音と香りは夕暮れの大気に漂う1
神楽耶博士が運転する古びたセダンは、街灯の少ない田舎道を滑るように進んでいた。車内にはエアコンの生ぬるい風が流れ、ダッシュボードには埃が薄く積もっている。カーステレオからは、ドビュッシーの『音と香りは夕暮れの大気に漂う』が、ノイズと共に切れ切れに流れていた。
アオネコは助手席に座り、腕を組んで外を睨んでいた。窓の外には、暗闇にぼんやりと沈む田園風景。街の明かりはすでに遠ざかり、ここにあるのは朽ちかけた電柱と、畑の向こうの影だけだった。
「煙草、いいかい?」
ハンドルを握る神楽耶博士は、細い指でタバコを挟んで、アオネコの返答も待たずに火をつけた。窓を少し開けていたせいで、夜風が時折灰を舞い上げ、甘く焦げた煙の匂いが車内に広がる。
しばらくの沈黙の後、神楽耶が口を開いた。
「……あんたがチイナを取り戻したいのは、理解できるよ」
アオネコは視線だけ動かして、神楽耶を見た。
「さっきから、何なの?何故私のあだ名やチイナのことを知ってるの」
「メルティ・イヤーには盗聴機能が付いている。あんた方のことは、あたしに筒抜けだったってこと」
アオネコはゆっくりと神楽耶の横顔を見た。車のメーターパネルが青白い光を放ち、神楽耶の顔に薄く影を落としていた。
「目的はなに?」
神楽耶はタバコの灰を指で払う。
「チイナに逢わせてやる。それだけだよ」
アオネコは眉をひそめた。神楽耶は薄く笑った。それは嘲笑ではなく、どこか嬉し気な微笑みだった。
「あんたは、まだ"個"でいるつもりだろう? でも、メルティ・イヤーを使った時点で、"個"なんてものは曖昧になってるんだよ」
アオネコは拳を握る。さっきから人を煙に巻くような物言いをするこの女が、無性に気に喰わなかった。
「……私はチイナを取り戻したい」
神楽耶はハンドルをゆっくりと切りながら、道路の先を見つめた。
「"取り戻す"ねえ。チイナが本当に"元通り"になるかね」
アオネコは言葉を詰まらせた。元通り?神楽耶は何を言い出すのだろう。
「あんたが見ているのは幻想だ。過去のチイナを、そのまま取り戻すことなんてできない。あんたがどれだけ願っても、"その時のチイナ"はもう、どこにもいない」
アオネコの喉がひりつくような感覚を覚えて、うつむいた。
「……それでも、私はチイナを見つけたい。貴女の言葉なんか関係ない」
神楽耶は再び微笑し、煙を吐き出した。
「ああ、関係ないさ。あんたがどうするかは、あんた次第だよ」
神楽耶の車は、暗闇の中を淡々と進んでいく。
行く先には、何もない荒野。
そして、その先には、神楽耶の研究所が待っていた。
✧••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✧
面白いと思ったら、☆評価・レビュー・フォローよろしくお願いします!