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記憶喪失の恋人を、もう一度僕に恋させる  作者: 久遠遼
第一章:残念イケメンと記憶喪失の少女
18/39

18新学期

「……九十九、……百!」


 最後の一回を押し上げると同時に、長く息を吐き出した。

 両腕に残る重みと熱が、毎朝欠かさず積み重ねてきた鍛錬の証のように思える。

 腕立て伏せに続き、腹筋やスクワットなどいくつかのメニューを複数セットこなしてから、ようやく身体を起こした。


 額の汗をぬぐい、立ち上がるとそのままバスルームへ。汗を流し身支度を整える。

 キッチンに足を運べば、窓から差し込む朝の光が床をやわらかく照らしていた。

 冷蔵庫から卵を取り出し、フライパンへ。ジュッと小気味よい音とともに湯気が立ちのぼり、黄身の鮮やかさが朝を彩る。

 トースターには食パンを入れ、焼き上がるまでにコーヒーを淹れる。香ばしい匂いが漂い、静かなキッチンが少しずつ活気を帯びていった。


 こんがり焼けたトーストに目玉焼きとサラダを添える。

 シンプルながら整った朝食が並ぶと、不思議と気持ちまで引き締まる。

 椅子に腰を下ろし、カップを口へ。熱いコーヒーをひと口含んだ瞬間、身体の奥から「いよいよだ」という実感が広がっていく。


 今日は恋人になってはじめて一緒に登校する日だ。

 これまでも並んで歩いたことはあったが、愛する恋人と共に向かう学校は、やはり特別に思えた。


 クールに済ました態度を見せてきたけれど、はっきり言える。僕は恋愛偏差値ゼロだ。サラ一筋で、他に経験なんてない。

 けれど、恋愛小説やラブコメを読み漁ってきた僕に抜かりはない。

 恋人としての学園生活を完璧にこなし、僕という存在でサラに薔薇色の毎日を送ってもらう――そう決意を新たにする。


 朝食を片付け、必要な支度や準備を整えてから、鞄を手に取る。三学期になってようやく馴染んできた革靴に足を通し、玄関のドアを開けた。


「行ってきます」


 今日も空の家へ、返ってこない挨拶を投げかけ、外へ出る。

 わずかに雪が舞い、地面にはうっすらと積もっていた。

 屋外の朝日は、窓から差し込む光と違い、身体全体を照らして温めてくれる。サラの優しさの次くらいに。

 小鳥のさえずりもまた心地よい音色を奏で、爽やかな気持ちを引き立てる。サラの笑い声の次くらいに。


 そんな清々しい気分のままサラとの学園生活を思い描いて歩けば、あっという間に彼女の家に着いた。

 待ち合わせの時間より十五分早い。玄関前に立つのではなく、少し離れた道端で待つことにする。


 サラが出てくるまでに、浮かれた気持ちを切り替えた。

 外には様々な危険がある。その危険を一%でも減らすこと。

 そして、記憶をなくしてから初めての登校。サラが不便を感じないよう、しっかりフォローしなければ。


 ガチャ――。


 ほんの数分後に玄関の音に振り向くと、まだ時間前なのに制服姿のサラが立っていた。

 紺色のブレザーに同色のプリーツスカート。胸元のリボンは少し結びが甘くて、彼女らしい不器用さが滲む。

 マフラーがふわりと首に巻かれ、頬をほんのり赤く染めながらこちらを見て、ぱっと笑みをこぼした。


 冬の朝日に透ける金色の長い髪は、肩でさらりと揺れ、蒼い瞳は澄んだ冬空をそのまま閉じ込めたよう。思わず息を呑む。


「おはよう市ノ瀬くん、早いね?」


「おはよう。そうかな? サラこそ珍しいね。前は時間ギリギリに出てきてたのに」


「うーん、なんか少し早く目が覚めちゃってね」


 そう言って、僕の前を少し通り過ぎたところで振り返り、手を差し出す。


「とにかく、こんなとこで立ち話しててもしょうがないし行こっか」


 前方から伸ばされた手。弾ける笑顔とともに差し出されたその手は、冷たい空気の中でひときわ温かい。

 思わず足を速めると、雪を踏む音がサラの笑顔に寄り添うリズムのように耳へ届いた。


「そうだね、行こうか」


 その手を取り、僕たちは歩き出す。


 その途中、時折サラがギュッ、ギュッと確かめるように手を握る。

 僕も同じように握り返すと、


「えへへ……」


 彼女は嬉しそうに笑みを漏らした。

 ネックレスを渡したあの日から、また一段階距離が縮まった気がする。


 手を握り合い、少しだけ振る。特別な意味があるわけではないのに、胸の奥は幸せでいっぱいになった。


「サラ。余裕そうに見えるけど、不安はないのかい?」


 あまりにも楽しげな様子に、思わず尋ねる。

 彼女は前を向いたまま、口を開いた。


「うーん、人見知りしちゃうだろうし、ちょっとドキドキしてるけど……」


 そう言って僕を見上げ、満面の笑みを浮かべる。


「でも、市ノ瀬くんや詩織ちゃん、翔真くんもいるし大丈夫。みんなが通う学校がどんな感じなのか、少し楽しみなんだ」


「そっか。ひとまず今日は僕や二人から離れないようにね。少しずつ慣れていけばいいから」


「うん!」


 そう答えると、彼女は胸に手を当てた。


「ネックレス着けてきてるの?」


 もしかしてと思い聞いてみる。多くの高校では、ネックレスやアクセサリーといった類いの物は着用を校則で禁じられている。当然、僕たちの通う学校でもだ。


「ばれちゃった? えへへダメなの分かってるのに着けてきちゃった」


 サラはイタズラがバレた子供のような表情となる。


「校則を守らないなんて、サラは悪い子だね」


 そう言いながら、僕は少しだけ自分の制服のボタンを緩めてから、ネックレスを引っ張り出して見せる。


「あ-! そんなこと言って市ノ瀬くんも着けてきてる!」

 

「おーと、バレてしまった。お互い秘密にしとかないとね」


 彼女は心底可笑しそうに笑う。


「そんな堂々と見せておいて、白々いなんてもんじゃないよ」


 そう言ってサラは、繋いだ手のまますり寄ってきた。


「……二人とも悪い子。二人だけの秘密だね」

 

 その言葉を聞いた瞬間、心臓の鼓動が跳ね上がる。昨日からの彼女の変化に戸惑う。


 分かる。サラの中で僕への好感度が一気に上がっている。

 いずれそうなってほしいとは思っていたけれど、急な距離の縮まりに心の準備が追いつかない。

 平静を装うのが精一杯で、しばらくの間まともに口を開くことができなかった。


 それでもサラは、にこにこと嬉しそうに寄り添い続けていた。 

 

 

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