*8* 純情インキュバスという天然記念物
宿にノアを連れ帰ってすぐ、ベッドに荷物を投げ出す。
「シャワー浴びといで! タオルはすぐに持ってくからね!」
クローゼットから予備のフェイスタオルをつかんで、頭に引っかける。
わしゃわしゃとある程度水分をぬぐいながら、マジックバッグの中身をベッドにひっくり返した。
「1階のレストランでホットミルクを作ってもらって……黒胡椒って入れてもらえるかな? チーゴの花の残りで、風邪薬も作っとかなきゃ……」
備えがあるに越したことはい。
ぶつぶつとひとりごとをこぼすわたしは、ひたり、ひたり、と近寄る気配に気づかなかった。
華奢な腕が腰に巻きつく。
ばさり。布が床に落ちたような音に、思考が一瞬停止する。
「……リオ……」
かすれた声が、近い。
燃えるような体温が背中に密着していて、我に返った。
「ノア、離して?」
「……やだ」
「シャワー浴びないと、ほんとに風邪引いちゃうよ!」
「……俺の話、聞いて。リオ」
……来た。
「ずっと……言わなきゃって思ってた。でも、勇気が出なくて……ほんとうのことを話したら、リオに捨てられるんじゃないかって、怖かった……」
わたしが知らないフリをするのを、きみは、許してくれないんだね。
「ねぇ、リオ……」
「うん……」
「こっち……向いて、くれる?」
息を吐き出すように、ノアが言った。
腰に回された腕がゆるんで、痛いくらいの沈黙後、わたしも腹を決めて向き直る。
そして、目を見ひらいた。
ローブやシャツを脱いで、上半身裸になったノアの肩の向こうで、コウモリみたいな一対の黒い翼が広げられていたからだ。
ほの暗い影を落としたサファイアのまなざしでわたしを見つめながら、ノアは重い口をひらく。
「……さっきの占い師が言ったとおり、俺は人間じゃない……夢の中で人を食う、インキュバスなんだ」
* * *
インキュバス。夢魔や淫魔とも呼ばれている。
異性と交わり、精を注いだり、吸い取ったりする悪魔のこと。
男性体をインキュバス、女性体をサキュバスという。
「俺の魔力が高いのは……母さんが、聖女だったからなのかもしれない……」
聖女の血を引くインキュバス。
水と油が混ざりあったみたいに、信じられない話だ。
「だけど、こどものときは全然魔法とか使えなくて、みんなからは落ちこぼれって言われてて……俺は、父さんに守ってもらってばっかだった……」
生まれてすぐに、お母さんを亡くしたこと。
お父さんとふたりで暮らしてきたこと。
そんなたいせつな家族を、突然奪われたこと。
独りになってから、何年も何年もあてもなく放浪して……あの娼館街に連れて来られたこと。
言葉を詰まらせながら告白されたことは、わたしの想像以上に、壮絶な人生だった。
──どうせ帰る場所もない。
ノアがどんな思いでそう言っていたのか、いまさら思い知るだなんて。
「騙すつもりはなかった……でも、俺は悪魔だから……みんなに嫌われてる、落ちこぼれだから、言え、なくてっ……」
「……ばか」
「リオ……ごめん、ごめんなさい……俺が悪いから……嫌わないで。俺のこと、捨てないで……おねがい、おねがい……っ!」
悲痛な声で懇願するノアを前にしたら、もうたまらなくなった。
「ばか! なんで謝るの! ノアは悪いことなんてしてないでしょう!?」
ぺちんっと音を立てて、両ほほを叩く。一応手加減はした。
そのまま包み込んだら、濡れたサファイアが、丸みをおびる。
いつ見ても、こぼれ落ちそうな瞳だ。
「ノア、『嫌いにならない?』って聞いたじゃん。『ならない』って、わたし答えたじゃん……なんで信じてくれないの」
だめだ……泣いちゃいけない、泣いてる場合なんかじゃないのに。
「ノアは、わたしの嫌がること、したことないでしょ? それに、ノアがわたしの役に立ちたいって言ってくれて、すごくうれしかったんだよ……」
目頭が熱い。あーあ……もういいや。
ぽろぽろこぼれる涙は、もう我慢しない。
「ノアが悪魔でも、わたしがノアを嫌う理由にはならない。きみはいい子。……すてきなお父さんに、育てられたんだろうね」
「ッ……!」
わたしの父親は、最低なやつだったよ。
月とスッポンすぎて笑えてくる。
「独りでがんばってきたねぇ……寂しかっただろうねぇ。すごく傷ついただろうに……わたしのこと、頼りにしてくれて、ありがとうね」
「……リオ……」
「約束して、ノア。幸せになるって。きみが幸せになることが、いじわるしてきたやつらへの一番の仕返しだから!」
「リオ、リオ…………りぉおっ……!」
「ぎゃっ!?」
ノアに飛びつかれて、ぽふん、とベッドに沈み込む。
乙女らしからぬ奇声を上げてしまったけど、どうかスルーしてほしい。
「ほんとに、そばにいてくれる……? 父さんみたいにどこにも行かないで、ずっとずっと、俺のそばにいてくれるって、約束してくれる……?」
「うん。指切りげんまんしよう」
「ゆびきり……?」
「絶対に約束やぶらないって誓いを立てるの。手を出して?」
こわごわと差し出された左手の小指に、右手の小指をからめる。
「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます、ゆーびきったっ!」
「なにそれ、怖いな、ははっ……」
くしゃっと顔をゆがめたノアが、サファイアの瞳から、ぽろりと涙をこぼした。
「ありがとう、リオ……俺もう、絶対リオから離れないから……俺をひろった責任、取ってよね……っ!」
「ははは、苦しゅうないぞよ」
「リオ……俺のリオ……んん」
ぼろぼろに泣いてるのは、安堵のあらわれだろう。
甘えたようにほおずりをしてくるノアに、わたしも頭をなでなでしてあげていたんだけども。
「……もっと近くにいきたい、リオ……はぁっ」
なんだろう……ノアの呼吸が、荒いような?
そして気のせいでなければ、わたしを至近距離で見下ろすまなざしが、煮つめた砂糖みたいに蕩けているような?
「もう、がまんできないっ……」
はぁはぁと肩で息をするノアが、ベッドで仰向けになったわたしへなだれ込んでくる。
「んむぅっ……!?」
その直後だった。噛みつくように、唇をふさがれたのは。
* * *
──はじめは甘噛みをするように。
角度を変え、徐々に深くなってゆく。
「んっ……リオ……」
「ふぁっ……」
濡れそぼった唇を、何度も吸われる。
ちょっと痛みをともなうくらいのそれは、まるで食べられているみたいな感覚だった。
いや……比喩なんかじゃなくて、ほんとに食べられてる。
だって、知らなかったの。
あんまり大声で笑ったりしないノアの薄い唇の向こうに、鋭い牙があったなんて。
「リオのくちびる、やっぱりあまいな……もっと食べたい……っふ、んんっ……」
かぷ、とやわく牙を突き立てられる。
薄く口がひらいた拍子に、ぬるっとしたものが口の中に侵入してくる。
「んっ……んむぅっ……!」
わたしの舌に、ノアの舌が絡みついてる。
逃げようとしても追いかけられて、ざらついた表面で、ぞぞ……となぞり上げられるだけ。
唾液をかき混ぜられる音が、耳にまとわりついて離れない。
もらした吐息さえも、ノアの口の中に溶けていってしまう。
「……もう、むりだって、ノアぁ……」
酸欠のせいで、視界がにじむ。
ぐすぐすと涙をこぼしながら白旗をあげる。
すると密着していたノアのからだが、飛びのいた。
「あっ……俺、夢中になっちゃって……ごめんリオっ、大丈夫!?」
わたしが泣いてしまったから、慌ててるんだろうか。
これは息ができなかった生理的なものなので、ノアが嫌だったわけじゃないんだけど。
「くっ……ノア、キス上手すぎない? ほかにしたことないからわからんけども……」
「そうかな……俺も、リオ以外としたことないから、わからないけど……」
「…………」
「…………」
挙句の果てには、ふたりしてこんな調子である。
「え、初心者でアレなの……? 初心者はふつう舌とか入れてこないよ……?」
「経験、ないの? それじゃあ、俺がリオのはじめて……?」
「それなんか語弊があるぅッ!」
なんだろう、おたがいが絶妙に噛み合ってない。
思わず飛び起きたところで、ノアがへにゃりと眉を下げた。
「嫌、だった……? 父さんが、キスは好きなひととするものだって言ってたけど……リオが嫌なら、やめる」
「え、ちょ、ノアくん? すきって、だれが?」
「リオ以外に、だれがいるの……」
つい間抜けな声を出したら、拗ねたように返される。
対するわたしの脳内では、ぽこぽことはてなマークが量産されていた。状況が理解できない。
ノアが、わたしのことを、すき……?
「リオのことが、女の子として好きっ……だからいっしょにいたいって言ってるの、俺はっ!」
「えっ……えぇえ……」
……まじで?
ポカンといまいち飲み込めてないわたしに、むっとしたのか。
口をへの字にひん曲げたノアが、ぎゅうううっと抱きついてくる。
ちょ、くるひ……ギブギブギブ。
「俺だけ好きなの、さびしい……リオも俺のこと、好きになってよ。幸せにしてくれるんでしょ?」
「幸せになってとは言ったけど、わたしが幸せにするという抱負を述べたわけでは……」
「往生際が悪いよ」
「んむっ」
つらつらと言い訳を並べ立てれば、こうしてやるとばかりに唇をふさがれる。
「んっ……ふ、はぁ……とまらなくなりそ……」
なんだ。なんでまたこんな至近距離で、美少年の気持ちよさそうなキス顔を拝まなきゃならないんだ。ご褒美というより罰ゲームだぞ。
だけど真に言及すべきは、わたしのファーストキスが軽率に奪われたことじゃなかった。
「からだ、熱くなってきた……んっ……くぅ……あっ」
「うん……? ノア、どうし…………ひぇっ」
苦しげにうめくから、何事かと思えば。
声をひっくり返して絶句したわたしは、べつに悪くない。
だって、どうしろっていうのさ!
「なんか、からだがおかしい……たすけて、リオ……」
肌を桜色に染めた上半身裸の美少年が、お顔に見合わないモノを、ズボンの中で主張させてたんだから!
「ごめんなさい。それはわたしには荷が重いので、ごじぶんで処理していただけますでしょうか?」
「処理……どうやって?」
「みなまで! わたしに! 言えと!」
発狂寸前でなんとか堪えた。
そんなわたしを、だれか褒めてほしい。
「だからぁ! 自慰して発散してくださいね! わたしあっち行ってますからぁ!」
……言った。言ってやったぞ。
前世に引き続き今世も穢れなき乙女なわたしにしては、よくがんばった。
だけど、神さまはわたしを見放した。
「なにそれ」
「えっ……」
きょとんと、ノアが首をかしげている。
くもりなきサファイアの瞳で、わたしを見つめながら。
「えっ、えっ……だってノア、インキュバスなんだよね?」
「うん」
「インキュバスって、女のひととえっちなことをしまくる、悪魔のことなんだよね……?」
「リオ」
すっと右手を挙げて、ノアが告げる。
「えっちなことって、なに?」
「へぁっ……」
変な声が出た。いやそんなことはどうでもいい。
まっすぐに挙手しているノアのすがたは、素朴な疑問を先生に質問する生徒のそれだ。
ここで、ひとつの仮説が浮上する。
いや、そんなまさか、いやいやいや……
「ノアくん、どうやったら赤ちゃんができるか、知ってますか?」
「愛し合う夫婦で一晩中神さまにお祈りしたら、できるんだよね。父さんが言ってた」
「おぉうふ……」
……決まりだな。
この子、エロいことをなんにも知らないのね!
淫魔なのに!
* * *
純情少年ノアくん、聞けば聞くほど、まさかのカミングアウトをしてきます。
「最近になってからだと思う。リオのこと考えてたら、股間が熱くなるの」
「へー」
「すごい腫れるし、今朝なんか、起きたら白いのが下着についてて」
「ほぉー」
「あれ、なんだろう。病気になっちゃったのかなぁ……どうしよう、リオ……」
「どうしようねー」
平静を装っている虚無顔美少女(自称)だけど、内心発狂してる。
(男女のアレソレを知らないだとっ……インキュバスなのに!)
しかも今朝はじめて『白いの』を見たって……たしか、16歳って言ってたよね?
しきりにノアが「落ちこぼれ」ってワードを口にしてたけど、まさか、そういう意味だったの……?
本人はいまいち理解してないみたいですけど!
「大丈夫です、安心してください、ノアくん」
不安で泣きそうなノアの肩に、ぽんと手を置く。
「きみは健康そのものです。そして、またひとつオトナになったのです」
「どういうこと……?」
これでも前世は医療従事者。ならば教えてさしあげましょう。
かくして、リオ先生による特別授業『やさしい性教育~男の子のからだ編~』開講。
うるせぇ、ヤケクソとかいうな!
でもそこは勉強熱心なノアくん。
とりあえず男の子のからだについて集中的に講義をすれば、ふむふむと相槌を打ってくれて、そのまま無事授業を終えると思われた。
「大体はわかった。それじゃあ自慰っていうのは、具体的にはどうやるの?」
ハッ、そうは問屋が卸さねぇってか。
そうですよね、座学のお次は実技ですよね!
* * *
わたしはいま、猛烈に動揺している。
「……はぁっ、はぁっ……」
原因はひとつ。
ベッドで仰向けになり、天井に向かって荒い呼吸をくり返すノアくんのせいです。
「はぁ……なんか、すごかった……」
ノアのほほは紅潮していて、サファイアの瞳は生理的な涙で潤んでいる。
「これが、『気持ちいい』ってことなんだ……癖になっちゃうかも……んっ」
うっとりと瞳を蕩けさせたノアが、ベッドから身を起こそうとして、艶っぽい吐息をもらした。
まだ熱の余韻が冷めやらないらしい。
(うおおお! やっちまったぁ! 年下の子をヤッちまったぁ!)
そんなノアをよそに、もちろんわたしは内心発狂していた。
口頭で説明してもよくわからないからと、「リオがやってみせてくれない?」と純粋なまなざしでおねだりされた。断れなかった。
ノアもノアだよ。
じぶんでさわってたときは首をかしげてたのに、わたしがさわるとビクビク反応してたの、なんでかなぁ!?
と荒ぶりながらも叫び出さずに平静を保っていられるのは、これでも医療従事者だからだ。
医者は、患者さんの前で取り乱したりしないのです。
(これで3回目。今朝精通したばかりとは思えない回数だけど、淫魔だから、仕方ないのか……)
淫魔の生態について、もうちょっとよく調べておこう。
ノアのためにも、わたし自身のためにも。
──とにかく!
「溜めるのはからだに悪いからね。次からはこんな感じで、気持ちいいところを擦って、出してね」
やり遂げたぞ、わたしは。
ここまでやれば、ノアもじぶんのいいようにするだろう。
「……リオは、もうさわってくれないの?」
「え? なんて?」
ぽつりとノアがひとりごとをつぶやいたみたいだけど、よく聞こえなかった。
ベッドから気だるげに起き上がったノアが、わたしにもたれかかってきて。
「すき……好きだよ、リオ……」
ちゅっ、ちゅっ。
耳に、ほほに、口の端にキスしてくるから、たまったもんじゃない。
「ひゃあっ! ちょっと離れようか!?」
「やだ」
「やだじゃなくてっ! くすぐったいってば~っ!」
「リオ、汗かいたから、いっしょにシャワー浴びよ?」
「ラストにぶっ込んできおった!」
飼い主に甘える子犬みたいな上目遣いだ。
これで下心がないとか、罪すぎるぞ、ノアくん。
余談です。
シャワーを断ってものすごく拗ねられましたが、添い寝をしてあげたらごきげんになりました。
天使みたいな悪魔との攻防戦は、しばらく続きそうだ。




