【65話】 夏休み㉕ (父親)
「お兄ちゃん!」
バスの振動で心地よい眠りの中で声が聞こえ目を開けると、窓の外に手を振っている絵麻が見えた。
どうやら最寄りのバス停に着いたらしい。
バスの中央扉から降りようと立ち上がり歩き出したが、俺が降りるのが遅かったせいかバスが動き出してしまった。
「お、お兄ちゃん!」
「ちょ、運転手さん! 降ります!」
俺がそう叫ぶと、再度バスは停車した。
バックミラー越しに見える運転手は怖い顔をしてこちらを見ていたので、軽く会釈して外に出た。
「びびったぁ」
「危なかったね。次のバス停まで1時間は停まらないから」
「マジかよ」
俺が乗っていたバスは停車地点が4つしかない。
バスの終着点は駅と学校。
その間に二つのバス停のみ。
駅はそこそこ栄えてはいるが、学校は山の上にある自然豊かな場所。
絵麻はその学校に通っていて、俺は危うく学校まで行きかけたというわけだ。
「こっちだよ」
俺は絵麻と父さんの家を知らないので、歩き出す絵麻に付いていく。
3車線の道路を5分程沿って歩いた後曲がると、芝生のみの大きな公園が出てきた。
その公園を横切って反対側へ出ると、1車線の細い道路の向こう側に4軒ほどの一軒家が目に入った。
絵麻はその内の一番左の家に向かった。
「ここが家」
「へー、結構良さ気じゃん」
「公園も目の前だし、気に入ってる」
絵麻は玄関の扉を開けたので中に入る。
鍵を閉めていなかったという事は、父さんは家にいるという事だ。
何年も会っていなかった父親に会うのは何だか緊張する。
靴を脱いで絵麻に連れられてリビングらしき場所へ行くと、誰もいなかった。
外観からは想像がつかない程、リビングは広い。
そして目の前に公園があるにもかかわらず、庭があるみたいだった。
「お父さん、お兄ちゃん来たよ」
絵麻は庭の窓を開けてそう言った。
いよいよ父さんと再会……か。
のらりくらりと父さんが家に入ってきた。
「成。久しぶり」
父さんは昔と変わっていなかった。
体の線は細いが、ふくらはぎと二の腕は太くて屈強。
ぱっと見は怖いお兄さんという感じだが、今年で46歳。
「父さん、背中にセミついてる」
「せっ、うわああああっ! セミ取って取って取ってェェェ!!!!」
そして怖い見た目と違って、実際は臆病者。
父さんはジタバタとリビングを走り回り、Tシャツを脱いでテレビに投げつけた。
「俺、セミ嫌い」
子供かこの人は……。
しかし真面目な顔でそんな事が言える父さんは相変わらずで安心した。
目の前には上半身裸の父さんとそれを見てゲラゲラ笑う絵麻。
昔はよくあった光景だが、俺は久々で懐かしい感覚に襲われた。
これが俺達の家族の姿だ。
ここに母さんがいれば完璧だったが、いない。
いつか家族全員が揃って、昔みたいな形に戻ればいいのに。
「ところで成はいつまでいれるんだ?」
「あんま長くはいないよ。明後日には帰るつもり」
「夏休みなのにたったの二日だけ?」
「まあ、俺も色々忙しいんだよ」
実際は別に忙しくない。
ただ来る前までは気まずい雰囲気になるんじゃないかと思って短めに設定しただけだ。
「忙しいって、宿題か?」
「宿題もそうだけど、イギリス行くために英語勉強したりとかな」
「へー、結構イギリス行きにノリノリなんだな」
「まあな」
ノリノリというか、英語が出来ないとあっちで生きていけないと思うからやってるんだけなのだが。
それに英語ができるようになれば、それは俺の人生に大きなメリットにもなると思う。
そういう意味ではノリノリかもしれないが。
「それだけじゃないよね」
絵麻はいつの間にか椅子に座ってポテトチップスを頬張っていた。
「鹿沼さんが心配だから早く帰りたいんじゃない?」
「なわけないだろ。もう1週間以上会ってないし」
「えっ1週間も!? 喧嘩でもしたの?」
「別に喧嘩はしてないけど」
「じゃあ何で?」
「まあ、色々あってな」
「その色々を聞いてるんだけど?」
絵麻は椅子から立ち上がって、俺の前まで歩き上目遣いで睨んできた。
「まさか、嫌がるような事したんじゃないでしょうね?」
「嫌がることってなんだよ」
「シャワー浴びてる所を覗き見たとか、夜寝てる時に悪戯したとか、無理矢理エッチな事しようとしたとか」
全部したな。
だけどその背景には色々事情があって、それを説明するのは面倒だ。
だから全部否定することにした。
「なわけないだろ。1週間会わないって別に普通の事だと思うけどな」
一週間会わないのは別に普通だ。
疑われるようなことではない。
「な、なあ、父さんにも成の近況詳しく教えてくれよ」
絵麻がまた何か言おうとした瞬間、父さんが割り込んできた。
「いいね、久々に家族団らんだね。夜は外食かな?」
「絵麻……たまにはバーベキューでもするか?」
「やったー! お兄ちゃん、バーベキューだって!」
「良かったな」
絵麻はバーベキューという言葉に多いに喜んでいる。
さっきまでの気迫はどこへ行ったのやら。
この家には二人しかいないのに定期的にバーベキューをしているような口ぶりで、なんだかんだ親子で良い関係を築けているみたいだ。
とにかく絵麻の追及を逃れられて良かった。
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バーベキューを終え、洗い物や片付けなどをしていたら時刻は20時を越えていた。
バーベキューでの話題の中心は主に俺の事だった。
中学3年間の事や母さんの事。鹿沼さんの事や前に絵麻がうちに来た時の事。
特に俺が軽音楽部でドラムをしていた事や、不良学校に転校してしまい、不良になって喧嘩ばっかしていた事。そして鹿沼さんについての話は大盛り上がりだった。
父さんは俺の中学時代について楽しそうに耳を傾けていたが、やはり今現在の事の方が気になる様子だった。
特に絵麻が鹿沼さんの写真を見せた時の食いつきは半端なく、5回くらい「彼女か!?」と聞いてきたり、10回くらい「どこまでしたんだ!?」と聞いて来たりした。
時間が経つにつれて父さんの飲むビールの空き缶も増えていき、顔も赤くなっていたが、酔っぱらいジジイの面倒臭さはなく、常に冷静だった。
昔からこの人はアルコールを飲んでも大して人間性が変わらない人だ。
それはアルコールに強いからなのか、冷静を装ってるだけなのかは今の俺にはわからない。
片付けも終え、絵麻は勉強のために2階の自室へ帰っていき、リビングには俺と父さんの二人きりになった。
特に会話もなく、ただテレビを見ている。
「……成」
「何?」
しかしバラエティー番組が終わると、父さんが話しかけてきた。
「色々、苦労かけたな」
「苦労?」
「本当は辛かっただろ、転校」
父さんは酔っぱらっている。
そうじゃなくても父さんは昔から子供想いだ。
少なくとも母さんよりは。
「まあね」
「本当は成と絵麻。どっちも俺が引き取ろうとしたんだ」
「へー」
「だけど、当時の俺の収入じゃ二人は育てられないって事になって……そこで絵麻を選んだんだ。すまなかった」
父さんはいわゆる専業主夫というやつだった。
とはいえパソコンで何かしていたらしく、その収入はかなりの物だったと聞いている。
小学生の時から母さんの転勤ばっかりで、当時は父さんも絵麻も一緒に日本のあらゆる場所へと転勤して回った。
離婚の理由は詳しくは知らないが、母さんの転勤が関係しているのは間違いない。
小学校高学年の頃、父さんと母さんの喧嘩は毎日のように勃発していた。
父さんの事だから、こんな転勤ばっかりして子供たちが可哀そうだとか言って喧嘩になったのだろう。
仕事が大事な母さんと子供の事が心配な父さん。
相まみえることが無い、価値観の違い。
そして転勤によるストレス。
「別にいいよ……いや、むしろ感謝してる」
「感謝?」
「転校ばっかしてるから、どんな環境でも楽しく過ごせる方法みたいなのが身に付いた気がするんだ。それに、鹿沼さんみたいな人とも出会えなかった」
「鹿沼さんとは高校で出会ったの?」
「いいや、中学。実は鹿沼さんも転勤族で、なんと中1からずっと同じ学校だったんだ」
「マジか」
実際は小学校の頃から同じだったかもしれない。
だとすると小学校の頃、絵麻とも出会っていることになる。
しかし記憶にないからわからない。
「それで、鹿沼さんとは良い関係を築けてるの?」
「多分」
「成は鹿沼さんの事、好きなのか?」
「父さん」
俺は男であり、親である父さんに聞くことにした。
「女を好きになるって、どんな感じなんだ?」
「成……お前」
父さんはお酒で真っ赤な顔で目を丸くしてこっちを見た。
「転校の弊害か?」
「まあね。だから教えてほしいんだ」
「そうか……うーん」
父さんは頭を抱えて悩んでいる様子。
どうやら“好き”を言語化するのは相当難しいらしい。
「正直言ってな、父さんにもよくわからない」
「なんじゃそりゃ」
「まあそうだな……ほら、好きな人といると辛い事があっても乗り越えていけるって感じがするかな。例えば会社で嫌なことがあっても家に帰れば好きな人がいるから頑張っていけるみたいな」
「一緒なら苦難を乗り越えれる的な?」
「まあ、そんな感じ」
随分と大人な話だな。
それに現実では苦難を乗り越えられていない。
父さんと母さんは苦難を乗り越えられず、離婚したのだから。
「俺は“好き”がどんな気持ちなのかを聞いてるのであって、好きな人といるとどうなるかなんて聞いてないんだけど」
「あのな成。普通は“好き”がどんな気持ちかなんて考えないで何となくわかるもんなんだよ」
「それがわかんないから聞いてるんだけど」
「そうだよなぁ……。じゃあ例えば、鹿沼さんについてはどう思ってる?」
「どうって……」
「やっぱり質問を変えるよ。鹿沼さんとどこまでした?」
「キスまでかな」
「……えっ、マジ?」
「マジ」
好きが何かわからないのに、女とキスしたなんて聞いたら当然驚く。
父さんは一瞬目を丸くしながらも、うんうんと首を縦に振った。
「ちなみに、どういう成り行きでキスしたんだ?」
「色々事故って顔が近づいたんだ。そんで見つめ合ってるうちに自然とって感じ」
「ちなみにベッドの上だったか?」
「ああ。ベッドの上だった」
「その先には進まなかったのか?」
「進まなかった」
「それは何故?」
「鹿沼さんの全部を見るのが怖くなった……いや、鹿沼さんについてこれ以上知るのが怖くなったのかもしれない」
「それは何故?」
「嫌いになりたくなかったから……かな」
「答えは出てるじゃないか」
父さんはニンマリと笑った。
その笑顔は不器用だが、バカにされた感じはしない。
「成は十分、鹿沼さんの事が好きだ」
俺が鹿沼さんの事を好き……?
他人にこうやって断言されたのが初めてで少し驚いている。
ずっと胸につっかえていて、どんなに自問自答しても取れなかったのが何だか少し軽くなった気がする。
鹿沼さんを嫌いになりたくなかったからあれ以上進まなかった。というのは逆説的に言えば、俺は鹿沼さんの事が好きだと言っているようなもの。
まさか本当に……?
いやいや、落ち着け俺。
さっきは“嫌いになりたくなかったから”と言ったが、実際は“大切じゃないと思いたくなかった”が正しい。
だがその違いってなんだ?
また始まった自問自答。
終わることのない思考。
「成が本当に好きという感情を知りたいのなら、鹿沼さんって子とたくさん関わっていきなさい。そして機会があれば、怖がらずに進めるところまで進んで行く。じゃないと本当の“好き”が何なのかはわからないままだと思う」
何だか初めて親っぽい事を言われた気がする。
「それと、今の鹿沼さんを好きでも、1年後2年後の鹿沼さんも好きなままだとは限らない」
「どういう意味?」
「女ってのは1年もあれば変わっちゃうんだよ。特に中高生の変化は半端なく早い。だから今の鹿沼さんが好きなら、今の鹿沼さんとの時間を堪能するべきだと思う」
やはり人生の先輩であり、男の先輩。
言う事がまるで自分の経験談のような感じですーっと頭に入ってくる。
父さんは酔いでもう眠そうだ。
ソファーで座っている父さんはもう頭がかくかくとしていて、いつそのまま寝てしまってもおかしくない。
「ああ、それとな成」
もはや寝言に近い形で名前を呼ばれた。
「父さん、再婚することになりそうなんだ」
……は?
「それってどういう――」
どういうことか聞こうとしたが、父さんはすでにいびきをかいて寝てしまっていた。
再婚。
多分、母さんとは別の女性とという事だと思う。
何だか不穏な感じがしたが、俺は考えるのを止めた。