レントより遅く2
さしあたって二人は、メルティ・イヤーをカバンに忍ばせながら、学校に通い続けることにした。
アンティークショップから情報を得る作戦は失敗した。こうなれば、普通の生活を続けようとするしかない。
かりそめの、メルティ・イヤーを手に入れる以前と似た生活が始まった。
以前と変わってしまったことは、そこにチイナとアオネコの二人だけの秘密が隠されている点だ。
アオネコのカバンに忍ばせたメルティ・イヤーが、巾着の中で揺れる。メルティ・イヤーは、まるで日常に内包された秘密そのものだった。
秘密は、死守されなければいけない。
必然的に、チイナはアオネコとばかり過ごすようになっていった。
以前は、それでも他のクラスメイトと交流したり、教室移動していたものだが、メルティ・イヤーを使い始めてからは、ほとんど没交渉になっていた。
学校の時計塔からチャイムの音が聞こえる。お昼だ。
「お弁当食べに行こう、チイナ」
「うん」
二人は連れだって中庭の木の下に行き、お弁当を持って座った。
アオネコは、ハムとレタスとタマゴ入りのサンドイッチとプチトマトを持って来た。
チイナは、お弁当の風呂敷をほどく。今日のお弁当の中身はオムレツとアスパラのベーコン撒き、黒ゴマをふった白ご飯に人参しりしりだ。
朝、チイナはこれを母と一緒に作ったのだ。
『アオネコちゃんと仲良くしてる?』
そう言われて、チイナはぎくりとした。母はどうしてこんなことを言うのだろう。
『な、なんで?』
『だって、最近遊びに来たじゃない。また来てくれるのかなと思って』
『う、うーん。来ると思う。仲良し……だし』
『そうなの?チイナに仲良しがいて、嬉しいわあ』
『うん……』
母の無邪気な物言いに、チイナは苦笑いしながら答えるしかなかった。
チイナはアスパラベーコンを箸で摘まんで口に入れた。
(美味しくない)
まるで砂を噛んでいるようだ。お腹は空いているのに、アスパラもベーコンも、何か物足りなく感じてしまう。
それよりも、メルティ・イヤーを使って得られる快楽の方が、数段上だ。いや、上等な味だった。
二人はもそもそとお弁当を食べ終える。
木の葉からこぼれる木漏れ日が、アオネコとチイナを照らして、キラキラと瞬いた。
一つになる感覚が、アオネコとチイナを支配していた。
現実が味気ない。
チイナは無言でお弁当を食べ終えて、空の弁当箱を包み、立ち上がる。アオネコも食べ終えて立ち上がった。
教室に戻り、午後の授業を受ける。
現代国語の教師が、語り始める。
「瀬を早み岩にせかるゝ滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ」
チイナは、片手を椅子についてため息をついた。集中できない。
ふいに、あたたかいものが指先に触れる。アオネコの手だった。
チイナはその指に自分の指を絡め直した。二人で、周囲にばれないようにそっと手を繋ぎ合う。
窓の外の雲が、強い風にあおられてどんどん進んでいく。
触れ合っていれば、一つになっている気分に浸れた。
放課後、誰もいない教室に、チイナとアオネコはいた。チイナは椅子に座り、アオネコは机に座っている。今日の曲は、『レントより遅く』だ。
アオネコが胡坐をかいてスマートフォンを操作し、曲をタップした。
ワルツの旋律がゆっくりと流れ出す。時間が引き延ばされ、空間そのものが歪むような、陶酔感のあるゆったりとした流れがやってくる。
ワルツの形式を保ちながら、通常のそれに似たフレーズは無い。リタルダンドが全体のテンポを遅くする。ルバートがためらうように、囁くように続く。
左手の伴奏が静かに揺れ動きながら始まり、アルペジオがに広がる稲穂の波のごとく低音域で響く。
二人は広大な麦畑にいた。
穂波は風になびいて、ビロードの生地のように陽光を受けて光る。
チイナとアオネコは、白いワンピースを着て麦わら帽子をかぶり、麦畑に立っていた。
大きな雲が流れていく。空の太陽がため息をつき、レガートの風が穂と一緒にチイナとアオネコのワンピースを揺らした。ため息は折り重なり、旋律は流れていく。
音型が、ポルタメントの様相を呈してゆっくりと繋がっていった。
二人はそっと手を繋いでゆっくりと金色の麦畑を歩く。
音楽が、テンポを上げるにしたがって二人も走り出す。トリルが跳ねて、ターンが飛ぶ。散りばめられたそれらは、優雅さを連れて二人の周りを駆け回る。
突然、日が沈み、星の瞬く夜空に大きな月が現れた。月にはsf……スフォルツエンド……と書かれている。月と星々は不協和音を交わらせ、せめぎ合う快楽と激情を混ぜ合わせた。
アオネコの右肩から、片翼が生まれ、羽ばたく。チイナは、自分の背中を見た。チイナの左肩にも、翼が生まれる。
二人は一対の白鳥になって、夜空へ駆けあがって行った。
音楽は次第次第に高揚し、アルペジオと共により白鳥の羽ばたきを導く。羽ばたきが大きくなり、白鳥は月までたどり着いた。
ピアニッシモの遠さで、アオネコとチイナが一つになった白鳥が上限の月に降りたつ。
一つになった魂は、ブランコのように揺れる月に乗って宇宙の風に吹かれていた。