05
そこからは怒濤の日々で、十代の体力が無ければ死んでいたと思う。思考を十六分割くらいにして、同時にやるべきことを進めていくと、頭が爆発しそうになる。
縁談は、フェンテ家としてもナトゥリ家に申し込んでくれるが、ナトゥリ伯爵と子息のセルヴァは宰相閣下の部下として働いているというので、宰相閣下が仲人を買って出てくださった。
これで、伯爵家としても非常に断りづらい縁談となる。
根回しは準備完了で、あとは僕がアンに直接求婚するだけだ。
アンと約束した日。
フェンテ家に養子に入って初めてアンに会う。
授業にも身が入らず、放課後になるのを今か今かと待っていた。
「ソワソワしすぎだろうよ」
終業の鐘が鳴ると同時に教室を出ようとすると、宰相の息子が追いかけてきた。生徒会で活動しているので生徒会室に向かうのだろう。途中まで特別教科の教室と同じ方向だ。
人気があるうちは他愛のない話をして、二人になった回廊で、肩を叩かれた。
「良かったな」
何が、なんて主語は必要ない。ほんの少し、いや、結構……大分助けているからか、僕が手柄を立てて子爵家に養子に入ろうとしていた計画に一番協力してくれた。
「はい、ありがとうございます」
立ち止まってお礼を言うと、更にバンバン背中を叩かれた。
「固いな。もう養子に入ったんだろ? うちと同じ侯爵家だろうが。まあ、突然過ぎてついていけてないかもしれないが、友達だろ?」
ばちん、とウィンクを飛ばしてくるのが気持ち悪い。本当にあの宰相閣下の息子だろうか。どちらかというとフェンテの義父と血の繋がりを感じる。
そう思ったのがバレたのか、「さかのぼれば貴族なんて皆親戚だよ。フェンテの長男はうちの父に似てるしな」と軽く笑われた。
そんな交差して似なくてもいいと思う。ややこしい。
「……ありがとう」
「照れ隠しか?」
そういうことは気が付いても言わないもんだよ。
でもまあ、宰相家の協力がなければ、ここまで来れなかった。これから先は使い勝手よく方方からコキ使われるだろうが、潰れないように上手くやるしかない。
だって、アンに求婚出来るんだから、それくらい乗り越えて見せる。
「ようやく婚約を申し込める。本当に好きな子の前だとドキドキして手も握れない……」
何言ってんだコイツ? って顔しないで欲しい。
「ずっとずっと、アンとまた出会えたらって想像してたんだ。きっと緊張しすぎて手も握れないどころか意識しすぎて子どもの頃と違ってきっと話すらできないと。でも、現実は理性が木っ端微塵に吹っ飛ぶくらい、アンはヤバかった……。婚約は最短で、すぐに結婚したい。僕が求婚したらアンは驚くだろうか? 学園だけだと思っていたのに……喜んでくれるだろうか?」
「色ぼけか。せいぜい跪いて愛を請うんだな。付き合ってすぐ令嬢に腰振るとか、猿か。童貞が身体目当てだと思われていても仕方がないぞ? 順番が逆にもほどがあるが、学生結婚も珍しくはないし、しっかりと言葉にして求婚することだ」
明け透けで厳しい言葉とは裏腹に、笑って生徒会室に向かって行く友の姿を見送って、僕もアンとの待ち合わせの教室に向かった。
言われなくても、縋ってでも求婚して「うん」か「はい」と言わせてみせる。
そう意気込んでいたのに。
その日、アンは来なかった。
いつも次の約束は事が終わった後にしていたから次の約束は空っぽのまま。そうなると、アンにまったく会えなくなった。
下級生が上級生のクラスを覗くなんて悪目立ちが過ぎる。まだ婚約を公表していないのに、それは憚られた。……断られるとは思っていないから、もう婚約者でいいだろ。
学園内を無駄に移動したり空き教室で待ってみたりしたけれど、アンに会えないどころかチラリと姿を見ることもなく夏期休暇に入り、僕はフェンテ家に帰宅した。
こうなったら、ナトゥリ伯爵へ正式に求婚の申し込みをしてもらおう。まだ養子になったことも公表していないから、僕からアンに直接手紙を出すことが出来ない。アンにきちんと話をしてからと思っていたけれど、休暇明けまでなんて待てない。
僕は義父に時間をもらって、お願いした。
すると義父は、ちょっと困った顔をしていた。
……嫌な感じがする。
案の定、義父の話は衝撃だった。
宰相閣下は仲人としてとっくにナトゥリ家に僕とアンとの縁談を打診してくれたという。だが、ナトゥリ伯爵から「本人の気持ちを尊重したい」と回答を保留にされており、感触としてはとても良くないと、宰相閣下は感じたそうだ。
「アンヘリカ嬢はナトゥリ家でそれはもう溺愛されているそうなんだ。伯爵本人はもちろん、夫人も嫡男も不自然なくらいに。そもそも養子に迎えた経緯も、夫人の旧友の遺児で身寄りが他にないからという表向きの話だが、アンヘリカ嬢がナトゥリ伯爵本人の娘であることは、まあ暗黙の了解だ。だとすると、やはり生さぬ仲の夫人と父親の婚外子に対して嫡男までもが溺愛するのは腑に落ちない。腑に落ちないが、宰相は溺愛故にアンヘリカ嬢をそもそも嫁に出す気がないのではないかと受け取ったようだ」
「アンを、溺愛?」
嫡男のセルヴァ・ナトゥリの妹愛伝説は聞いていたが、ナトゥリ家全体で溺愛しているとは、にわかに信じられなかった。
ナトゥリ家では母親の墓参りすら言い出せないような環境だったのではないのか? 確かにはっきりとそう聞いたわけではないし調べたわけでもないけど、その後変わった? 溺愛なんて真反対じゃないか。
ここで僕は、付き合ってからもアンから家族の話をほとんど聞いたことがないことに思い至った。
同時に、いつも獣のように盛るばかりで、他愛のないもの以外、話らしい話をほとんどしてこなかったことに気付いてしまった。
あれ……僕、最低……じゃないか?
「ちょっと、旗色が良くないようなんだけど、君はアンヘリカ嬢と恋人同士なんだよね? フェンテ家に養子に入り、アンヘリカ嬢に求婚する旨をちゃんと伝えていたんだよね?」
義父にズバッと核心を突かれてしまった。
正直に言うしかない。
「言って、いないです。子爵家に養子に入るつもりで色々動いていたことも、きちんと決まってから言おうと思っていて、そのことも」
義父が黙ってしまった。
目が「お前マジか」と言っている。
「それは、とても良くない情報だね。だとすると、君はあくまでバカラン男爵の嫡男であって、彼女は君が自分に求婚なんてあり得ないと思っているだろうし、ナトゥリ家ではいきなりフェンテ家から縁談を申し込まれて、しかも宰相経由という圧力付きで来た話にそれはもう警戒しているだろうね。……ふむ、明日ナトゥリ家に行こう。きちんと何を話すか考えて支度しておきなさいよ。嫁さんの実家の第一印象は大事だよ」
僕は力なく「はい」と言うしかなかった。
明日、挽回しなければならないというのに、アンにしばらく会っていないことが心臓に突き刺さるほど不安だった。
僕は、何か、とんでもなく大切な何かを見落としているのではないだろうか、と。