*55* 想いの断片
「へっ、あっ! ヴァネ…………ヴァンさん!」
危ない危ない、ヴァネッサさんはいま、男装してるんだった。本名を呼びそうになって焦った。
「ははっ、気軽にヴァンでいいからね~」
「うぅ……そうですね、わかりました」
ボロが出ないように、お言葉に甘えてこれからは常時ヴァンさんと呼ばせてもらうことにしよう。で。
「あの、ヴァンさん……わたし、いろいろと質問があるんですけど」
「お? なにかななにかな? エルのスリーサイズ?」
「ではなくて」
「違ったかー!」
テーブルに頬杖をついたヴァンさんが、楽しげにとんでもないものを公表する寸前までいった。えっと、個人情報です、それ。
話が脱線した。気を取り直して、疑問に感じていたことをたずねてみることにする。そうだな……まずは。
「ヴァンさんはなんで、男装してるんですか?」
「んー、このほうが動きやすいから」
「動きやすい?」
「女ひとり旅だとナメられるけど、男のふりしてりゃ、エル以外には小言を言われなくて楽だよ」
ヴァンさんは貴族。高貴な血筋の女性だ。
でも快活で親しみやすいヴァンさんの人柄は、エレガントなレディ像とはかけ離れてる。だからこその疑問が、もうひとつ。
「ヴァンさんが各地を巡ってる理由っていうのは?」
「私たちはいろんな支援活動をしてるの。この街に救援物資を運んできたのも、その一環」
「そういえば……エルもそんなことを言ってたような」
「街がモンスターに襲われるなんてそうそうないし、ふだんは孤児院とかを訪問して、こどもたちとバザーをひらいたりしてるよ」
「視察、みたい感じですか?」
「そうそう。まぁこれは私個人の趣味でやってる奉仕活動だから、カーリッド家のほとんどの人間には白い目で見られてる。私財でやってんだからいいじゃんね? あっちこっち飛び回って慎ましいレディらしくない? 知るかっての!」
「ぷっ!」
ごめんなさい。こぶしでダンダンとテーブルを叩きながら熱弁するヴァンさんがおかしくて、吹き出してしまいました。
「社交界で情報交換もだいじだけどね、私にとって、ドレスを引きずって愛想笑いのお茶会に出かけるよりだいじなことがある。だから思うがまま行動してるだけ」
「ヴァンさん……」
「それにね、家門じゃ厄介者あつかいされてる私だけど、なんだかんだ言いながら手伝ってくれるんだよ、エルだけは」
愛人なのに、恋愛感情はない。
ふと、エルとヴァンさんの不思議な関係性を思い出す。
──僕は奥さまの望むものをわたす代わりに、地位を得ました。
エルがヴァンさんの仕事を手伝っているのは、ただ地位のため?
……ううん、それは違う。
打算的な思惑はなくて、純粋にエル自身の意思で、ひとびとを助けるためにブルームへやってきた。そんな気がする。
だって、再会してからこの街までずっと、エルの蜂蜜色の瞳は、澄んでいたから。
「エルのこと、信頼してるんですね」
素直な気持ちでつぶやいたつもりだった。
だからヴァンさんが、フードの影でマゼンタの瞳を寂しげに細めたとき、あれ……? って、違和感をおぼえたんだと思う。
「信頼っていうか……償い、かしらね。あの子を助けてあげられなかった、私からの」
「それは、どういう……」
「私ね、こどものころのエルに会ったことがあるの。エルは覚えてないかもだけどね」
ヴァンさんは、おさないエルを知っている。でもエルは、ヴァンさんを覚えていない。
それは、いったいどういうことなんだろう……?
「あの子の置かれていた環境は、それはもう酷いものだった。いま思い出しても反吐が出るくらい。だけど、むかしの私はなんの力もなくて、どうにもできなかったから……」
ぽつぽつと語るヴァンさんの声は、静かなものだった。
まるで、あふれそうな感情を、押し殺しているみたいに。
「幸せになってほしいの。それが、カーリッド家に迎えるとき、私からエルに出した条件」
ヴァンさんは、過去の無力なじぶんを悔いている。
ただただ、エルに幸せになってほしいとねがっている。
どうしてヴァンさんが、エルとわたしの仲を取り持とうとするのか。
その想いを、すべてじゃない断片でも、こうして知ることになるなんて。
「ねぇリオちゃん」
どう反応していいのか迷っているうちに、ヴァンさんの手が、テーブルの上のわたしの右手にかさねられた。
「あなたと出会わなかったら、エルはとっくに、生きるのを諦めてたと思う。あの子の人生に『光』を取り戻してくれて、ありがとう」
……あぁもう、ヴァンさんってば。
このタイミングでそのセリフは、反則じゃないですか?