【73話】 夏休み㉝ (戸塚家)
戸塚家にお邪魔してから30分以上経ったが、俺はまだリビングにいる。
鹿沼さんは大型犬二匹と楽しそうに戯れていて、俺はリビングに置かれていバカでかい長方形の机の、鹿沼さんから最も離れた場所に座りただその様子を見つめ、同時に警戒をしている。
修学旅行の時に鹿に襲われた時と同様、鹿沼さんは動物にも好かれるらしい。
大型犬二匹は鹿沼さんを取り囲んで、すりすりと顔や頭を鹿沼さんの体に擦りつけながら尻尾をぶんぶん振っている。
犬はその人が善人か悪人かを見分ける事が出来るというのを聞いたことがある。
奴らは嗅覚、聴覚、、視覚、触覚、味覚が人間をはるかに超えている上に、人間にはない第六感があると言われていて、それらすべてを総動員してその人間が自分に危害を加える可能性があるかどうかを判断しているらしい。
つまり鹿沼さんはその判断基準全てを満たし、安全な人間として懐かれたという事だ。
ちなみに俺は動物に懐かれた事が無い。
昔から犬や猫には吠えられて威嚇されたり、嚙まれたり。
本当に最悪な時はカラスに追いかけられたことだってある。
飼い主が“絶対に噛まないから大丈夫”やら“すごく大人しいから大丈夫”と言われて近づいたら腕を引きちぎられるんじゃないかと思わされるくらい噛まれた事もあった。
小さい時のそういう経験が俺の動物嫌いの原点。
今では飼い主の言葉だろうが、ペットショップの店員だろうが、何を言われても絶対に動物に近づかない様にしている。
前に一色さんとペットショップに行った時も俺と目が合った動物は俺に対して威嚇してきたし、多分潜在的に動物に危険視される人間なのだろう。
そしてさっき戸塚さんの姉の真理さんの匂い診断で俺は女でも殴れる危険な人物という診断結果が出た。
もしかして俺って自分が思っている以上に危ない人間だったりするのだろうか。
「羽切君、どうぞ~」
同じ空間に動物がいる事にビクビクしていると、戸塚さんがティーカップを俺の前に置いた。
ラベンダーの香りがする、多分お茶。
「ありがとう」
「羽切君は犬が嫌いなの~?」
「何でそう思うの?」
「だってさっきビビッて尻もちついてたし~、今だってこんなに離れた場所で見てるだけ。それに顔も引き攣ってる」
どうやら動物嫌いが行動だけじゃなくて顔にも出ていたらしい。
「俺が嫌いっていうか、動物が俺を嫌いなんだよね」
「犬とか動物は五感で危険を察知するのが得意だからね~」
「なあ、俺ってそんなに危険人物に見えるかな?」
「もしかしてお姉ちゃんに診断された?」
「された」
俺がそう言うと、戸塚さんは難しい顔をして俺の隣に座る。
そして何故か俺のティーカップを持ち上げて一口飲み、再度受け皿に置いた。
「お姉ちゃんの診断はかなり当たるからね~」
「それって凄すぎない? 特殊能力じゃん」
「特殊能力って程じゃないよ~」
いやいや、十分特殊能力でしょ。
世界には特殊な能力を持ってる人がいるって事は聞いたことがある。
そういうのをサヴァン症候群というらしく、いわゆる発達障害や知的障害がある人が特定の分野で天才的な能力を持っている状態をいう。
人間とは不思議なもので、こういう風に突出した能力を持っている人は必ず致命的な欠点が存在している。
神は自分以外で全知全能を作らないように人間を設計したのだろうか。
普通で平均的か天才的な能力は持てるが日常生活に支障をきたすくらいの欠点も一緒に持つか。
どちらが幸せなのかは誰でも一度は考えたことがあるだろう。
「何話してるの?」
鹿沼さんの声が後ろから聞こえて心臓が大きく高鳴った。
振り返ると鹿沼さんがいつの間にか背後に立っていた。
という事は……。
「ひぃぃぃぃぃっ!」
俺は考えるよりも先に椅子から飛び上がり、走って距離をとる。
鹿沼さんが近くにいるという事は、犬も一緒にいると思ったからだ。
そして俺の予想通り犬は鹿沼さんの近くにいて、俺に向かって牙を見せてこちらを威嚇するように睨んでいた。
「えっ、何?」
鹿沼さんは驚いた表情。
どうやら両側にいる犬が俺を威嚇しているのに気付いていないらしい。
「羽切君、動物苦手なんだって」
「へー」
戸塚さんから俺の弱点を聞いて、鹿沼さんは悪戯な顔になった。
そして一歩俺の方へ近づいて来る。
当然犬も鹿沼さんを追って一歩近くに近寄ってきたので、俺も一歩後ろに下がる。
俺は一度犬から視線を逸らして逃げ道を探す。
俺がいる場所の地面は色が変わっていて、廊下のようになっている。
その廊下の左側奥には木製のドアがあって、間取り的にもう一つ大きな部屋がありそうだ。
右側には二階に上がる階段。
この家が何階まであるかはわからないけど、逃げるなら階段の方だろう。
逃げ道を確定させて再度鹿沼さんを見ると、もう5歩以上近くにきていた。
近くに来れば来るほど本来温厚な性格であるはずのゴールデンレトリバーが恐ろしい顔になっていく。
「あの、鹿沼さん」
「うん?」
「勘弁してもらえません?」
鹿沼さんはまるで番犬を従える魔女のように腕を組んで、口元をニヤつかせながらまた一歩近づいてきた。
「羽切君が本気で怖がってるところ初めて見た」
「本当に許してください」
「そんなに怖いんだ?」
「マジで怖いんです」
「ふーん」
鹿沼さんはまた一歩近づこうと右足をしたその時。
毛が金のゴールデンレトリバーが鹿沼さんを守るように前に立ち、その一歩を邪魔した。
そしてもうもう一匹の銀毛のゴールデンレトリバーは鹿沼さんが一歩を踏み出せず、片足立ちになった瞬間にワンピースのスカートを噛んで後ろに引っ張った。
「んなっ!?」
突然の出来事に鹿沼さんはバランスを崩して尻餅をつき、二匹のゴールでレトリバーが俺から鹿沼さんを守るかのように「グルルル」と威嚇しながら間に入ってくる。
「嘘~? この子たちが人を威嚇してるの初めて見た~」
「そんな事言ってないでゲージとかに入れてくれません?」
「うちに犬のゲージなんてないよ~?」
「だったらせめて――」
だったらせめて押さえつけるなり、エサで釣るなりしてくれよ!
そう言おうとした瞬間、二匹の大型犬が飛び掛かって来た。
俺はその攻撃を避けて右側の階段を全力で駆け上がる。
後ろから二匹が追いかけてきているのは音で分かり、恐怖で信じられないくらい早く二階に上がれた。
階段を上がりきると、そのまま真っすぐ廊下になっていて、廊下の左側には4つの扉。
俺はとにかく犬から逃げたかったので、一番手前の扉を開いで中に飛び込んだ。
そして扉を閉めて鍵をかけ、扉に寄りかかって深くため息をつく。
「あれ、羽切君どうしたの?」
部屋の中にいたのは真理さん。
どうやら最初、俺達を上から覗き込んでいた場所は真理さんの部屋だったらしい。
真理さんは窓際に置かれているベッドの上に座ってこちらを見ている。
ノックもせずに年上の女性の部屋に入ってしまった。
失礼なことをしてしまったと思う反面、年上のお姉さんの部屋に入ったのが初めてなのでドキドキしてきた。
寄りかかっている扉の向こう側からはカリカリカリと引っ掻く音が聞こえてくるが、もう鍵も閉めたし安全だ。
「昔から動物にも嫌われやすくて……今も犬から逃げて来たんです」
「動物も危機察知能力がすごいからね~。あの子達も羽切君が危険な人だって直感でわかったんだね」
「あの、それについてなんですけど……」
俺はさっき診断された事について聞いてみることにした。
「俺が危険人物って言ってたと思うんですけど、どういう意味ですか?」
「私はプロのマッサージ師で、精神科医でも医者でもないの。だから普段はにおいでその人がどういう人なのかとかを診断したりしないんだけど、私は長年お客さんとか友達、家族、彼氏のにおいとその人と話して得た情報を結び付けてきた」
「……なるほど」
「それである日ママが担当している患者さんがうちに来てね。もちろんママは患者の情報を人に話したりはしないんだけど、私はその人のにおいがどうしても気になってドアに耳をつけて勝手に盗聴したの」
真理さんはベッドから立ち上がり、俺の前に来てしゃがんだ。
「その人はうつ病で苦しんでた。何もかもがどうでもよくなってて、家庭内では暴力を振るってたんだってさ。その人は昔から感情の起伏が少なくて、だけど高校の時に妻と出会ってからは本当にその人の事を愛してて、その人が喜ぶ顔を見るために色々尽くしてきて、遂には結婚。だけどある日、特に何かきっかけとなった出来事とかも無いのに妻に尽くしてるのをバカバカしく思い始めた。ずっと妻を第一優先に考えてきたのに、それがストレスになってきた。“なんで俺はこの女といるんだろう?”とか“もっとたたくさんの女と関わってきたらもっともっと自分に合った女と出会えたんじゃないだろうか”とか色々考えちゃったんだって」
「……」
「さすがにDV案件はどうにもならないから、行政に介入してもらったの。そして妻の方は行政で保護された。3年後どうなったと思う?」
「離婚……ですか?」
「半分正解」
「半分?」
「離婚した。だけど男性は妻と隔離された3年間、色んな女性と関係を持って浮気をし続けた結果気づいたの。自分が本気で愛せる人は元妻しかいないって」
「……だけど妻の方はDVを受けてたこともあって愛想つかれた」
「それもほぼ正解」
「ほぼ?」
「元妻は連絡すら返してこなかった。そして自分がしてきた事を悔いた男性はその後首をつって死んでしまった」
最後まで話を聞いて、俺はゾワッと身の毛がよだった。
もし仮に復縁できたとしても、男性は救われなかっただろう。
再度妻と一緒に生活したとしても暴力を振るったという過去は絶対に拭えないし、またいつ妻の事を疑問に思うかわからない。
もちろんこの事例は一部でしかないが、日本国内でのDV問題はかなり深刻。
幽霊とかそういう話も怖いけど、人間の話も詳細を聞くと結構怖い。
特に結婚した相手に飽きてしまうという現象は最近、若者間で話題の“蛙化現象”とよく似ている。
いつその人の事を嫌いになるかわからない。
その人の全部を見たら飽きてしまう。
ちょっとした挙動に対して冷める。
前にジェットコースターの事故で鹿沼さんにキスを要求されたときも蛙化現象の事が頭によぎった。
もしかすると俺にもその現象を起こしてしまう気質があるのかもしれない。
「それで、その人と俺のにおいが一緒って事ですか?」
「ほんの一部だけね。君のにおいで確定できたことは“童貞”であることだけで、あの人と君の共通部分のにおいがどういう部分についてかはまだ被験者が少なくてわからない」
「そうですか」
その共通のにおいが悪い部分に係る部分なのか、そうじゃないのか。
だったら何で女でも殴れるとか最初に俺に行ったのか気になるところだが、聞かないでおこう。
それにしても自分のにおい診断をここまで自信を持って研究している事に驚いた。
「あのさ、羽切君」
「はい?」
「もう1回、におい嗅がせてくれないかな?」
正直、迷った。
自分の事を知るのは大事だと思うけど、知らない方が良かった部分を知るのは怖い。
特にさっき聞いた男性と似た部分があるというのも……。
「あ、そっか」
俺が返事に困っていると、真理さんは両腕をクロスしてタンクトップの下部分を掴み、両手を万歳してタンクトップを脱ぎ始めた。
俺の目の前には両腕を挙げた真理さんの裸。
最初から下着を着けていないいないのはわかっていたが、まさか脱ぎ始めるとは思わなかった。
細かく上下に弾む胸に釘付けになる。
「なっ、なっ、なっ」
突然の事すぎて脳みそが混乱。
真理さんは脱いだタンクトップを後ろへと投げ捨て、堂々とした様子で俺の目を覗いた。
「ほら、羽切君も脱いで」
「な、何してんすか!?」
「私が脱げば脱いでくれると思って」
「どうしたらそんな思考になるんですか!?」
「へー、女性の私が脱いでるのに羽切君は脱いでくれないんだ?」
「脱ぎませんし、早く着てください」
「羽切君が脱いでくれないなら、今度はパンツも脱ぐよ?」
真里さんはそう言うと、自分の短パンに両手の親指を突っ込み、「どうするの?」という目でコッチを見てきた。
羞恥心の欠片もない異常な行動。
そしてまるで脅迫しているような口振り。
だが別に脅迫にはなっていない。
真里さんが勝手に脱ぎ始めたのだから。
しかし少し俺が落ち着き始めたのを見てか、真里さんは短パンをパンツごと一気に脱いだ。
目の前で仁王立ちする全裸の年上女性。
「う、うわあああっ!」
俺は情けない声を出して両腕で顔を隠す。
こうなっては意地でも脱ぐわけにはいかない。
「このままこのドアを開けてリビングに行く」
しかし真里さんのこの言葉は脅迫となって俺の心に突き刺さった。
「羽切君はウチの番犬に襲われるし、私は鹿沼さんに羽切君に無理矢理裸にされたって伝えるから失望もされる」
「それだけは勘弁してください」
「じゃあ脱いで、におい嗅がせて?」
「わかりましたけど、せめて真里さんは服を着てください」
「えー」
「匂い嗅ぐだけなら真里さんは脱がなくていいじゃないですかっ!」
「わかったわかった」
そこまでして俺のにおいを嗅ぎたいとは、変態なのか研究心が強いのか。
とにかく、俺は強く目を瞑りながら上半身裸になる。
目の前から服を着る音が聞こえ、しばらくすると耳元に真里さんの気配。
「いいね?」
「……どうぞ」
俺がそう言うと真里さんは俺に体を密着させ、俺の首元に顔を埋めた。
たった一枚の薄い服からダイレクトに伝わる体温と柔らかいが一部分だけ少し硬度が違う胸が俺の体に強く当たっていて、一気に汗が噴き出てきた。
それに座って抱きつかれているからか、さっきよりも真里さんのにおいが明確に俺の鼻腔に届いていて頭がクラクラしてくる。
こんな事は鹿沼さんともした事がない。
あっても水着か下着は必ず下に来ていたので、ここまで明確に胸を感じられなかった。
今は真里さんの研究に協力していると言う事で自分に歯止めを効かせられているが、もしもこれが鹿沼さんなら止められるだろうか。
ラブホテルで二度キスした時に発生した無意識の行動。
勝手に手が胸を揉み、あわよくばその内側を拝見しようとした。
あの日はギリギリ理性で止まったが、もしあそこで止められなかったら、無意識の止まらない境地へと進んでいただろう。
たった二人しかいない部屋。
そこで裸の俺は、ほとんど裸の女性に抱きつかれていて、においを嗅ぎ合っている。
そんな異常な状況を3分ほど過ごしていると、寄りかかっている扉がトントンと叩かれた。
「羽切君?」
扉を隔てた向こう側から聞こえる鹿沼さんの声。
その声を聞いた瞬間、心臓が跳ね上がりそして何故か途轍もない罪悪感に襲われる。
「罪悪感のにおい」
真理さんが耳元で呟いた。
どうやら真理さんは俺のにおいから罪悪感を感じ取ったらしい。
本当にすごい能力だ。
「覚えておいて。浮気をするとこういう気持ちになるんだよ」
俺と鹿沼さんは付き合ってるわけじゃない。
だけど鹿沼さん以外のほぼ裸の女性と俺は裸で抱き合ってその感触を楽しんでた俺は、彼女の声を聞いて罪悪感を強く感じている。。
本当に不思議だ。
「君の今の気持ちが何なのか、言葉にしてあげようか?」
「……はい」
もはや能力者の真里さんに弁明をしてもらうしかない。
「もし鹿沼さんが君以外の男と裸で抱き合ってたら、君は本心では嫌だと思っている。にも関わらず君は半裸の私と秘かに抱き合っていて、それを鹿沼さんに知られると傷つけてしまうと恐れてる」
それは違うだろう。
俺はむしろ鹿沼さんには早く発作を乗り越えて、ちゃんとした高校生活を送ってほしいと思っている。
もし鹿沼さんがどっかの男と裸で抱き合っていたとしても……。
そこまで考えて自分の中で初めて嫌悪感を感じた。
前までは鹿沼さんが普通の生活に戻って幸せになってくれることは俺にとっても嬉しいし、喜ばしい事だと思ってたのに。
「何故なら、君は鹿沼さんが自分の事を好きだという事をわかっているから」
……は?
それもおかしい。
好きを知らない俺が他人が自分の事を好きかどうかの判断なんて出来るはずない。
それに鹿沼さんはまだ好きを理解してないと思う。
俺の想定では発作を治してから学校内やら合コンやらで男子と関わっていき、自然と好きを理解していくという手順だと思ってるし。
でも、だったらこの罪悪感は何なんだ?
「ワンちゃんは二匹とも美香が手名付けてるから……出てきても大丈夫だよ?」
声を聞くたびにいたたまられなくなる。
真里さんが俺から離れて、立ち上がったので俺も立ち上がる。
俺はよくわからないまま鍵を解錠してドアノブに手をかけると、真里さんが慌てた口調で「ちょっと服着ないと――」と言ってきたが無視して扉を開けた。
「えっ、何!?」
すぐそこには鹿沼さんが立っていて、俺の姿を見ると目を白黒させて驚いた。
俺はそんな鹿沼さんの腰に腕を回して抱き寄せる。
多分俺から鹿沼さんを抱き寄せたのは、初めてだ。
知らない内に真里さんに催眠術にでもかけられたんじゃないかと疑ってしまうくらいにおかしくなっていた。
その後、俺は真理さんの感触とにおいを忘れるまで鹿沼さんを離さなかった。