3「二つの顔の日常」
放課後、ユウトは重い足取りでアパートへ向かった。玄関のドアには、電力会社からの光熱費滞納通知が束になって貼られている。赤い文字で書かれた「最終警告」の文字が、夕日に照らされて血のように見えた。
「ただいま……」
小さく呟きながらドアを開けると、狭いキッチンが目に入った。冷蔵庫を開けてみれば、中身はもやしとタマゴが数個あるだけ。今月もまた、ギリギリの生活が続いている。
母親の部屋から、また咳き込む音が聞こえてきた。ユウトはそっと扉を開けた。ベッドサイドには薬の瓶が何本も並んでいる。市販の薬ばかりで、根本的な治療にはなっていない。
「ユウト……お帰りなさい」
母親は苦しそうに身を起こした。顔色は悪く、頬はこけている。
「無理して起きなくていいよ」
ユウトは母親の枕元に座った。
「バイト代……本当にありがとう」母親は咳込みながら言った。「あなたのプログラミングの才能、みんなに認められて……母さん、誇らしいわ」
「大丈夫だよ。僕の技術、結構評価されてるから」
ユウトは笑顔を作ったが、心の中では複雑な感情が渦巻いていた。母親は知らないのだ。息子がマインド・シンクを使って、二重の生活を送っていることを。
「でも無理しないで。あなたはもっと……普通の高校生活を送るべきよ」
普通。その言葉がユウトの胸に刺さった。
「普通って何だよ……僕は普通になれない」
心の中で反発しながらも、ユウトは母親に優しく微笑みかけた。
「心配しないで。僕はちゃんとやってるから」
午後7時。ユウトは自室の古い椅子に座り、首筋のマインド・シンクチップに手を当てた。いつもの儀式が始まる。
「システム起動」
小さく呟くと、チップから低い電子音が響いた。
「ピーッ……システム起動。分離モード開始」
その瞬間、ユウトの意識が二つに分かれた。現実の体は人形のように脱力し、椅子にもたれかかる。一方で、もう一つの意識は高度な仮想空間へと飛び立っていく。
仮想空間は美しかった。ネオンが踊るサイバー空間には、無限のプログラミング環境が広がっている。ここでのユウトは現実よりも背が高く、自信に満ちた表情をしていた。現実では萎縮してしまう彼が、ここでは本来の才能を存分に発揮できる。
「おや、今夜も来たね」
クライアントの声が響いた。相手の姿は光る幾何学模様で表現されている。匿名性を保つための仮想空間のルールだ。
「君のコードは本当に芸術的だ。まるで詩を読んでいるようだよ」
「ありがとうございます」
仮想体のユウトは堂々と答えた。現実では決して言えないような自信に満ちた口調で。
「実は、今度大きなプロジェクトがあるんだ。君に任せたい案件があるよ」
「喜んで引き受けます」
一方、現実のユウトは「従順モード」で宿題をこなしていた。システムによって管理された人格が、機械的に数学の問題を解いている。仮想空間の自分と現実の自分。まったく違う二人のユウトが、同時に存在していた。
仮想空間での作業は深夜まで続いた。高度なプログラムを組み上げていく時、ユウトは真の充実感を味わった。ここでなら、誰にも遠慮することなく自分の才能を発揮できる。
しかし、システムを終了して現実に戻った時、いつも同じ虚無感が襲ってきた。
「これが……本当の僕なのかな」
翌日の昼休み。ユウトは屋上で一人、質素な弁当を食べていた。もやしの卵とじと白いご飯だけの、見るからに貧しい内容だった。
物陰から、桜井美月が小型カメラでユウトの様子を撮影している。彼女の手元には黒い手帳があり、「対象の行動パターン分析」と表紙に書かれていた。
「昨日の帰宅時間:午後6時30分」
「推定システム使用時間:14時間」
「バイト収入:月額約8万円(高校生として異常に高額)」
美月はペンを走らせながら、複雑な表情でユウトを見つめていた。
「こんな普通の子が……本当にあの能力を?」
内心で葛藤が生まれている。最初は単なる監視対象だったはずなのに、いつからか彼女の中で特別な感情が芽生え始めていた。
ユウトは弁当を食べながら、ふと校庭の生徒たちを見下ろした。みんな楽しそうに談笑している。その時、一瞬だけ不思議な現象が起きた。
生徒たちの頭上に、薄い色の靄のようなものが見えたのだ。楽しげに笑っている生徒は黄色く、落ち込んでいる生徒は青く、イライラしている生徒は赤い靄に包まれている。
「また……幻覚?」
ユウトは手で目を擦った。
「疲れてるのかな」
美月はその様子をカメラ越しに見つめながら、手帳に新しい項目を書き加えた。
「異常な視覚現象を確認。対象は何らかの特殊能力を保有している可能性大」
しかし、その文字を書きながらも、美月の心は揺れ動いていた。ユウトの孤独な後ろ姿を見ていると、なぜか胸が痛くなる。
「私……どうしちゃったんだろう」
任務への疑問と、ユウトへの想いが複雑に絡み合って、美月の心を混乱させていた。
夕方になると、ユウトは再びアパートへ帰っていく。美月はその後ろ姿を見送りながら、手帳を閉じた。今日もまた、彼の秘密に一歩近づいたような、それでいて彼から遠ざかったような、そんな複雑な感情に支配されていた。
「明日も……観察を続けなければ」
そう自分に言い聞かせながらも、美月の心の奥底では、全く違う感情が静かに育ち始めていた。それは任務とは関係のない、純粋な好意という名の感情だった。




