*32* 治療開始!
「こんにちは!」
近くまでやってきて、まずはあいさつ。
当たり前だけど、返事はない。
のそりと億劫そうにクリムゾンレッドの頭を持ち上げたワイバーンが、感情のない瞳でわたしを見つめている。
真正面で向かいあったわたしたちの距離は、目測で十メートル。わたしの手は届かないけど、ワイバーンのファイア・ブレスなら射程圏内だろう。
ふつうのか弱い女子だったら、怖がってぐすぐす泣くところだろうね。
でもおあいにくさま。生まれてこのかた十八年、図太く生きてきたわたしをなめんなよ。
「よいしょっと……」
肩にかけたストロベリーピンクのマジックバッグを正面に持ってきて、リボン型の留め具をパチンと外す。
ガサゴソと中からさぐり当てたのは、目にやさしいいちごみるく色の液体が入ったガラス瓶だ。
キュポンとコルク栓を抜いたそれを、高々と頭上にかかげてみせる。
「じゃじゃーん、リオさん特製、経口ポーションです! これを口にしたらあら不思議、一瞬で痛いのとバイバイだ! ちいさなお子さんでも飲める甘いチーゴ味。試してみる? そぉれ、うりうり~」
ワルイ顔をしながら、にじり寄る。どこの押し売り商法よ。我ながら笑える。
これ、頭から食べられるかなぁとか思ったりもしたけど、いまはそんなこと、どうでもよくなった。
だってさ、わたしがじりじり近寄っても、ワイバーンが攻撃してこないんだもん。
なんだこいつって、若干引いた目で見られてはいるけどね。
それってたぶん、わたしのことを取るに足らない雑魚だって認識してるからじゃない。
「前置きはこのくらいにして」
おバカみたいな声をひそめて、そっと語りかける。
「きみ、人間の言葉がわかるんじゃない?」
「──!」
──殺せ!
おじさんたちが叫ぶたび、つらそうにうずくまっているように見えたのは、わたしのかん違いじゃなかった。
「きみがほんとうに凶暴で野蛮なモンスターなら、わたしなんかいまごろ、八つ裂きで丸焦げになってる」
でも、このワイバーンはそうしなかった。飛んできたクロスボウの矢だけを器用に燃やして、不意をつかれたおじさんがよけられるくらいのスピードで、尾の攻撃をくり出していた。
重傷を負っていて、うまく力のコントロールなんてできないからだだろう。
なのにワイバーンの攻撃は、わたしたちが傷つかないように、どれも絶妙にコントロールされていたんだ。
『傷つけたくない』って相当な精神力がないと、できないことだよ。
「きみは、やさしいんだね」
「……ッ」
なに言ってんだなんて、言わせないよ。
わたしの言葉に、はっと身じろいだきみが、凶暴で野蛮なモンスターなわけがない。
「でも、諦めちゃったら終わりだよ」
呆然と薄く開いたままだった口のすきまから右手を突っ込み、ガラス瓶の中身をひっくり返す。
とろりとした液体が舌の表面にある毛細血管から染み込んでいき、やがて、ワイバーンがとろんとまぶたをおろす。
(よかった、効いたみたい)
このポーションの作用は、鎮静効果。
右手を引き抜けば、ワイバーンがうとうととうずくまったから、ちょうど目線にあった長い首の付け根をなでる。
エナメル質の鱗で覆われたそこは、ツルツルしていて、思いのほか手ざわりがいい。
「いまだけでいいから、わたしを信じてね」
わたしが、治してあげるから。
そうと決まれば、必要なものをマジックバッグから取り出す。
まず、使い捨てのマスクとグローブ。ワイバーンの血液には毒性があるって魔法薬学の指南書で読んだから、必須装備だ。
次に、魔法瓶。ペットボトルサイズだけど、『空間圧縮』と『重量軽減』の魔法がかけられていて、バスタブ一杯分の容量がある。
わたしはいつもこの中に、生理食塩水を入れている。傷口の洗浄に使うためだ。
これなら血漿浸透圧とおなじ──要は、わたしたちの細胞組織とおなじ成分だから刺激がすくなくて、ふつうに水で洗浄するより痛みも和らぐってこと。
(人間とモンスターじゃ体内の塩分濃度は違うはずだけど、人間用の経口ポーションが効いたなら、大丈夫なはず)
ワイバーンのまわりをぐるりと一周するように、傷の有無と程度を確認するとともに、傷口を生理食塩水で洗浄していく。
足や胴体、尾にあった傷は、手持ちの低級ポーションを三十本空にしたところで、ほとんど完治した。
「問題は……よし。ちょっとごめんね!」
ブーツを脱ぎ捨て、裸足でワイバーンのからだをよじ登る。