*86* 甘いキャンディは恋の味
ひとことで表すなら、それは、夢のような時間だった。
「リオ……リオ……っ」
何度もわたしを呼ぶ、切なげな声。
──わたし、ノアの腕のなかにいる。
そう理解したら、言い表せないような熱情がこみ上げてきて、全身がふるえた。
痛かったのは最初だけ。ノアにゆさぶられるたび、わたしは猫が甘えるような悲鳴を抑えることができない。
軋むベッドのスプリング。わたしもノアも、時間を忘れて抱き合っていた。
「ノア、やだぁ……こわい……」
まただ。またからだが宙に投げ出されそうな恐怖が、背すじをせり上がってくる。
「大丈夫……俺がいるよ、リオ……」
「ノア、ノア……んんっ」
キスをされたら、『こわい』でいっぱいだったのが、『きもちいい』に塗り替えられた。
わたしもノアの背に腕を回して、その唇の甘さに酔いしれる。
「あぁ、リオ……俺だけのリオだ……可愛い、かわいい」
ノアの声も、瞳も、うっとりと蕩けていた。
かわいい、かわいいとしきりにくり返しながら、わたしの耳やほほや唇に、ちゅ、ちゅ、とキスの雨をふらせる。
「リオはもう、俺のもの。──だれにもわたさない」
ぼんやりとした意識のなか、漆黒の翼としっぽをゆらめかせた彼が、鋭い牙をのぞかせて、笑っていた。
美しい悪魔の腕に抱かれたわたしは、もう、逃げられない。
* * *
よく言われてるよね。糖分はだいじだけど、摂取過多は要注意だって。
「はぁ……あっま。改良の余地あり」
ベッドに腰かけたわたしは、口に放り込んだキャンディを舌先で転がして、その甘さにため息をついた。
なにを隠そうこのキャンディこそ、娼館街でも売れ行き好調だったわたし特製の避妊薬。
まさか、これをセルフで緊急処方することになるとは。
いや、まったく予想してなかったわけでもないんだけど……ねぇ?
「……これ、だめだよね。女の子は、妊娠しちゃうかもしれないんだよね? そうしたら、リオのからだに大変な負担がかかるのに、俺、がまんできなくて、勝手に……ごめんね」
「うん……うん、そうだね。ちょっとやりすぎたかもね。初心者向けではなかった」
「ごめんなさい……」
ベッドに座ったわたしの目の前には、私服のシャツに着替えたノアが、申し訳なさそうに床で正座をして、しゅんとうなだれている。たしかに、やりすぎではあったけど。
「でも、今回はこれが『正解』だったんだよ」
壮絶なモンスターとの闘いで衰弱したノアを回復させるには、肉体接触による人間の精気の摂取、つまり性交が必要不可欠だった。
ノアが、だれかと肌をかさねなければならない。
わたしはそのだれかが、わたし以外のだれかである未来を思い描けなかった。
(だってノアは、まだ女の子が苦手だもん)
だからわたしがやるしかないって、使命感に駆られて。
……ううん、ちょっと違うかも。
わたしがやるしかない、じゃなくて、わたしが助けたかった、だ。
ノアのためなら、なんだってできると思った。それが、この身のすべてを捧げることだとしても。
だってわたしね、ノアに抱かれて、うれしかったんだ。ノアの腕のなかで、きもちいいなぁって、ずっとこうしていたいなぁって思った。
ノアに愛されてるってことが、すごく……すごくつたわってきたんだ。
ノアもいっぱい発散してすっきりしたのか、腰が砕けてしまったわたしのからだをきれいにして、着替えを手伝ってくれるころには、正気にもどっていた。
で、暴走しちゃったことを猛省して、わたしにめちゃくちゃ謝っている。いまここ。
「ねぇノア、体調はどう?」
このままだとノアが床に頭をめり込ませそうなので、先手を取ることにした。
やわらげた声音で問いかけると、はっと顔をあげたノアが、おひさまみたいなまぶしさで破顔する。
「絶好調だよ。リオのおかげでよくなった。だからなんでも言ってね! 俺のこと、こき使っていいから!」
「あははっ!」
どうやら、ノアなりに気を遣ってくれてるらしい。
「……元気になって、よかった」
「リオ……」
思わずこぼれちゃった言葉に、ノアがなにか言いかけたけど、だめ。
その先は言わせない。言わせたらきっと、泣いちゃうだろうから。
だから、ちょっとくらい、照れ隠ししてもいいよね。
「はい、やらかしたノアくんに、罰ゲームがあります!」
「罰ゲーム?」
「そう。わたしに、やさしくキスをすること」
サファイアの瞳でぱちりとまばたきをしたノアが、「ははっ!」と笑い声をもらして、腰を浮かせる。
「それは罰ゲームっていうより、ごほうび。ほんと、リオは俺に甘いんだから」
そうしてほほに手を添えられたかと思えば、唇がかさねられる。
「ん……ふぁっ」
わたしの唇をやわやわと甘噛みしていたノアが、舌先でそっと唇を割りひらく。
ふわりと心地いい香りがして、脱力したからだは、自然とノアを受け入れる。
「やっぱりリオは、甘いね」
ちゅっとリップ音を立てて唇をはなしたノアが、まぶしそうにサファイアの瞳を細め、指先でわたしのほほをくすぐる。
そういうノアのほうこそ、ささやく声が、わたしを見つめるまなざしが、甘い。甘すぎて、とっくの昔に摂取過多だ。
また照れ隠しに「なにをいうか、この子は」って、ノアのおでこを小突く。
甘いものばっかだとおなかいっぱいになるから、こんどキャンディを作るときは、ミントフレーバーにしようかなぁ、なんてしょうもないことを考えた。
「ねぇリオ」
「んー?」
「だいすきだよ」
……そしてよくもまぁ、ひとが油断してるときに爆弾発言を。
「俺はリオからはなれる気はないから、覚悟してね」
「はぁ……」
「えっ、なんでため息? 俺なんか変なこと言った!?」
「いまさらだなぁと思って」
「なにが!?」
だってさ、ノアはずっと、じぶんの気持ちをつたえようとしてくれてたじゃん。
なのに『恋に恋するお年頃』とか、『近所のお姉さんに憧れる感覚なのかも』とか、勝手な解釈をしていたおばかさんが、ここにおりましてね。
そう……いまさら、気づいたの。
「ノアだけじゃないよ。わたしもノアといたいから、覚悟してね」
やっと気づけたこの気持ちは、もうごまかせない。
「ノア、好きだよ。わたしも、大好き」
もう観念しよう。
わたしは、恋をしています。
「って……待って待って、泣いてる? ノア泣いてるの!?」
信じられないことに、ノアくんが呆けたようにわたしを見つめていたかと思えば、ボロ泣きするじゃありませんか。
「ごめん……でも、うれしくて。リオが痛いのがまんして、俺のこと受け入れてくれて……俺がほしかった言葉を、くれたんだもん。夢みたい」
そうだ、忘れちゃいけないのが、ノアは純情美男子だということだ。根が素直で、天使みたいに無垢な子なんだ。悪魔だけど。
「ね、リオ。しあわせになるのが、俺に酷いことしてきたやつらへの仕返しだって、言ってたよね」
「うん」
「俺、しあわせだよ。リオが、しあわせにしてくれた」
わたしの手を取り、潤んだ瞳を細めたノアの表情は、清々しい。
「ありがとう、リオ。これからも、ずっといっしょにいよう」
「ノア……」
まっすぐに見つめられて、ふいにはにかまれたら、もうだめだった。
たまらなくなって、ノアに抱きつく。そんなわたしを、ノアは力強くもやさしく抱きしめ返してくれた。
あぁ、わたし……じぶんが思ってた以上に、ノアのことが好きみたい。
すごく恥ずかしくて、ノアみたいにうまくつたえられないかもしれないけど……
わたしの気持ち、ちょっとずつでも、かたちにしていけたらいいな。