【78話】 夏休み㊴ (戸塚家)
尿意で目を覚ますと、私は柔らかいベッドの上にいた。
私は自分がいつ寝たのか記憶が無い。
最後に記憶があるのは美香とお風呂でお話をして、脱衣所でバスローブに着替えた所まで。
確かその時点であまりにも眠くてへたり込みそうだったのは覚えている。
「ふぁぁぁっ」
体を起こすと大きなあくびが出て、涙で視界が霞んだ。
壁に取り付けられた時計の針は3時5分を指している。
普段、こんな時間に起きることは無いので頭がまともに働いていない。
私はトイレに行くためにベッドから降りる。
するとベッドの下では羽切君が布団で寝ていた。
美香が言うには、普段この家に人が寝泊まりすることが無いので予備のベッドや布団が無く、たまたま見つけた布団を一人が利用してベッドに二人寝るという事になっていた。
布団に羽切君が寝ているという事はベッドには私と美香が寝ているはずだが、美香の姿が無い。
もしかするとトイレに行っているのかもしれない。
羽切君の体を跨いでドアまで歩き、開く。
そして廊下に出ると何だか不気味な雰囲気が漂っていた。
静かで真っ暗な長い廊下。
トイレは左の廊下をにまっすぐと突き当りまで歩いた左側。
先の見えない廊下から生温かい風が私の肌を撫で、まるでお化け屋敷に入ったかのような恐怖感が湧いてきた。
一瞬、部屋に戻って羽切君を起こしてトイレまでついてきてもらおうかとも考えたが、いくら何でもこの時間に起こすのは非常識すぎるし、何でもかんでも羽切君に頼るのは良くないと思いやめた。
それに私ももう高校生。
夜中に目が覚めておしっこに行くのが怖いだなんて恥ずかしすぎて言えない。
とにかく早くトイレに行って寝よう。
私は勇気を振り絞って歩き出す。
歩き出すと結構スイスイと前に進めて、意外と簡単にトイレの前までたどり着けた。
私はトイレに入り、バスローブの紐を解いてパンツを――アレ?
私はパンツを穿いていない。
というか、バスローブの下は何も着ていなかった。
そういえばこの家ではお風呂を出た後はバスローブ一枚で過ごすというのがルールだという事を美香が言っていて、私はそれに従ったんだった。
便器に座って用を達し、汚さない様にちゃんと拭いてバスローブの紐を絞めた。
そして流して再度廊下に出る。
ところで美香はどこへ行っちゃったんだろうか。
部屋にもトイレにもいなかったし、もしかして私がベッドを独占してしまって他の所で寝たのかもしれない。
だとしたら明日謝らないと。
そんな事を考えながら廊下を歩き、部屋の前までたどり着いた。
そしてドアノブに手をかけ、開けようとしたその瞬間。
「アハハハハッ、キャハハハ」
笑い声が廊下に響いた。
ビクーンと体が縦に跳ね、一気に冷や汗が出てくる。
こんな時間に女性の笑い声が下の階から階段を通じて聞こえる。
非現実的でありえない事だ。
恐怖で脚ががくがく震えて今にもへたり込みそうだし、ドアノブを握る手もブルブル震えて握力が無くなってきた。
何とか両手を使ってドアノブを回しドアを少し開ける事に成功するが、すぐに私の恐怖は最高潮へと跳ね上がる事が起きた。
“何か”が階段をドカドカと上がってきたのだ。
「キャハハハハハハ」
私はあまりの恐怖にその場でうずくまり両耳を塞ぐ。
しかし完全に音を遮断することが出来ず、すぐ後ろの廊下で誰かが笑いながら走り回っているのが分かった。
これって……夢?
怪談に出てきそうな状況に早くも現実逃避が始まった。
とんでもなく体が冷たくて、なのにこめかみから汗が落ちる。
しばらく廊下で走り回っていた“何か”は階段を降りて行ったのか、静かになった。
私はここぞとばかりに腰が抜けた四つん這いの状態でドアを開いて中に入る。
中に入ったら安心で完全に力が無くなり、ホフク前進のような移動方法で羽切君の布団まで行き、体を揺さぶる。
「は、は、羽切君っ! お、お、お、起ぎでっ!」
唇が震えてる上に舌が硬直してしまっていて、噛んでしまった。
口の中で血の味が広がっていくが、今は気にしている場合ではない。
しかし羽切君はなかなか起きない。
それによって“何か”が徘徊しているこの家でまるで独りぼっちで取り残されたような感覚に陥る。
羽切君には悪いけど、早く恐怖を共有できる人が欲しい。
「キャハッ、キャハッ」
再度廊下から聞こえる笑い声。
もう私は訳が分からなくなって気づいたら羽切君の体の上に跨って首を絞めていた。
すると羽切君は両手両足をジタバタさせて首を絞めている私の両手首を物凄い握力で握ってきた。
それと同時に私も首を絞める力を緩める。
「はぁはぁ……はぁはぁ……何してんの!?」
「あっ、いや……起こそうと思って」
「殺す気かっ!」
ようやく羽切君は起きてくれた。
しかし寝起きで機嫌が悪いのか、私が首を絞めて起こしたことに怒っているのか私を見てくれない。
ぜぇぜぇと息を整えながら、視線は真横に固定している。
「怒ってる?」
「こんな時間に首絞めて殺されかけたら誰だって怒るっての!」
「ご、ごめん……」
いつもなら謝ったら許してくれるのだけど、今回は謝っても視線をこちらに向けてくれないし、遂には瞼を閉じてしまった。
どうやら本気で怒らせてしまったらしい。
しかし今は羽切君の機嫌を直す前に説明しなきゃいけない事がある。
私は羽切君の体に跨ったまま上半身を前に傾けて羽切君の顔を真上から見下ろす。
「機嫌直して私の話を聞いて?」
「残念だけど話を聞くつもりはない。俺は寝る」
「ひ、一人にしないでってばっ!」
しかし私の懇願虚しく、羽切君は静かになった。
再度訪れる孤独と恐怖感。
そして相手にしてくれない事で込み上げてくる怒りの気持ち。
私は怒りを行動に移すことにした。
両手で羽切君の顔を挟んで正面を向かせ、指で瞼を上下にこじ開けるように力を入れる。
「痛ててててっ!」
羽切君は痛がっているが、目を開ける事を抵抗している。
しかし指の力と瞼の力では相手にならない。
徐々に羽切君の瞼は開かれ、その奥の瞳が薄く見えてきた。
「ちゃんと、私を、見て、話を、聞いてっ!」
「わ、わかったからっ! 話聞くからっ! せめて前隠してくれよっ!」
「……前?」
羽切君の言う“前を隠せ”という言葉を聞いて、自分を見下ろす。
そこにはバスローブから飛び出ている自分の体。
体を前向きに傾けた事で下向きに垂れている胸。その間から見えるへそと更に奥には羽切君の体に押し付けている股。
バスローブの左右がカーテンのようになっていて、外側からは隠されているが、内側にいる羽切君には全部見える状態。
「ひゃぁっ!?」
瞬時に体を立て直し、バスローブで体を隠す。
どうやらホフク前進した時にバスローブの紐が解け、焦っていたために前が完全に開かれているのに気づかなかったらしい。
「誘惑してたわけじゃないからね?」
「どうだか」
「本当だってばっ!」
「はいはい」
何だかいつもよりも塩対応。
こんな時間に起こされて機嫌の方はやっぱりあまり良くないのかもしれない。
「羽切君だってすぐ指摘しなかった癖に。変態」
「明らかに興奮してる鹿沼さんが、落ち着くまで無視しようとしただけ」
「こ、興奮なんてしてないって!」
「いーやしてたね。首絞めてきたし、全部見えてるのに私を見てっ! とか言ってたし」
「それは……」
確かに興奮していたと思われても仕方がない。
月明りしかない薄暗い部屋。
私は冷や汗をかいており、裸まで曝け出している状況で“私を見て”なんて言ったのだから。
だけど首を絞める行為は興奮とは関係ないと思うけど。
気づくと恐怖で冷めきっていた全身が恥ずかしさでポッと火照っていた。
羽切君も起きてくれて恐怖感もだいぶ薄くなった。
だけどこの家の状況は何も変わっていない。
羽切君は上半身を起こして私を見た。
まだバスローブの内側で私は羽切君に跨っているのであまり動いてほしくなかったが、自分から跨ったのに文句を言うのはどう考えても違うので沈黙。
「で、何? 俺眠いんだけど」
やっと話を聞いてくれるみたいなので説明をする。
「この家にオバケがいる」
「……おばけ?」
その言葉を聞いた羽切君の口元が少し歪んだ。
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「この家にオバケがいる」
鹿沼さんが何を言うのかとドキドキしていると、そんな言葉が発せられつい笑いそうになった。
だってオバケ……幽霊なんているわけがないからだ。
鹿沼さんはバスローブで自分の体を隠し、恥ずかしいはずの状況なのに顔は真剣……いや、怖がっている。
怖がりすぎて逆に表情が硬直していて、初めて見るその表情にからかいたい欲が出てきた。
「鹿沼さん、悪い夢でも見たんじゃない?」
「夢じゃないって! さっきトイレに行ったら下の階から笑い声が聞こえたの。そして……走って階段を上がってきて……」
何だか鹿沼さんの気が気ではない表情にこっちまで怖くなってきた。
薄く汗もかいてるし、確かにちょっと様子がおかしい。
俺は周りを見渡してベッドの横に落ちている遠隔リモコンを手に取って部屋の電気をつけた。
すると鹿沼さんはバスローブで自分の体をより頑固に隠した。
その顔は青白くて、歯も少しガタガタと揺らしている。
自分の局部が俺の体に乗っていることを忘れているくらい怖がってるみたいだ。
「じゃあ一緒に寝よう。それでいいだろ?」
俺の睡眠欲と鹿沼さんの恐怖感を同時に消す方法はこれくらいしかない。
鹿沼さんと一緒に寝るという行為自体もう今日で最後かもしれないし、もうこの辺でこういう事をするのも打ち止めにしよう。
「でも、美香がいないの」
「えっ?」
隣を見ると確かに戸塚さんはいない。
昨日は0時過ぎまでお話をして、戸塚さんが先に寝落ちしたので間違いなく隣にいた。
「トイレにでも行ってるんじゃない?」
「私もトイレに行ったけどいなかった」
「じゃあ……」
「連れ去られちゃったのかも」
「……は?」
「オバケに誘拐されちゃったのかも」
およそ高校生とは思えない言葉が飛び出してきた。
幽霊が出たという話も何だか怪しいし、鹿沼さんはどうしちゃったのだろうか。
「助けないと」
「助けるって……何で?」
「何でって、私の友達だからっ!」
友達という言葉が鹿沼さんから出てきて何だか嬉しい。
ただ戸塚さんがいない=幽霊に誘拐されたと考えるのはあまりにもぶっ飛んだ思考だ。
鹿沼さんは今混乱していてまともな思考ができていない。
そんな鹿沼さんを正常に戻すのと俺の睡眠欲を同時に解消するにはもう確認しに行くくらいしか存在し無さそうだ。
「わかった。確認しに行くからどいてくれる?」
「う……うん」
鹿沼さんはバスローブの内側が見えない様に器用な動作で俺から離れた。
俺もまた立ち上がり、ドアの方へ歩く。
そして部屋のドアを開けると背中にピタッと鹿沼さんがくっついてきた。
「何?」
「私も行く」
「部屋で待ってた方がいいんじゃない?」
「一人にしないでって言ったじゃん」
どうやら部屋に一人で待つことが怖いらしい。
いるわけがない存在のために眠気を抑えて確認しに行かなければいけない。
何だか馬鹿げた事をしているなと思い廊下に出ると、その瞬間俺の眠気が飛び、気持ちが大きく揺らいだ。
後ろにいる鹿沼さんもビクッと跳ねて更に俺に密着してきた。
そう、確かに聞こえるのだ。
女の人の笑い声が階段の下から。
まるで女の子が走り回って遊んでいるかのような足音と共に。
「キャハハハハ」
鍵カッコで終わらせてみた。