それから4
朝が来て、アオネコは学校に向かった。数週間ぶりの校門が見えてくる。
あたたかい春の風が頬を撫で、ベリーショートの髪の下を通り抜けて行く。
アオネコは、ゆっくりとした足取りで校門を抜けた。
昇降口の扉を開けると、廊下には見慣れた光景が広がっている。
生徒たちが行き交い、いつものように話し、笑い合う。
静かに歩き、教室のドアを開ける。
「……チイナ?」
瞬間、誰かの声が、教室のざわめきを止めた。一瞬、時間が凍りつく。
アオネコはそこで思わず立ち止まった。の喉が詰まり、心臓が跳ねる。
生徒たちの視線が、一斉にアオネコを見る。
「……違うよ、青生野さんだよ」
しばらくの沈黙の後、誰かがぽつりと呟いて訂正する。
「え、あ……ごめん。なんか、チイナに見えた」
もう一人の生徒が謝る。アオネコは、ふっと息を吐いて、小さく微笑んでみせた。
アオネコは、静かに教室を横断して、自分の席に座った。窓の外で桜の花びらがひらりと舞った。
外は、本当にいい天気だ。春の陽気がぽかぽかと辺りを照らしていて、花盛りの春を優しく包んでいる。新学期にとっくに入っているので、今年からみんな受験にいそしんでいる様子だ。
(私も頑張って、遅れを取り戻さなきゃ)
アオネコは、深呼吸して一限目の教科書をカバンから取り出した。
教室に先生が入って来る。生徒たちが、わらわらと席に着く。
「おはよう。ホームルームを始めるぞ」
机や椅子を引く音、黒板にチョークが走る音。教科書のページをめくる音。いつもの日常が、何事もなかったかのように流れ始めた。
授業が終わり、休み時間になると、何人かのクラスメイトが近づいてきた。
「青生野さん、久しぶり」
生徒たちが、アオネコの机の周りを取り囲む。アオネコはゆっくりと顔を上げた。
「うん……久しぶり」
アオネコが笑う。クラスメイトは、少し遠慮がちに微笑んだ後、ふと首をかしげた。
「なんかさ……青生野さん、変わったね」
まばたきして、アオネコは聞き返した。
「変わった?」
クラスメイトは言葉を探すように続ける。
「前より……ちょっと、チイナに雰囲気が似てきた気がする」
「……そうかな?」
アオネコは静かに微笑んだ。その微笑みに、クラスメイトたちが安心したように微笑み返す。
「髪、似合ってるよ。短い方が可愛いね!」
「そうそう!」
「ありがとう」
「ねえ、青生野さん、今日一緒にお弁当食べない?」
「うん、ぜひ」
「やったあ!」
「青生野さん、授業でわからないところあった?」
「うん、えーっと、過去のノートがあれば……見せてもらっていい?」
「いいよ!持って来るね!」
「しばらく学校休んでたし、授業の進み、結構早いよ。みんなで教えてあげるよ!」
アオネコは、一瞬戸惑った。誰かに頼ることには慣れていない。
でも、彼らの表情に打算はなかった。
ただ、普通に「一緒にやろう」と言ってくれているだけだった。
アオネコは、小さく頷いた。
「……ありがとう」
その日から、昼休みや放課後、アオネコはクラスメイトと一緒に勉強するようになった。
数学の問題を解きながら、みんなで頭を抱えたり、英単語を覚えるのに四苦八苦したり——
そんな時間の中で、アオネコは少しずつ"遅れ"を取り戻していった。
以前は、誰かと一緒にいるより、チイナとだけいるほうが楽だった。
チイナがそばにいてくれれば、それでよかった。
でも、今は違う。
教室で交わされる何気ない会話。
昼休みに友達と並んで食べる弁当。
放課後、寄り道しながら笑い合う時間。
それらはすべて、かつてチイナがアオネコに見せようとしていた世界だった。
チイナが好きだった世界を、アオネコは少しずつ好きになり始めていた。
窓の外では、春の風が吹き抜け、桜の花びらが空に舞っていた。