最終話
「くりしゅ、くりしゅ! はやく!!」
アンの手を引いていたレナトが振り向いて手招きする。
小さな手のひらで『おいでおいで』するレナトに相好が崩れた。
後ろから二人を眺めていたが、小走りで横に並んでレナトの手を取ると、レナトはアンと僕の間で両手を繋いでご満悦だ。
ナトゥリ領の中でも北に位置する町に三人で来ていた。住んでいる村から馬車で三時間ほど離れたこの町は、領内でも栄えた町だ。
春の穏やかな風がアンとレナトの髪をなでる。
小高い丘の上の共同墓地。
そこにアンの母は眠っていた。
宿からそう遠くないので、散歩がてらゆっくりと三人で歩く。
墓地が近づくにつれて濃くなる春の匂い。そして墓地が目に入った途端、アンが息をのんで立ち尽くした。
「おはな! しゅごいねー!!」
レナトが目を輝かせて踊り出した。
何をしても可愛いしかない。
その共同墓地は、春を迎えて色とりどりの花が咲き誇っていた。
見渡す限りの花に、墓地であるのに陰気さは一切なく、公園のように町の人や観光で訪れる人の憩いの場ともなっていた。
アンがここを訪れたのは数年ぶりのこと。妊娠と出産で、訪れることができなかったのだ。
アンが最後に来た時は、土と草のいわゆる普通の墓地だったろう。
僕からアンとの出会いを聞いた伯爵たちは、すぐさま、アンの母の墓地のまわりに花の種を蒔いた。伯爵夫人が「でも、ローザは自分だけじゃ嫌がると思うわ」と言い、それならばいっそのこと、墓地全体をフラワーガーデンにしてしまえとなったのだ。
墓地が花で埋まると、花を管理する人の雇用を生み、訪れる人が増えたことで商売も生まれるという相乗効果をもたらした。以降、ナトゥリ領の墓地は花で溢れることになり、それは他領にも広がっていった。
それに伴う事務は当然のように僕の担当だった。なぜだ。
立ち尽くすアンの手を引いて、母親の墓へと促した。
墓石を見たアンの涙腺が崩壊した。
『最愛なる母 ローザ・ナトゥリ ここに眠る』
アンが埋葬した時には彫られていなかった『ナトゥリ』の文字。
セルヴァ殿が追加で彫らせたものだ。
「アンがナトゥリ家の実子だなんて、皆分かっていますよ。髪や目の色が違うだけで父上そっくりじゃないですか。俺の代がアンの出生について何か言われたぐらいで揺らぐとでも?」
そう言って押し切った。
うん、揺らがないね。そんなことで攻撃する家があったら、セルヴァ殿は踏み潰すだけだよね。
「レナト。ローザお祖母様だよ。お母さんのお母さんだ」
レナトにはアンには母が二人いると話していたので、すんなりと「おばーしゃま、いしだぁ」と受け入れた。
いや、そういう受け入れの仕方? 石が本体ではないが、幼児には説明が難しいな。
僕は持ってきたシートを墓前に広げ、静かに泣くアンを座らせた。
「……おかーしゃん、いたいいたい?」
泣くアンを見て、レナトが驚いている。
「大丈夫、どこも痛くないよ。お母さんは、お祖母様と心でお話しをするから、後ろでお茶の準備を一緒にしような」
不安になったのか、「くりしゅ、ぎゅう」と抱っこを強請ってきた。
座ったまま膝に乗せてやると、全身でひっついてきた。そのまま、宿で水筒に入れてもらったハーブティーをコップに注ぎ、焼き菓子を出してレナトの口に一つ入れた。
モグモグと頬張り、お茶を飲んで落ち着いたのか、レナトが立ち上がってアンに背中から抱き付いた。
「おかーしゃん、いいこ、いいこ」
アンの背中に顔をグリグリ押し当て、何故かレナトがえぐえぐと泣き出した。
アンがレナトを正面に抱き直し、僕に背を向けたまま、墓前で呟いた。
「お母さん、息子のレナトです。……大好きな人との大切な子です」
息をのんだ。
あの日、アンに会いに行った日。
僕から全てを聞いたアンは怒った。
それはもう怒った。
思い出したくないくらい怒った。
人間はこんなに怒ることができるのかと、一周回って僕が冷静に考えてしまうくらい怒った。
アンは、自分でも何でこんなに怒っているのか分からないほどの怒りが込み上げたという。誰に対するものでもなく、漠然としたその怒りは、はっきりと気持ちと事情を言わなかった僕に対するものでもあったし、確認せずに思い込みで行動したアン自身に対するものでもあったし、黙っていた家族に対するものでもあったし、タイミングが悪すぎるこの世の全てに対するものでもあったようだ。
そして怒りだけではなく、自分の足で立っていたと思っていたのに、ある意味、僕とナトゥリ家の手のひらで踊っていた自分の滑稽さや情けなさ、自分だけ蚊帳の外に置かれた疎外感、孤独感、それらを全部ひっくり返すくらいの幸運が自分を守っていたことへの奇跡、それを素直に認められない頑なな感情がごちゃまぜになって、怒りが表に押し出てきたようだった。
僕は、「ごめん」と「アンを愛している」を繰り返すしかなかった。
やがて少しだけ落ち着いたアンは、力なく笑って言った。
きっと、前ならこうやって感情を出すこともできずに黙って自分の中で飲み込むだけで、飲み込みきれない感情に溺れていたと思う。
きっと今だから。一人になってレナトを産んで、ここにいる今だから、こんなに感情を出せている。
すぐには落ち着くことも許すことも、あなたの気持ちに返事をすることもできないし、簡単にしたくもない。
それでもいいなら。
時間をくれるなら。
隠れていないで側にいて。
そう、僕の手を握ったまま言った。
それから僕はアンの家で居候している。
恋人の距離ではなく、レナトの父としてだけれども、この冬は寒さが例年よりも厳しくて、体温を分けるように三人で寄り添いながら、たくさんの時間を過ごした。
そして春になって、アンの母の墓参りに行こうと僕が誘った。
どんな形であれ、ずっと側にいるから挨拶させて欲しいとお願いした。
レナトにとっては初めての遠出となり、三人で時間をかけて準備して来た。
出発が近付くにつれて、アンは物思いに耽ることが増えた。アンは渦巻く感情を一つ一つ整理しており、時々、レナトを寝かしつけた後に感情を抑えきれずに泣きながら暴れたが、グシャグシャな顔でもただ可愛いだけだ。
抱き締めるだけじゃなくて抱いてしまいたかったけれど、さすがに今回は理性が勝ってくれた。よかった……理性よ。
墓地を見たらきっと、自分がどんなに周囲に愛されているか、もっとアンの中に浸透するに違いない。ゆっくりでいいから、アンに自分自身も愛して欲しい。
それだけでいいと思っていたのに、アンは今、なんて言った?
「アン……今」
「クリストバル」
「アン……ヘリカ」
「私、あなたが好きなの。男爵家のあなたとは結婚できないって分かっていたけど、私のことなんか覚えていないかもしれないと思ったけど、学園であなたを見つけて、告白して、触れられて抑えられなかったくらいにあなたが好きなの。妊娠が分かった時、父も母も兄も、無理矢理関係を結ばされたのだろうと何度も聞かれたけれど、絶対認めなかった。私が、クリスを欲しかったの。……クリスが、手も握れないような想いでいる女性に求婚すると聞いて、私のことではないと思って、こんなに好きなのに、クリスは私じゃない人を選んだと思ったら、はっきりとそれを聞くのが怖くて、離れた。愛した人の子どもがいれば、それだけでどんなに幸せかって、自分に言い聞かせた。どうせ、私はいつも誰かの代わりだと思って生きていたから」
座りながらレナトを抱いているアンをレナトごと抱き締めた。
「私はあなたをとっとと諦めたのに、クリスは、私を、諦めなかった」
「うん」
「ありがとう……」
「うん」
「これからもずっと側にいて……」
「うん」
僕は嗚咽で「うん」しか言えなかった。
「くりしゅも、いたいたい?」
グスグス泣いていたレナトが僕の頭を撫でてくれた。
なんて良い子なんだろう。
「レナト、クリス、でなくて、お父さん、よ」
アンがレナトにそう言ってくれたが、今まで側にいても父親だと名乗ったことはなかった。理解できるだろうか。
「うん、しってりゅよ! くりしゅって、おとーしゃんのことでしょ!!」
知ってることを聞かれて嬉しくなったのか、レナトは大きな声で言った。
アンと目が合うけれど、お互いに首を横に振る。アンは僕が父親だと教えていないし、僕も告げていない。
それに言い方微妙? 「クリスがお父さん」じゃなくて、「クリスってお父さんのこと」とは。
「おじーしゃまとおばーしゃまがいってた! ぼくのおうちは、おとーしゃんのこと、『くりしゅ』ってよぶんだよって。とくべつなんだって!」
「お父様とお母様が……」
アンが呆然と呟いた。
僕も言葉にならない。
うちは父親のことを「クリス」と呼ぶのだと、伯爵と伯爵夫人がレナトに教えたと?
ならば……ならば、レナトが「くりしゅ」と僕に向かって呼んでいたのは。
「……ずっと、お父さんだと思って呼んでくれていたの?」
「うん!! だって、くりしゅはくりしゅでしょ!!」
震える声でレナトに尋ねると、当たり前みたいな顔して答えてくれた。
あの人たちは。
ナトゥリ家だけでなく、アンと僕の周りの人たちは、僕たちが見ていようが見えていまいが気付こうが素通りしようが関係なく、こんなにも僕たちを慈しんでくれていた。
未熟な僕たちにじれた思いをすることもあっただろうに、見捨てることなく見守り、導き、育んでくれていた。
アンだけじゃない。
僕も確かに愛されている。
深く深く、こんなにも愛されている。
僕の涙腺も決壊し、アンとレナトがずっと抱き締めてくれた。
愛する人たちと心を通わせた僕の心は、温かさと万能感に満ちていた。
まるで物語の主人公のように、紆余曲折があっても、幸せになる星の下に自分がいるような気すらしていた。
でも、現実は物語とは違い、小さなすれ違いから取り返しのつかない事態に発展するし、壊れた人間関係は再生することの方が珍しい。
僕の人生の主人公は確かに僕だけれど、僕の人生は物語じゃない。
物語かのように、運命が僕とアンの縁をまた結んでくれたわけじゃない。
僕たち親子三人が一緒にいられるのは、周囲の人たちの助力があってこそだ。
出会えた喜び。
手が届かない絶望と諦め。
諦めることをやめて顔を上げた一歩。
想いが繋がった日。
手からこぼれ落ちて喪った瞬間。
側にいながらその目に映ることができない日々。
僕を呼ぶ声。
そして、今、僕を包む温もりと匂い。
言葉にならない。
僕一人では手にできなかった言葉にならないこの想いを、僕も周囲に与えられる人になれるだろうか。
アンとレナトを抱き締めながら、僕が手を伸ばせる範囲にはなるけれど、精一杯手を広げて、僕もそういう人でありたいと心から思った。
後に、ありがたくも『陛下の懐刀』と呼ばれるようになった僕の、ここが始まり。
次回、エピローグで完結です。
やっと主人公の名前が出てきました。
是非、今までのレナトの「くりしゅ」を「おとーしゃん」に脳内変換して読み返してみてください。( ´∀`)




