【79話】 夏休み㊵ (戸塚家)
あと1話2話で夏休みを終えようと思います。
幽霊。
それは死後の人間や声が聞こえるという超自然的な存在。
中にはこの世に未練を残して逝った者や恨みを抱えながら逝った者が幽霊となり、悪さをする事もあるらしい。
俺はその存在を信じてなかった――今日までは。
「キャハハハハ」
廊下に出た瞬間聞こえる女の笑い声。
一瞬で全身に鳥肌が立ち、サァーっと血の気が引いた。
俺は鹿沼さんを背中で押しながらゆっくりと後ろ向きに部屋の中に戻った。
そして扉を静かに閉めて振り返る。
すると完全に怯え切った鹿沼さんと目が合った。
「ハ、ハハハ」
精一杯肺を収縮させて出てきたのは言葉ではなく乾いた笑い声だった。
鹿沼さんが言っていた通り、この家には何かがいる。
時刻は夜中の3時10分。
こんな時間に女の笑い声が聞こえるなんて普通じゃない。
それに鹿沼さんの話ではドカドカと階段を上がってきて廊下を走り回っていたと。
もはや幽霊だとしても人間だとしても恐怖でしかない。
「夢じゃなかったでしょ?」
「ごめん」
お互い怯えて声が震えている。
とにかく一回落ち着かないとダメだ。
絶対鹿沼さんの夢か戯言だと思って、さっさと確認して寝ようと思っていたのに出鼻をくじかれてしまった。
俺はとにかく人肌のぬくもりが欲しくて鹿沼さんの右手を握る。
「鹿沼さん、やっぱりここにいた方が安全だよ」
「やだっ、一人は怖い」
「でもあの声の主が幽霊とは限らないんだよ?」
「どういう事?」
「変質者が家に侵入してきたのかも」
「変質者……」
鹿沼さんはゴクリと喉を鳴らした。
相手が幽霊なら危害を加えられる事はないけど、人間だと何されるか分からない。
相手の笑い声は女のものだけど、だからと言って男がいないとは限らない。
見目麗しい上にほとんど裸の鹿沼さんは特に危険だ。
それに夜中に人の家に侵入してきて静かに何かを盗むとかじゃなく、大声で笑いながら走り回るなんて奇行をする人間は女でもやばい。
何か武器を持ってるかもしれないし、だとしたら男の俺でも勝ち目はない。
「や、やっぱり私も行く」
「でも……」
「羽切君だって一人は怖いでしょ?」
「いや?」
「嘘つき」
鹿沼さんは繋いでいる俺の手が震えてるのに気付いているのだろう。
さすがに強がるのは無理があったみたいだ。
「ついてきてもいいけど、変質者だったら鹿沼さんはとにかく逃げる事。いい?」
「うん」
「この家の事だし、まずは真里さんとか弟さん起こしに行こう」
「わかった」
俺は再度ドアを開けて廊下に出た。
俺達のいる戸塚さんの部屋は廊下の中心に位置している。
よってこの部屋の右隣は真里さんの部屋。左隣は弟さんの部屋。
俺はまずは廊下を右に歩き、真里さんの部屋に向かう事にした。
真里さんの部屋は階段を上がってすぐの場所に位置しているので、いつ階段から“何か”が上がって来るのかとビクビクしながらドアの前にたどり着く。
そしてドアを少し開けて中を覗いた。
奥には窓があってその手前にベッド。
ベッドからドアまでの間には左右に机や本棚などが設置されていて、ドアから部屋のほとんどすべてを見渡すことができる。
部屋の中に真里さんはいなかった。
ベッドのシーツや布団はかなり乱れていて、飛び起きたかのようになっている。
そして戸塚さんのベッドもそうだったが、何故かベッドには二つの手錠が掛けられている。
戸塚さんと真里さんはド変態姉妹なので、SMプレイ的な事も好みなのかもしれない。
「……どう?」
後ろで引っ付いている鹿沼さんが小さな声で聞いてきた。
「誰もいない」
「次は友利君の所だね」
「うん」
戸塚友利。
それは戸塚家、弟さんの名前だ。
俺はドアを閉めて今度は弟さんの部屋に向かった。
そしてたどり着き、少しドアを開いて中を覗き見る。
弟さんの部屋は女子勢の部屋よりもちょっとデザインが違っていた。
壁にはグラマーなグラビアアイドルのポスターが張られており、本棚の上にはロボットのフィギュアや女性アニメキャラのフィギュア。
ただ共通しているのは部屋の奥にある窓辺にベッドが置かれているという点。
そして今、そのベッドの上には弟さんらしき人影。
両手を手錠に繋がれた状態で、低い声で笑いながらベッドの上で跳ねている。
「アハッ、アハッ」
俺はあまりに異様な光景に後ずさる。
一体この家に何が起きているんだ!?
「どうしたの?」
鹿沼さんが心配そうにこちらを見つめてきた。
「いや、別に」
「顔青いよ?」
鹿沼さんは部屋の中を覗こうと俺より前に出た。
しかし俺は鹿沼さんのバスローブの首根っこを捕まえて部屋を覗こうとするのを阻止する。
「きゃっ!」
驚き声を上げた鹿沼さんは、その場で自分の体を抱くようにして座り込んだ。
引っ張った角度と力加減が悪かった事で鹿沼さんのバスローブの形が崩れ、首元にあったバスローブの部分が背中の中心までビローンとはだけてしまっていた。
「ちょっと?」
鹿沼さんは顔だけで振り向いて睨んできた。
「ご、ごめん」
「直すから後ろ向いて」
「……はい」
俺は後ろを向き、鹿沼さんがバスローブを治すのを待つ。
今更だが何で鹿沼さんと戸塚さんは下着を着ていないのだろうか。
着ていたらもっと自由に動けるのに。
っていうか、さっきのは何だったんだ?
弟さんがベッドの上で笑いながら飛び跳ねていた。
それも両手に手錠をはめて。
戸塚さんも真里さんも部屋にいないし、どう考えてもおかしい。
どんどん自分の五感が敏感になっていくのを感じる。
まるでホラー映画で視聴者をびっくりさせるシーンの直前のような。
だいたいそういうシーンの直前は静かで不気味な雰囲気を漂わせる。
そして突然何か背後に気配がして――。
そんな事を考えていたら、俺の肩に何かが乗った。
見ると人の手。
「うわああ!?」
心が敏感になっていた俺は飛び跳ねて振り返る。
そこにいたのは驚いた表情の鹿沼さん。
俺が変な声を出してびっくりしたのを見て、鹿沼さんは悪戯な表情に変わった。
「やっぱ怖いんだ?」
「うるさい」
鹿沼さんは部屋で弟さんがどうなっていたかを知らない。
それに女の笑い声も今のところ聞こえてきていないので鹿沼さんの恐怖感は薄れてるのかもしれない。
こういう状況だからこそちゃんとした恐怖感が無いと、いざという時に感情のアップダウンについて行けず体が硬直してしまうものだ。
そうならないためにも一度弟さんがどうなってるのか鹿沼さんと共有した方がいい。
俺は弟さんの部屋のドアを再度少し開き、鹿沼さんにどうぞとジェスチャーする。
鹿沼さんはドアの隙間から中を覗き、「ひっ」と小さな悲鳴をあげた。
そして静かにドアを閉めると振り返り、青い顔で俺を見て言う。
「何……アレ?」
「さ、さぁ……」
さぁ、としか言いようがない。
ただ一つ言えるのは戸塚家には何かがあるという事。
戸塚さんも真里さんも部屋にいない所から考えると、女の笑い声の正体はその二人である可能性は非常に高い。
しかしこんな時間に笑いながら走り回るような奇行は普通じゃない。
変な宗教を信仰していたり、変な薬をしてたりしてないだろうな? という不安が込み上げてくる。
「とりあえず部屋戻る?」
「いや、さっさと一階見に行って帰ってこよう。何かがあるにせよ無いにせよどうせ部屋に戻ってくるわけだし」
「そうだね」
鹿沼さんの了承を得て階段の方へ歩き出す。
そして階段にたどり着き、音を立てないように降りる。
階段の折り返し地点で下方を見下ろすと、1階は電気がついていない真っ暗で、人が活動している気配がないのがわかった。
一段降りるたびに真っ暗な一階の影が俺の体を足元から侵食していき、それと同時に一階の見える範囲が増えていく。
階段を降り切って5歩ほど歩いた先には広大なリビングがある。
俺は右側の壁を伝ってリビングの方へ歩き、顔の一部だけを出してリビングを覗き見る。
リビングには長テーブルに座る二人の人物がいた。
「嘘……でしょ……」
鹿沼さんは震える声で囁いた。
その人物二人は戸塚さんと真里さんで、机に座っているが特に何かしているわけではなくボーッと正面を生気のない目で見つめている。
リビングの大きな窓から差し込む青白い月光で照らされていて、全くの静寂。
とんでもないものを見てしまった俺は、リビングから目を切って鹿沼さんを見る。
鹿沼さんは放心状態だった。
小さな声で「美香……オバケ……憑依……」と意味の分からないことを何度も繰り返し呟いている。
いつあの二人がまた笑いながら走り回るか分からないこの状況でここに長くいるのは良くない。
「鹿沼さん、戻ろう」
「……」
「おーい」
俺が何を言っても鹿沼さんに反応はないし、手を引っ張って連れて行こうとしても頑なにこの場所を動こうとしない。
俺だってこの状況は怖いし、いち早く部屋に戻って安全な場所で落ち着きたい。
そんな思いから、俺は強硬策に出る事にした。
今の鹿沼さんの脳と体は恐怖感で支配されているので、それ以外の感情で埋め尽くせばいい。
一瞬で恐怖感を吹っ飛ばして違う感情で埋め尽くすのは難しい事ではない。
選択肢がありすぎて逆に何をしようか迷ってしまうくらいだ。
俺は何をするかを決断せず、とりあえず鹿沼さんの背後に立つ。
俺の中には鹿沼さんのバスローブを押し上げる胸をいきなり背後から揉んだり、お尻を鷲掴みにしたりという選択肢があったが排除した。
俺は男だし鹿沼さんの体に触れたいという気持ちはそりゃある。
だけど鹿沼さんはまだまだ年頃の女子だし、男の俺が許可なく触るのはよくない。
しかしある程度過激な事じゃないと今の恐怖感を越える感情を引き出せそうにないのも事実だ。
体がダメなら足か顔。
その中で一番効果がありそうな場所はあそこしかない。
俺は鹿沼さんの背後にぴったりとくっつき、顔を側頭部に伸ばす。
狙うは鹿沼さんの耳。
いつもの鹿沼さんの匂いを感じながら髪の毛から出ている小さな耳に狙いを定め、唇でハムッと優しく挟み込む。
「はぁぁん」
力の抜けた声が鹿沼さんから漏れる。
しかしすぐにバチン! という音と共に俺の頬にとんでもない衝撃がぶつかり、視界が歪んだ。
左耳からはキーンという音。左頬からはジーンという痛み。
グワングワン歪む視界で鹿沼さんを見ると、左耳を手で押さえながら真っ赤な顔でこちらを振り返っていた。
「な、な、な!? いきなり何するの!?」
「父さんにも殴られた事無いのに」
「何でそんな冷静なの!?」
どうやら鹿沼さんは俺の想定通り、ちゃんと硬直が解けたらしい。
予想外の防衛本能に見舞われて俺もダメージを負ってしまったが、非常識な事をしたわけだから当然だ。
「にしても、良い声出たね」
「もう一発殴られたい?」
「ごめんなさい」
ビックリするくらい鋭いビンタで、次食らったら意識が飛ぶ可能性があるので謝っておく。
とにかく鹿沼さんは正常に戻った。
俺が手を伸ばすと赤面している鹿沼さんは視線を合わせずに俺の手を握ってきた。
「キャハッ」
しかしその瞬間、再度不気味な笑い声が聞こえ瞬時に鹿沼さんと視線が合った。
そして沈黙。
ダッシュで逃げれば見つからずに部屋間にたどり着けるかもしれないが、物音を立てれば奴らが再度動き出すかもしれないというジレンマ。
要は物音を立てて奴らに捕捉される可能性があるが逃げれる可能性もある選択を取るか、このまま静かにしといて荒立てずに事を済ます選択を取るか。
当然後者は相手に命運を委ねる選択肢で、運悪ければ一発ゲームオーバー。
っていうかこの状況のゲームオーバーは一体何が起きるのか想像ができず、それが怖い。
だからこそ俺は鹿沼さんに「逃げろ」と視線で指示を送るが、どうやら鹿沼さんは奴らに命運を委ねる選択をしたらしく、動かない。
交差する視線。
しかしすぐに事態は急変する。
リビングから椅子が引かれる音がして、「キャッキャッ」と笑いながらスキップするような足音が聞こえてきたのだ。
「逃げろ!」
俺はそう言い、鹿沼さんの背中を押す。
鹿沼さんは一気に逃げるモードになり、とんでもないスピードで階段を駆け上がっていった。
俺も1秒ほど遅れて二階に上がり部屋の扉を開くが、部屋の中に鹿沼さんの姿はなかった。
「キャアアアアアッ!!!」
部屋に鹿沼さんがいない事に困惑していると、二階に鹿沼さんの悲鳴が響いた。
場所は廊下の奥の方。
鹿沼さんの身に何かがあったのだと察した俺はダッシュで廊下を走り、一番奥の弟さんの部屋を勢いよく開ける。
そこには尻餅をついた鹿沼さんとすぐそばで忙しなく動いている弟さんの姿。
「あっと……えっと……」
鹿沼さんの方は怯えた表情で、弟さんはそんな鹿沼さんに対する対応に困っている様子。
そしてしばらく静観していると、弟さんと目が合った。
「うわあっ!?」
「そっちが驚くのかよ」
「あの……僕、本当に何もしてないですからね?」
どうやら突然部屋に鹿沼さんが入ってきて悲鳴を上げられた上に、その後入ってきた俺に二人でいる現場を見られてしまい、何か無理矢理いかがわしい事をして悲鳴を上げられたと俺に思われてるんじゃないかと不安に思っているみたいだ。
「まあ、話を聞こうか」
「本当ですって!」
話を聞く必要がある。
俺の発言に戸塚家弟はビビっているが、俺が聞きたいのはこの家の現象についてだ。
俺は焦りまくってる弟さんを横目で見ながら、ドアを閉めた。
ついに夏休み編ももうすぐ終わります!
もうすぐ2学期編!
戸塚家編が微妙なのは申し訳ない!