音と香りは夕暮れの大気に漂う3
「いや!」
抵抗したが、神楽耶の手はびくともしない。物凄い力で引きずられて、アオネコは部屋の更に奥へと連行されて行った。
アオネコは目に涙を浮かべてチイナを思い出していた。
(チイナも、私の部屋に連れて行かれた時こんな気分だった?)
アオネコはチイナの力ない肩を思い出す。彼女の僅かな抵抗を思い出す。
(チイナ、ごめんね、チイナ)
神楽耶の言うことが正しければ、あの時……『喜びの島』を聞いた時。メルティ・イヤーを使ったせいで、チイナはいなくなってしまった。チイナは、何も言わなかったが、アオネコは彼女の抵抗は感じていた。それでも快楽に抗えずメルティ・イヤーでの行為を強行してしまったのは、アオネコだ。アオネコが快楽に負けなければ、チイナの肉体は消滅せずに済んだかもしれなかった。
(ごめん、ごめんなさい)
アオネコの瞳から涙が溢れる。チイナへの悔恨が、アオネコの感情を満たしていた。
神楽耶は、アオネコを引きずりながら歩き続ける。
研究所の奥深く、冷たい闇の支配する場所に、その部屋はあった。
扉が軋む音とともに、神楽耶は無言でその扉を開いた。扉の中に、アオネコを投げる様に押しこむ。
アオネコは、リノリウムの床に叩きつけられて転がった。
「おっと失礼。あんた方の肉体になど興味はないものでね」
神楽耶が冷たく言い放った。アオネコは部屋を見渡した。部屋の中央には、巨大なガラス製の培養槽がそびえ立っていた。 それは、まるで棺のように静かに、しかし異様な存在感を持ってそこにあった。
内部には淡く青白い液体が満たされ、ゆっくりと小さな気泡が浮かび上がっていく。 ぼんやりとした光が液体に反射し、まるで水の中に揺蕩う夢の残骸のように見える。
アオネコの両の瞳が、驚愕に見開かれる。
培養槽の中には、少女の姿が浮かんでいた。
その肌は透き通るように白く、銀色の長い髪が液体の中でゆっくりと漂っている。閉じられた瞼の奥に宿る意識はなく、ただ人形のように静かに眠っていた。
「私のフェアリーだ」
神楽耶が、淡々とした口調で言った。
アオネコは、ふらふらと立ち上がって、培養槽に一歩近づく。指先が冷たいガラスに触れる。
「……何、これ」
神楽耶はポケットから煙草を取り出して火をつけた。煙を吐きながら彼女は答える。
「"バイオロイド"」
信じられないものを見る目で、アオネコは培養槽の中のフェアリーを見た。目が離せない。
「……これ、生きてるの……?」
神楽耶は微笑を浮かべる。
「そうさ。だが……ただの器だよ。今のままではな」
神楽耶は、培養槽の横にあるモニターに手をかけ、淡々とキーを叩く。画面には、フェアリーの生体データが映し出された。神楽耶が、誇らしげにアオネコに聞いた。
「私がこの子を作った。素晴らしいだろう?」
アオネコは眉をひそめる。フェアリーは人間の形をしていたが、その肌は異様に白く、まるで生気を感じない。瞳は閉じられていた。唇を割って差し込まれた管から空気を押し入れられて、ただ呼吸を繰り返すばかりだ。
「意識がない……?」
神楽耶は乾いた笑みを浮かべる。
「そうだ。"魂がない"んだよ。 どれだけ完璧な肉体を作っても、それを動かす"核"がなければ、ただの肉の器にすぎない」
アオネコは目を細めて、フェアリーから神楽耶に視線を移した。
「それと、私たちが何の関係があるっていうの?」
神楽耶はゆっくりとアオネコに向き直って、じっと彼女を見つめたあと、告げた。
「魂の融合」
アオネコの心臓がドクリと跳ねる。
「あたしは、一人でフェアリーを作った。これはあたしの最高傑作だ。フェアリーは年を取らない!永遠に美しい生命体……!」
神楽耶は煙草をふかしながら、うっとりと目を細めた。
「でも、どうやっても彼女に意識は宿らなかった」
神楽耶は、吸い終わった煙草を吸い殻入れに丁寧に入れると、アオネコに近づいて、ガラスを撫でながら培養槽の中を愛しげに覗き込んだ。
「そこで私は考えた。この肉体を"完全な存在"にするには、"個"の意識……私は魂と呼んでいる……その魂では不十分。では、もっと総量を高めれば或いは……二つの魂を一度にフェアリーに注入する必要があった。その魂は、そんじょそこらの馬の骨ではあってはならない。純粋な……そう少女の魂がふさわしい。純粋な"融合した魂"をあたしは求めた」
「まさか……」
神楽耶は静かに頷く。
「そう、この子に必要なのは、お前とチイナの融合した魂だ」
アオネコは息を呑む。神楽耶は得意げに微笑みながら喋り続ける。
「私はメルティ・イヤーを密かに開発し、叔父のアンティーク・ショップに置いた。メルティ・イヤーは、"二つの魂を一つにする"装置だった」
培養槽の冷たい光が神楽耶の顔を照らし、彼女は静かに微笑んだ。アオネコは神楽耶に尋ねた。
「……なんで、私たちなの?」
「最初からお前たちに目星をつけていたわけじゃない」
神楽耶は、培養槽から離れ、小さなテーブルの上のファイルを取った。
古びたページを開いて、神楽耶はそれをアオネコに見せつけた。そこには、過去のメルティ・イヤー使用者たちの記録が並んでいた。 しかし、どの名前の横にも「失敗」の文字が記されている。
「メルティ・イヤーは、単に精神を繋ぐ装置じゃない。"融合"を生み出す装置だ。普通の人間なら、使いすぎれば精神が耐えられず、やがて崩壊する」
アオネコの背筋がゾッと栗立つ。
「……崩壊?」
神楽耶はページをめくり続けた。過去の被験者たちの脳波記録が示されていたが、どれも最終的には"ノイズ"しか残っていない。
「過去の実験では、どんな人間も結局"壊れた"。"融合"するどころか、精神が分解されてしまったんだ」
神楽耶はアオネコをじっと見つめた。その目は湿度を持って、粘着質にアオネコをからめとっていた。
「だが——お前たちは違った」
アオネコは息を呑んだ。
「お前たちは、他の誰よりも強く繋がっていた。普通の使用者なら限界を超えた時点で精神崩壊するはずなのに、お前たちは"耐えた"。それどころか、"完全な融合"を果たした」
アオネコの脳裏に、メルティ・イヤーを通じてチイナと感じた甘美な一体感が蘇る。
「お前たちは、"個"のままではなく、"二つで一つの魂"として生まれ変わることができた。"溶け合うことを恐れなかった"。それが、お前たちを特別にした。素晴らしい」
資料が神楽耶の手から落ちて、バサバサと音を立てて床に落ちた。
「私は老婆に化けて、チイナにあれを買わせた。お前たちはよく我慢したよ。でも、結局はあの装置のもたらす快楽に抗えなかった。その結果、"完全に溶け合った魂"が生まれたのさ」
神楽耶はアオネコの目をじっと見据える。
「解離性同一性障害や統合失調症なんてものじゃない。あんた方のような魂は、世界にただ一つしかない。"フェアリーを動かす鍵"になれるのは、あんたたちだけなんだよ」
アオネコの拳が震えた。
「っ……ふざけないで!そんなことのために私たちは……チイナは……!」
神楽耶は静かにため息をつく。
「私はふざけてなんかいない。これは、素晴らしい"研究"なんだ」
アオネコは神楽耶を睨みつけて尋ねた。
「じゃあ、チイナの肉体が消えたのも……貴女の研究の一部だったっていうの!?」
神楽耶は首を横に振る。
「それは違うさ。チイナの肉体が消えたのは、お前たち自身の選択の結果だ。お前とチイナがメルティ・イヤーに溺れ、境界を失い、融合を望んだから、こうなった」
アオネコは言葉を詰まらせる。
「だが、"肉体の喪失"は決して終わりじゃない。"別の形"で新たに生まれることもできる」
フェアリーを指差しながら、神楽耶はアオネコに優しく語り掛けた。
「その肉体では、やがて老い、病み、死ぬだけだ。チイナを永遠にしたいなら、フェアリーに魂を移せばいい」
アオネコはその言葉に目を見開く。
「……それで、チイナは戻るの?」
神楽耶は微笑を浮かべる。
「既にチイナは"チイナそのもの"ではない。だがフェアリーは"あんたとチイナの魂を永遠に存続させられる存在"にはなるだろう」
アオネコは、フェアリーの静かな横顔を見つめた。
「これが、お前とチイナの"未来"だ。アオネコ!この肉体の魂となり永遠に生きてくれ!」
アオネコの心臓が、ドクドクと音を立てて振動していた。神楽耶が培養槽を指で軽く叩く。
「これは"新しい生命の創造"なんだよ!」
アオネコは歯を食いしばり、ガラスの向こうのフェアリーを睨みつけた。
その眠るような表情が、一瞬だけ、チイナに似ているように見えた。