口を閉じる。


 ノエルは小さく息を吐く。


「空白は、空白のままにしておけ。そこには理由がある」


 俺は頷いた。

 頷いた、はずだった。


 けれど胸の奥のざわつきは、消えなかった。


 空白の向こうに、何かがある。

 あるのに、“無い”ことにされている。


 それがどうしても気になった。


 結局、俺は行くことにした。

 理由を知りたかった。確かめたかった。


 地図に線を引く仕事をしているのに、地図の外側に置き去りにされた場所を見ないふりはできなかった。



 境界の森は、思ったより静かだった。


 風も鳥もいるはずなのに、音が薄い。

 まるで世界が遠慮して、声を小さくしているみたいだった。


 俺は背負い袋の紐を握り直し、地図を確認する。

 道はここで曲がる。ここから先は白い。


 白い部分に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


 湿っている。

 冷たくはないのに、指先がかじかむような感覚。


 木々の形は普通だ。苔も落ち葉もある。

 なのに、目印になるものが少ない。


 岩がない。大きな倒木がない。

 枝の伸び方も似ている。

 “迷わせるための特徴のなさ”が、そこにあった。


「……おかしいな」


 俺は何度も振り返った。

 戻っているつもりはない。まっすぐ進んでいる。


 それなのに。


 さっき見た切り株が、また現れた。


 同じ形。

 同じ苔の付き方。

 同じ位置に落ち葉が溜まっている。


 背中に冷たいものが走った。


 俺は地図を見た。

 地図には何もない。

 当たり前だ。空白なのだから。


 だからこそ、余計に怖い。


 迷った。

 いや、迷わされている。


「落ち着け……」


 俺は深呼吸して歩き直した。

 歩幅を一定にする。枝の伸び方を見る。日差しの方向を見る。

 測量士見習いとして覚えたことを全部使う。


 そのとき、霧が薄く流れた。


 さっきまで何もなかった場所に、道が見えた。

 人が踏み固めた細い土の道。


 その先に、屋根がある。

 煙が上がっている。


 俺は息を呑み、足を速めた。


 霧がさらに晴れていく。


 畑。柵。小さな川。

 洗濯物の揺れる紐。


 村だ。


 地図にないのに。

 確かに、村がある。


 胸の奥が、変に熱くなった。



 村は夕暮れの色に包まれていた。


 家の数は多くない。十数軒ほど。

 子どもが走って笑い、犬が吠える。鍋の匂いがする。


 普通だ。

 普通の村の音だ。


 なのに違和感がある。


 入口に看板がない。

 村の名を書いた板が、どこにも見当たらない。


 俺が辺りを見回しながら歩いていると、背後から声がした。


「迷った?」


 振り返ると、少女が立っていた。


 俺より少し下だろう。

 髪を後ろでまとめ、頬に土の跡がある。

 目は明るいのに、どこか落ち着いている。


「……迷った、っていうか」


「迷うんだよ、ここ」


 少女は当たり前みたいに言った。


「え?」


「森。ぐるぐるしちゃう」


 さらっと言うのが余計に不気味だった。


 俺は名乗った。


「王都から来た。地図の更新の仕事で……俺、レイ」


 少女は少しだけ目を細めた。


「地図の人?」


「うん。測量の見習い」


 少女は口の中で俺の名前を転がすみたいにしてから、自分の胸を指差した。


「ミナ」


 名乗ってくれた。

 それだけで少し安心した。


「ここ、泊まるの?」


「できれば。森の中で夜は危ないし」


「じゃあ、うち来る?」


 軽い言い方だった。

 でも、その軽さがありがたかった。


 ミナの家は小さいが暖かかった。

 床はよく磨かれ、窓辺に乾いた花が飾られている。


 ミナの母親らしい女性が、困ったように笑う。


「珍しいお客さんね」


「突然すみません。道に迷って……」


「迷う場所だもの。仕方ないわ」


 その言葉が、さらっと出てくる。

 “迷う”が、この村では日常の前提になっている。


 夕飯は野菜のスープと焼いたパンだった。

 特別じゃない。でも体に染みた。


 俺は食べながら、村の中を思い出していた。

 生活の匂いが濃い。

 ここに人が暮らしている。確かに暮らしている。


 なのに、地図にない。


 食事が終わった頃、俺は思い切って聞いた。


「この村の名前、何て言うんだ?」


 ミナが一瞬止まった。

 スプーンを持つ手が、ほんの少し揺れる。


 母親も視線を落とした。


 ミナは小さく笑って、でも目は笑っていなかった。


「名前は……言わないほうがいい」


「どうして?」


「言うと、面倒が来るから」


 面倒。

 軽い言葉じゃない。


 俺はそれ以上聞けなかった。


 代わりに鞄からノートを出し、今日の位置を書こうとした。

 癖だ。どこへ行っても記録を取る。


 村に着いた地点。森の入り口からの距離。

 川の流れ。畑の位置。


 ペン先を紙に当てる。

 インクが滲み、線ができる。


 ……できたはずだった。


 俺はもう一度ノートを見た。


 線が薄い。


「え……?」


 目をこすっても薄い。

 さっきまで濃かったはずの線が、紙の色に溶けていく。


 文字も同じだ。

 書いたはずの字が、読めなくなる。


 俺は焦って書き直した。強く書いた。

 でも、書いたそばから薄れていく。


 インクでも紙でもない。

 ここが、そうさせている。


 ミナが俺の手元を覗き込み、静かに言った。


「ね。だから言ったでしょ」


 背中が冷えた。

 村の中は暖かいのに、俺の中だけが冷える。


「……これ、どういうことだ」


 ミナは答えなかった。

 困ったように、少しだけ笑った。


「外の人ってさ、すぐ書こうとするよね」


 外の人。

 その言い方に、小さな壁を感じた。


 夜は静かだった。

 村の灯りは早く消えて、窓の外は真っ暗になる。


 俺は布団の中で目を開けたまま、耳を澄ませた。

 風の音が薄い。虫の声も薄い。


 代わりに、遠くで水の流れる音だけが聞こえる。

 その音が、ここが夢じゃないと教えてくれる。


 地図にない村。

 でも、確かにある村。


 この村は、何を守っているんだろう。



 次の日の朝、村の空気は柔らかかった。


 薪を割る音。

 子どもたちの笑い声。

 湯を沸かす匂い。


 昨日の怖さが嘘みたいだ。


 俺は村の中を歩いた。

 畑の土は黒く、手入れが行き届いている。

 川は澄んでいて、魚が泳ぐのが見えた。


 でも、妙なものもある。


 村の端に小さな墓地があった。

 石は並んでいるのに、名前が刻まれていない。

 どれも真っ白な石だった。


「……名前、ないんだ」


 背後でミナが言った。


「刻まないの?」


「刻むと、残っちゃうから」


「残るのは悪いことなのか?」


 ミナは少し迷ってから言う。


「残ると、見つかる」


 見つかる。

 昨日の言葉と同じ。


 俺は胸の奥がざわつくのを抑えながら聞いた。


「……誰に?」


 ミナは答えない。

 でも、その目が少しだけ遠くを見た。


 そして俺の名を呼ぶ。


「レイ」


「ん?」


「ここ、地図に載せたい?」


 俺は言葉に詰まった。

 昨日までなら迷わず頷いていたはずなのに。


 地図に載れば、道が分かる。助けも来る。行き来もできる。

 それが“良いこと”だと思っていた。


 でも、この村では。


「……分からない」


 そう答えると、ミナは小さく笑った。


「正直」


 その一言が、救いだった。



 夕方、村長が俺を呼んだ。


 村の真ん中の家。

 古いけれど柱は太く、床がきしむ音がしない。


 村長は老人だった。背は低い。髪は白い。

 でも目は濁っていない。


「王都の者か」


「はい。測量の見習いです」


 村長は頷き、湯飲みを俺の前に置いた。

 香草の匂いがする。


「ここが地図にないことを、不思議に思っただろう」


「……はい」


 村長は少し目を閉じる。


「昔、この村は地図にあった」


 心臓が跳ねた。


「王国の街道の要所だった。商人も兵も通った。賑やかだった」


「なのに、どうして消されたんですか」


 村長は目を開け、俺を見る。


「地図に載る場所は、奪われる」


 静かな言葉だった。

 なのに刃みたいに鋭い。


「税を取られる。人を出せと言われる。便利だという理由で道を広げられる。鉱山があると言われれば掘られる」


「それは……王国のため、って……」


「王国のため、という言葉は便利だ」


 村長の声に怒りはなかった。

 疲れがあった。


「争いの時代があった。ここも巻き込まれた。村は燃え、人が死んだ。だから王都は言った。“守るために”ここを消すと」


 守るために。

 ノエルの言葉が頭をよぎる。


 空白には理由がある。


「地図から消せば、兵も税も来ない。争いも来ない。代わりに……外の人は見つけられなくなる」


「それで、文字が薄れるんですか」


 村長は頷いた。


「書こうとする者には残させない。残せば地図になる。地図になれば道ができる」


 道ができれば、管理が来る。

 管理が来れば、奪われる。


 俺は湯飲みを握りしめた。熱いはずなのに、手が冷える。


「じゃあ……ここに暮らす人は、ずっと隠れて生きるんですか」


「隠れているわけではない」


 村長は少しだけ笑った。


「静かに、生きているだけだ」


 その言葉が妙に強かった。


 そのとき、外がざわついた。

 犬が吠え、人の声が重なる。


 村長が立ち上がる。


「来たか」


「来た?」


「王都の役人だ」


 喉が乾いた。



 役人たちは村の入口に立っていた。


 黒い外套。馬。腰には剣。

 だが顔つきは穏やかだった。


 穏やかな顔の方が怖いときがある。

 笑いながら壊すからだ。


 先頭の男が村長に礼をした。


「危険区域です。ここは存在しないことになっています」


 丁寧な口調。

 でも“存在しない”という言葉は冷たい。


「なぜ来た」


 村長が言う。


「確認です。最近、森に人が入った形跡がありました」


 男の目が、俺を見る。

 胸の奥が嫌な音を立てた。


「あなたですね。地図局の見習い」


 どうして分かる。

 俺は息を呑む。


「あなたの報告はまだ上がっていませんが、ここに来たという事実だけで十分です」


 男は微笑んだまま言った。


「地図に載せるつもりでしょう?」


 俺は口を開いた。

 言い返したかった。

 でも言葉が出ない。


 村長が前に出る。


「帰れ。ここは静かに暮らしている」


「静かに暮らしているのは承知しています」


 男は頷く。


「だからこそ保護が必要です。外へ移住していただきます」


 保護。

 その言葉は柔らかい。

 でも意味は硬い。


 村を解体する。

 人を散らす。

 ここを終わらせる。


 ミナが俺の袖を掴んだ。

 小さな手が震えている。


「レイ……」


 俺はミナを見る。

 明るかった目が、今は泣きそうだった。


 胸の奥が熱くなり、息を吐いた。


 地図を描くことが正義だと思っていた。

 記録が救いだと思っていた。


 でも、この村にとって記録は刃だ。


 俺が線を引けば、ここは奪われる。

 俺が名前を書けば、ここは終わる。


 役人が穏やかに言う。


「抵抗はしないでください。皆さんのためです」


 皆さんのため。

 その言葉が村の空気を押し潰す。


 俺は言った。

 声が震えた。


「……地図には載せません」


 男が目を細める。


「何と言いました?」


「俺は、ここを地図に描きません」


 言った。

 ちゃんと言えた。


 男の笑みが少し薄くなる。


「それは職務放棄です」


「……俺は測量士です。記録するのが仕事だと思ってました」


 俺は息を吸い直した。


「でも、記録が誰かを壊すなら……それは正義じゃない」


 役人は静かに首を傾げる。


「あなた一人が描かなくても、いずれ誰かが描きます」


 真実だ。

 だからこそ、俺は続けた。


「だから、俺は忘れません」


 役人の眉が動く。


「忘れない。誰にも言わない。地図にも残さない。でも……ここがあったことは、俺が覚えてる」


 子どもみたいな言い分だ。

 中途半端だ。

 それでも、今の俺に出せる答えはそれだけだった。


 村長が言う。


「帰れ」


 役人は村長を見て、それから俺を見て、短く息を吐いた。


「……今回だけです」


 男は穏やかな顔に戻った。


「あなたが“ここを忘れた”ことにしておきましょう」


 役人たちは踵を返した。

 馬の蹄が土を踏む音が遠ざかる。


 村の空気が、少しずつ戻っていく。

 誰かが静かに泣いた。


 俺はその場に立ち尽くした。

 膝が震えていた。


 怖かった。

 でも折れなかった。



 その夜、村は灯りを早く消した。


 いつもより静か。

 風の音だけが残る。


 ミナが俺のところへ来た。

 小さな包みを持っている。


「これ」


 中には乾いたパンと木の実。

 それから、何も書かれていない木札が一枚。


 白い木札。

 名前も印もない。


「これ、何?」


 俺が聞くと、ミナは少しだけ笑った。


「お守り。外は迷うから」


「……名前、書かないの?」


 ミナは首を振った。


「書かないで」


 そして、小さく付け足した。


「……覚えてて」


 その一言が胸に落ちた。


 書かないで。

 でも、覚えてて。


 残さないで。

 でも、消さないで。


 俺は木札を握りしめて、頷いた。


 言葉は要らなかった。

 頷きだけで、伝わる気がした。



 朝。

 霧の森は昨日よりも静かだった。


 ミナは村の入口まで見送ってくれた。

 村長も母親も、誰も大げさなことは言わない。


 ただ、いつも通りに手を振る。


 ミナが呼ぶ。


「レイ」


「ん?」


「迷わないでね」


 俺は笑った。

 笑ったつもりだった。たぶん、顔は変だったと思う。


「迷ったら……戻ってくる」


 そう言うと、ミナは少しだけ目を丸くして、すぐに笑った。


「うん。……でも、戻ってこなくていいよ」


 その言い方が優しくて、痛かった。


 俺は一歩踏み出した。

 森の空気が変わる。


 振り返ると、村はまだ見えた。


 家。畑。煙。

 小さな生活。


 もう一歩踏み出すと、霧が濃くなった。


 村の輪郭が薄れる。

 道が消える。


 俺は立ち止まりたくなった。

 怖くなった。


 でも、止まらなかった。


 止まったら、忘れてしまいそうだったから。


 木札を握りしめて歩いた。

 指先に木の感触がある。

 それが確かさだった。



 王都へ戻る頃には、境界の森の霧は遠い夢みたいになっていた。


 地図局の机に座り、古い地図を広げる。


 空白は、空白のままだ。


 俺は報告書を書いた。

 境界の森、異常なし。

 道の更新、不要。


 ペン先が紙を走る。

 文字は薄れない。


 上司は何も言わなかった。

 ノエルも何も言わない。


 ただ、一度だけ目が合ったとき、ノエルが小さく息を吐いた。


「……戻ってきたか」


 それだけだった。

 責めるでもなく、褒めるでもない。


 俺は頷いた。


 夜。

 宿の部屋で、俺はポケットから木札を取り出した。


 白い札。

 何も書かれていない。

 でも握ると、村の匂いがする気がした。


 スープの匂い。

 薪の匂い。

 夕暮れの畑の匂い。


 俺は小さく呟く。


「王国の地図にない村は、確かにあった」


 記録はしなかった。

 地図にも描かなかった。


 でも忘れない。

 誰にも奪わせない。


 地図の空白は、世界の穴じゃない。

 守るための余白だ。


 俺は木札を握り直して、目を閉じた。

 静かな夜だった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


このお話で描きたかったのは、「記録すること」と「守ること」は、いつも同じではないということです。

地図は便利で、正しくて、世界をつなぐもの。

でも同時に、そこに線を引くことは「ここを管理できる」と宣言することでもあります。


地図には載らないけれど、確かにあった村。

もしあなたの胸の中にも、そんな「余白の灯り」がひとつ残ってくれたら嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
余韻ある、良いお話でした!
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