テルモピュライの詩人
熱の門をご存じでしょう。
そのとおり、先の戦争で、ペルシャの侵攻を止めるため、スパルタの戦士三百名が、壮烈に散ったあの地です。
あなたもきっと幾多の歌で、あの地で起きた出来事を、きき知っているに違いない。
レオニダス王の指揮のもと、スパルタ戦士三百名は、かの隘路へと布陣した。
決戦の日はもう間近、敵の大群数百万、彼方に立つは土埃、喇叭と太鼓の響きも迫る。
死の押し寄せる物音を、ききつつもなおスパルタ兵は、静かに座り、髪くしけずり、香油を肌に塗りこめる――
これから、おきかせ申すのは、その地で起きた出来事です。
まだ世の人々の知らぬ、とある詩人の物語。
* * *
われは詩人、ホメロスの
ひそみにならい目は見えぬ、
されば詩歌女神たちあわれみて、
われに物語るわざを授けつ。
さて、盲目のわれ一人、
手を引く役目の少年と
はぐれ、海辺をさまよいて、
声を限りに叫びしも、
応える声はつゆに無く、
ついには行くも戻るもならじ。
途方に暮れて道ばたに
杖置き座りおる折しも、
にわかに我が手をむんずと取りて、
強く引きつつ言う声あり、
「来よ、詩人よ、我らが王が
汝の歌を待ちいたるなり」
われはおどろき怪しみて
見えざる目をば凝らしたり。
もとより姿は見えざれど、
有無を言わさぬ大音声、
巌のごとき手の力、
耳にきこゆる武具の音、
汗と香油のにおいして、
屈強の戦士に相違なし。
「来よ、詩人よ、我らが王は
汝の歌を待ちいたるなり」
「ありがたきこと、されどまた
何処の方か、名は何か」
わが問いにしばし応え無く、
にわかに起こる物音は
海風の鳴くか、嗚咽の音か、
しばしの後に静まりて、
「知らずともよし、疾く来たれ、
我らが王は待ちかねつるぞ」
なお訝しく覚ゆれど
王なる方の前に出て
歌うは心躍るゆえ、
立ちて、戦士と共に歩みつ。
やがて薪のはじける響き、
ほのかに焚火のあたたかさ、
無数の男たちの声と、
武具のこすれる響きあり。
わが手を引きし戦士の告げて、
「我らが王の御前なり」
王なる方の声のして、
深く快きその響き、
あたかも獣の王者なる、
獅子の喉より語るがごとし。
「詩人よ歌え、スパルタの
男らの誉れ、武勲を。
死の闇もまた、
陽のさす道も、
命預けし朋友と、
誇らかにゆく男の歌を」
四方より起こる男らの
武具打ち鳴らす賛同の
声に我が身の勇躍し、
燃ゆる思いのままに歌いぬ。
喉を震わし杖打ち振り、
汗を流して語り歌えば、
男ら手を打ち、声をあげ
夜空を燃やす篝火も
海風も石も星々も、
ともに歌いぬ、スパルタの歌……
歌の終わりの静けさに
すすり泣く声、風の音
王はわが手を握りしめ
「共に来よ」とぞ誘えり
えも言われぬはそのあたたかさ
われは夢見る心地にて
「共に」と口に上せんと――
あれ! 旋風のたちまちに
衣をまくり声塞ぎ
数多驚愕の声起きて、
静まりて、のち、ひとつの声が――
「行ってはならぬ、彼らと共に。
あるべき場所の異なるがゆえ」
「御身は何処の何方やら?
お声に覚えはありませぬ
王は何処か? 迎えの方は?
共に歌いし兵たちは?」
「皆もうおらぬ、詩人よ、
そなたは境を踏み越えて、
歌ってはならぬ者に歌った。
許されぬ咎、なれど此度は、
その歌に免じ、見逃そう。
帰れ、戻れ、詩人よ――」
* * *
激しい風がおさまって、ふたたび篝火も燃えだした。
小さく火の粉のはじける音。
顔をおおった腕を下げ、一同は顔を見合わせた。
「……行ってしまったな」
「ああ、行った」
「行ってしまったのだ、やつは」
戦士らは王の顔を見る。
彼らを指揮する勇敢なる王、レオニダス一世その人を。
王は笑った、さびしげに。
「律儀な詩人め。我らより、一足先に行ったものを。最後の歌を聴かせると、わしと交わした約束を、果たさんがため舞い戻ったか」
「おお、今のはやはり、あの詩人」
「病で、最期は目も見えず」
「それでも我らと共に歩いた」
「我らの歌を、歌って逝った……」
口々呟く戦士たち。レオニダス王は笑って言った。
「すぐだ、明日だ、男らよ。明日には、やつとふたたび会えよう。冥府でふたたびまみえたならば、共に歌おう、スパルタの歌を――」
* * *
そうです……死んでいたのです。
病に倒れ、それを忘れて、彼らと共に行こうとしていた。
よくあることです。気付かないのです。そうだと、教えられるまで……
そうです。死んでいるのです。
ようこそ、ここが冥府の王の館。
懐かしい皆に会えますよ。わたしも、王や仲間に会えた。
今日は魂の導き手たる、ヘルメス神もおいでです。
ようこそ、ようこそ、お入りなさい。
わが歌でおなぐさめいたしましょう。