02二度目の恋は記憶を失った君に
サラと晴れて恋人になったクリスマスイブから数日後、一年の終わりが近づいてきた頃。
僕は、幼馴染みであり友人でもある二人と肩を並べ、サラの家へと向かっていた。
「それにしても、急に検査入院だなんて、本当に驚いたわよね」
黒川詩織は、艶やかな肩にかかるほどのセミロングに整えた、小柄で華奢な少女だ。冬用のダッフルコートをきちんと着込み、白いマフラーで首元を覆っている。華奢なのにそのハキハキとした性格から、吐く息の白さと相まって、冬の空気をいっそう凛と引き締めていた。
「連絡があった日は、人身事故があった日と近かったからね、本当に生きた心地がしなかったよ。すぐにでも飛んで行きたかったけど、サラのお父さんが『それは関係ない。怪我はないから大丈夫』って強く言うから、おとなしく水行しながら待ってたよ」
サラが入院するとの連絡があったのは、恋人になった次の日だった。
ちょうどその日は駅前近くの公園で、原付きに人がはねられるという事故があった日だった。幸いそのこととは関係なく、別の理由で一日だけの検査入院をして、昨日まで自宅で療養していたとのことだ。
「……おい悠人だから熱だしてたのか? なんで真冬に水行なんてしてんだ?」
神谷翔真は、焦げ茶色のミディアムの髪を無造作に跳ねさせた、少し軽い雰囲気の男子だ。
黒いダウンジャケットにチェック柄のマフラーをラフに巻き、足元はスニーカー。全体的に冬でも動きやすいラフな格好が彼らしい。
「0.001%でも危険があるなら、サラのためにできることをするのは普通でしょ?
だけど、熱を出すべきではなかったよ。挙げ句の果てに、そのまま続けてたら肺炎になりかけるとは情けない……」
「いやいやそこじゃねぇよ、真冬に水行って下手したら死ぬぞ!」
翔真の突っ込みの後、詩織がぼそりと呟く。
「この異常な執念……サラが他の男と付き合って幸せそうにしてたら、何するかわからないわね悠人は」
僕は少しだけ胸の痛みを感じながらも、穏やかな口調で、しかし本心から答えた。
「不本意ではあるけど、サラが幸せならそれが一番だよ。心から祝福して、何かあれば幼馴染みとして支えていくだけだ」
翔真が感心したようにうなずく。
「じゃあ、その男がサラを泣かせたら?」
「まずは、この世に生まれたことを後悔するくらいの苦しみを――」
「やっぱ怖ぇわ!! 危ないだろそれ!」
僕は肩をすくめ、ため息をついた。
「まあ、僕以上にサラを幸せにできる男なんていないだろうけどね」
多少の性格の歪み以外に欠点なんてない。サラを幸せにするために最適化してきた完璧スペックの男――それが僕だ。
そんな僕以上にサラを幸せにできる男なんているはずがない。
そうこうしているうちに道の先に、白い壁と黒い屋根のサラの家が見えてきた。
サラの家は大豪邸というほどではないが、一般家庭より一回りは広く、誰もが「裕福な家だ」と口を揃えるだろう。
――ピンポーン。
玄関についてチャイムを鳴らす。だけどなぜか、この時僕はこのチャイムの音が、今までの生活に終わりを告げる鐘の音のように感じた。
しばらくしてドアが開く。顔をのぞかせたのは、サラの母・白瀬カレンさんだった。
「あ……悠人くん、それに詩織ちゃんに 翔真くんも。いらっしゃい」
カレンさんはイギリス人だ。その喋りは柔らかで、英語訛りが混じる日本語は、耳に心地よく響く。
肩までの金髪は、サラと同じく冬の光を受けて白金色にきらめき、宝石のような青い瞳。すらりとした長身に、淡いベージュのニットとタイトスカートを合わせた装いは、まるで大人になったサラのようだった。
「こんにちは」
「ちわーす」
翔真と詩織がそれぞれ挨拶を返し、僕も続く。
「カレンさん、ご無沙汰してます。サラの様子は……大丈夫ですか?」
「ええ、怪我もないし、特に問題はなかったのだけど……」
言葉を濁すカレンさんの表情が、曇っていた。胸の奥で嫌な予感がざわめく。すぐにでもサラのもとへ駆け込みたかったが、それを押さえ込み、落ち着いた声で告げる。
「とりあえず……顔を見たいので、お邪魔してもいいですか?」
「ええ、どうぞあがって」
招き入れられ、僕たちはまっすぐサラの部屋へ向かう。
部屋の前につくと、カレンさんはドアをノックした。
――コンコン。
「はーい、どうぞ!」
サラは以前「ママは部屋をいつもノックしないの!」と文句を言っていたのだが、カレンさんはちゃんとノックをしていた。そのことにわずかな違和感を覚える。だが、サラの声は元気そうで、ひとまず胸をなでおろす。
ドアを開けると、そこにカーテンの隙間から入る冬の暖かい光に照らされた天使が、見た目では一週間前と変わらない様子でそこにいた。
いつもはサイドの編み込みをしてリボンで留めている金色の髪は、軽くひとまとめにして、毛先までゆるく波打ちながら後ろでシュシュにくくられている。ラフな部屋着のままベッドの上に座り、抱えたクッションに顎をのせる姿でくつろいでいた。
一週間ぶりに見るサラに、安堵しつつ今すぐ抱きしめたくなる衝動を必死で押さえ込む。
「サラ、大丈夫だった? 心配したんだよ」
「そうだぜ、RINEも返ってこないしさ」
詩織と翔真が声をかける。しかしサラは、困惑した表情で僕たちを見つめていた。
「えっと……あなたたちは誰?」
その言葉を聞いた瞬間、悪い冗談をいっているのではないかと思った。
だけど、サラは小首をかしげ、目を瞬かせていた。
その蒼い瞳は探るように僕たちを見つめているが、警戒や恐怖はなく、ただ純粋に戸惑っているだけのようだった。
「……サラ? 久しぶりで照れてるからって、そんな冗談はよくないよ」
なんとか平静を装い、言葉を返す。だけど、そんな言葉を発しながらも胸の奥では確信が芽生えていた。サラは、こんな悪質な冗談を言う子じゃない。
やはりと言うべきか、サラは申し訳なさそうに視線を落としてから。
「ううん、冗談じゃなくて……あなたたちが誰かわからないの」
その瞬間ガラスが割れるかのように、場の空気が砕け散った。
「カレンさん……いったい何が?」
カレンさんがかき消えるような声で呟く。
「ごめんなさい。私から詳しいことは……ただ検査の後目を覚ましたときから、なんだか様子がおかしくて……」
カレンさんの声が少し震えていた。
「先生は……一時的なショックで今までの記憶を失っているのかもしれないって」
「……え?」
「嘘だろ……」
詩織も 翔真も、息をのむ。その衝撃の事実にただただ言葉を失っていた。
僕は足元から何かが崩れるような感覚に陥った。だけど、そんな自分の気持ちよりも、まずはサラのことについて確認するべきことがある。
そう思い僕は無理やり自分の感情を押し込める。
「他に不便は……? 日常生活で困ることは?」
僕が問うと、カレンさんは首を振った。
「生活に必要な記憶は残っているの。でも……私たち家族のことも、あなたたちのことも覚えていないみたいなの」
その言葉に、詩織と翔真が同時に僕を見る。
二人は知っている。先週、僕とサラがやっと恋人になったことを。記憶が消えたということは、その瞬間も、恋人になった事実も消えてしまったということだ。
けれど、僕の心は落ち着いていた。
別に悩み悲観することは何一つない、大きな怪我もなく彼女がちゃんとそこにいてくれてたのだから。
ゆっくりとサラに近づき、彼女の前で膝をつき、まっすぐ見つめる。
「ねえ、君は今……不幸で困ってるかい?」
サラは小さく首を振った。
「ううん。みんな優しいし、不便もないよ。でも……これまでのこと、全部忘れちゃって。あなたのことも……ごめんなさい」
困ったような笑みを向けてくるが、それは自身の置かれた状況を嘆いているわけではなく、僕たちに対する気遣いや申し訳なさからくるものに僕は安心した。
記憶をなくしても君はやっぱり綺麗だと。
そんな彼女に向かって僕も、首を振る。
「気にやむ必要はないよ。忘れたなら、また新しい関係を築いていけばいい。まずは、自分のことを一番に考えて」
安堵の色を浮かべたサラが、静かに問いかける。
「ありがとう……それで、あなたは私とどんな関係なの? あなたは誰?」
その言葉を聞いて僕はショック受けることもなく微笑んで見せた。
別に彼女に今までの記憶があろうがなかろうが関係ない。僕はただ彼女が幸せになってくれればそれでいい。彼女が無事で今の自分を不幸と感じていないのであればやることはただ一つだ。
「はじめまして。僕は市ノ瀬悠人。君の幼なじみで――記憶をなくす前の恋人だよ。
君は忘れてしまったけど、その事実は変わらない。だから、恋人として僕のそばにいて。そして……もう一度、僕に恋をしてほしい」
その言葉を発した瞬間、サラの瞳の奥が揺れたように感じた。
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