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音と香りは夕暮れの大気に漂う2

 神楽耶博士の研究所は、街の外れにひっそりと佇んでいた。セダンが、研究所に入って行く。

 アオネコは、顔を上げて研究所を車内から見上げた。

 そこは誰も足を踏み入れようとしない、忘れ去られた一角を思わせた。

 朽ちかけた建物は、長い年月の間に風雨にさらされ、壁のコンクリートはひび割れ、ところどころ剥がれ落ちている。

 神楽耶は荒れて手入れのされていない駐車場にセダンを止めると、そこから降りた。

 注意深くあたりを伺って、アオネコも車を降りた。


 入口にはかつて白かったはずの鉄の扉がある。しかし、今では赤茶けた錆が広がっていた。

神楽耶が、扉を開く。蝶番は、不気味な悲鳴をあげてアオネコを招き入れた。油が切れている。扉の横にあったはずの表札はいつの間にか外され、代わりに薄汚れた紙片がセロテープで貼られているだけだった。何か文字が書かれていたが、雨に打たれて滲み、もう読むことはできない。

 窓はほとんど割れており、残ったガラスも黄ばんでいる。

 神楽耶が先に立って、建物へ入って行く。アオネコも、無言で後を追った。


 暗い室内に入ると、埃とカビの匂いが鼻を突いた。電気は通っているのか怪しいほど、灯りは弱々しく、死にかけたような蛍光灯が薄暗く点滅しているだけだった。


 神楽耶は更に歩みをすすめる。アオネコが足を踏み入れると、床が軋んでたわんだ。冷たいコンクリートの上には無造作に投げ捨てられた紙や道具が散乱している。 金属製の棚はすべて錆びつき、一部は崩れかけていた。


 中央には、かつて実験設備だったであろう機械が並んでいた。しかし、それらの大半は動いていない。配線はちぎれ、計器類は埃を被り、ガラスの試験管は幾つか砕け散っている。 モニターも亀裂が入り、画面の端に赤いエラーメッセージが点滅していた。


 空調はとうの昔に壊れたのか、空気は重くよどみ、何年も人がいなかったような寂れた匂いが漂っている。 しかし、わずかに感じる何かの薬品の残り香が、ここがまだ完全に捨てられたわけではないことを示していた。


 この規模から察するに、ここはかつては最先端の研究が行われていたはずの場所らしい。

 しかし今では、ただ朽ち果て、忘れ去られた廃墟のような建物と化していた。


「茶でも飲むかい」


 部屋の奥に備え付けられた椅子に腰かけて、テーブルに肘をつき、神楽耶がアオネコに尋ねる。


「いらない……」

「そう言うな、紅茶を淹れてあげよう」


 神楽耶は椅子から立ち上がると水屋みずやへ姿を消した。

 しばらくして、マグカップを二つ手に戻って来る。揃っていない柄と大きさが、この研究所の廃れぶりを表しているようだった。

 テーブルに紅茶が並べられる。アオネコが、そろそろとテーブルについて椅子に座った。

 アオネコはマグカップを覗き込んだ。カップには茶色い茶渋がついいて、濁った茶の色の奥に黒い粒か浮いている。何が入っているかわからない。


「流石に飲まないか」

「あたりまえ」


 神楽耶は、自分のマグカップをとって中身を一口啜った。中身が熱かったのか、あちち、と言って彼女は舌を出した。


「チイナはどこ」

「まあそう急くな、説明してやろう」


 神楽耶の後方には、黒ずんだスクリーンがついた古いモニターがあった。彼女がモニターの電源をつけると、ゆらゆらと液晶画面に光りが浮き上がる。

 神楽耶は静かにため息をつき、アオネコの瞳をじっと見つめながら言った。


「……お前はもう気づいているはずだ」


 アオネコの眉がピクリと動いた。


「何のこと?」


 神楽耶は淡々と続ける。


「メルティ・イヤーを使った時、お前とチイナは"繋がった"。だが、それだけじゃない。"完全に溶け合った"んだよ。」


 アオネコの呼吸が浅くなる。


「あのイヤホンは、ただの脳波共有装置なんかじゃない。"精神の融合"を引き起こす装置だ。お前たちが何度もメルティ・イヤーを使い続けた結果……チイナの精神はお前と一体化し、肉体は存在する意味を失った」


 アオネコの体が震える。机の下で握りしめた拳に、恐怖で力が入らなくなる。


「……チイナの肉体が、存在する意味を失った?」


 神楽耶は少しだけ口角を上げ、机の上のモニターを軽く叩く。画面にノイズが走り、赤黒いデータが浮かび上がった。


「ここに、チイナの脳波記録が残っている」


 アオネコはモニターを睨む。そこに映るデータは、素人のアオネコが見てもわかるほど、どれも異常な波形を示していた。


「これは、メルティ・イヤー使用直後の記録だ。最初は二つの異なる脳波が確認できた。お前のものと、チイナのもの」


 指でモニターをなぞりながら、神楽耶は続けた。


「だが、次第にチイナの脳波は弱まり、お前の脳波と同調し始めた。そして最終的に——チイナの個別の脳波は完全に消失した」


 アオネコが息を飲む。呼吸が止まりそうになる。


「それは……チイナが死んだってこと?」


 神楽耶は首を振る。


「いや、"死んだ"わけじゃない。"肉体が必要なくなった"だけだ」


 アオネコの目が大きく見開かれる。


「チイナの精神は、今でも存在している」


 突然、両腕を上げて、神楽耶がモニターに向かって崇めるように手をかざした。


「チイナは"お前の中"にいる!」


 アオネコの心臓が早鐘のように鳴る。


「……そんなはず、ない」

「わからないか!チイナはお前の中で眠っているんだよ!やがて完全に溶け合う日を待っているんだ!」


 神楽耶は笑った。その顔は狂気じみており、興奮した目は血走っている。

 彼女の迫力に気圧されて、アオネコは椅子から立ち上がって、少しあとじさる。


「さあ、私の眠り姫よ!お前たちの行く先を案内してやろう!来い!」


 神楽耶がアオネコの腕を掴んで引き寄せた。


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