*83* たべたいな
「俺は大丈夫だから……ほかのみんなを治療して」
庭園で『デベディ』を倒した後。ノアはそう言って、わたしにヴァンさんやルウェリンを優先的に治療させた。
一夜明け、ふたりの治療を終えてからノアの部屋をたずねると、ベッドで横になって、ぴくりとも動かなくて。
ノアは、昏睡状態に陥っていた。
言うまでもなく、猛毒の影響だ。でもわたしが治療をするより早く、ノアは意識を取り戻した。
おどろくべきことに、ノア自身の力で、猛毒に打ち勝ったんだ。
(そういえば、ノア……お母さんが聖女だったって言ってた)
だとすると、ノアが血を苦手としていたことも説明がつく。
神聖力。穢れなき聖なる力がノアの体内にも宿っていて、猛毒に抵抗し、見事勝利したんだ。
なんとか動けるまで自力で回復したノアだけど、わたしは手放しでは喜べずにいた。
なぜなら、ノアの活気がないからだ。食事もほとんどとらないし、わたしが話しかけても、ボーッとしていることが多い。
猛毒の浄化に力を使い果たして、体力・気力ともに充分に回復できていないのかもしれない。
それを裏づけるように、ノアが寝込んだまま、なかなかベッドから起きてこないことが増えた。
そんなことが何日も続けば、心配なんて言葉じゃすまなくなる。
「ノア、ただいま」
旧ブルーム城に帰ってきた。もらってきたリンゴをユウヒに食堂へ運んでもらうことにして、わたしは一直線にノアの部屋へ向かう。
ノアはやっぱり、ベッドで横になっていた。カーテンを引いて薄暗いせいか、その顔が蒼白く見えてしまう。
口元に手を当て、かすかに呼吸しているのを確認して、ほっと安堵した。
「ねぇ、ノア。街でおいしいリンゴをもらってきたよ。アップルパイを作ってもらうから、食べない?」
「……う、ん……?」
やさしく肩を揺さぶると、ノアのまぶたが、億劫そうに持ち上がる。
うつらうつらとしていたサファイアの瞳が、わたしに焦点を結んで、細まった。
「ありがと……せっかくだけど、遠慮しとく。残しちゃうと、申し訳ないし……ユウヒにあげて」
しゃべることすら、すごくつらそうなのに……ノアは笑うんだ。わたしを心配させたくないから。
「なんでもいいの、おねがいだから、少しでも食べて?」
「おなかは、空いてるよ……すごく」
「それじゃあ……!」
「でも、食べたくないんだ。食べ物のにおいが、キツくて……」
それは、本能的な拒絶反応だった。
(拒食症? そんな……)
ノアは十六歳だ。まだまだ育ち盛りなこの時期に栄養失調になってしまえば、身体機能に悪影響を及ぼしかねない。
「ノア、わたしにできることがあったら言って? なんでもするから……」
このままじゃ、ノアが衰弱してしまう。ひょっとしたら……
そんな恐ろしいことを考えてしまうじぶんが嫌になって、手をにぎり、涙ながらに懇願する。
ぼんやりとしたノアが、ゆっくりと、まばたきをした。
「…………が……たべ、たい」
「っ、なに!? なにが食べたいの!?」
「りお……リオが、たべたい……あまくて、いい香りがする……」
「いやいやいや」
上げて落とされた気分だった。
わたしの手を顔の近くまで引き寄せて、ほほをすり寄せているノアには悪いけど、わたしなんか食べても、栄養にはならな──
「…………うん?」
ここでリオさん、気づきます。
とっても大事なことが、頭からすっぽり抜けていたことに。
お忘れだろうか、リオさんよ。ノアは美男子だけど、ただの美男子じゃない。インキュバスだ。淫魔だ。
──インキュバスの主食は、人間の精気です。
──第二次性徴期がはじまり、人間の精気を食べることをおぼえたインキュバスは、肉体的に急成長するケースが多くみられます。
いつぞやかに読んだ論文の内容がフラッシュバックして、頭をかかえた。これはつまり、アレだ。
(わたし、栄養じゃん……!)
かぁあっと、顔が熱くなる。羞恥のあまり、頭を掻きむしりたい衝動すらある。でも。
(ノアは、魔力を使い果たすことも恐れないで、『デベディ』と闘った……わたしを、みんなを守ってくれた)
からだを張ってくれたノアのために、わたしはなにができるの?
(ノアが苦しんでいるすがたは、もう見たくない……)
そうだよね。最初から、悩む必要なんてなかった。
わたしがすべきことは、もう決まってたんだから。
ごくりと唾を飲み込み、腹を決める。
「ちょっとごめんね」
「うん……? どうしたの、リオ……」
寝返りを打ったノアのほうへ、一歩。
ぼんやりしていたノアが、次の瞬間、おどろいたようにサファイアの瞳を見ひらいた。
「んっ……!?」
仰向けのノアに覆いかぶさったわたしが、ノアに、キスをしたから。