【55話】 夏休み⑮ (海)
予告通り7月の新規投稿は不定期となっております。
戸塚さんの言う通り、鹿沼さんは初キスが痛かった事を気にしていたみたいだ。
そして予想外に鹿沼さんから上塗りの提案をされた。
それも俺がしたくなったらいきなりして良いという条件付きで。
正直言って、その提案に俺はそそられている。
いつでも好きな時に、好きな場所で、鹿沼さんの唇に自分の唇を重ねて良いという権利を持っていればどんな男でもそうなる。
しかしどうだろう。
自由に見えるこの権利もやっぱり制限がある。
例えば誰かに見られたら変な誤解を生むかもしれないし、鹿沼さんが女の子の日にしたら殴られるかもしれない。
つまり誰も見ていない場所で、鹿沼さんが気分的に大丈夫な日にしなければならないという事になる。
これは難易度が高い。
それと鹿沼さんの最近の行動が過激なのも気になる。
これが戸塚さんの影響なのか、鹿沼さん自身に何か目的があるのか……。
「羽切君~」
色々と考えながら歩いていると声をかけられた。
視線を上げると、俺たちのパラソルに戸塚さんと亀野。そしてその幼馴染の恵麻さんが座っていた。
「佐切さん達、どうしてここに?」
「せっかくだから羽切君グループと親睦を深めようと思って」
「なるほど」
俺はパラソルの中に入り、空いたビーチマットの上に座る。
「美香、蓮君の親御さんは見つかったの?」
「まだ見つかってないよ〜。蓮君が寝ちゃったから私だけ抜け出してきたの〜」
「それって大丈夫なの?」
鹿沼さんの疑問も当然だ。
迷子の子を見つけた場合、一人はあの場に残らないといけないというルールがある。
戸塚さんはそのルールを無視して抜け出してきたのだから。
「スタッフさんに許可得たから大丈夫だよ〜」
「それなら良かった」
そう言うと鹿沼さんもパラソルの中に入り、俺の隣に座った。
ビーチマットの上には女子3人と男子2人。
俺と女子3人はしっかりとビーチマットにお尻を乗せて座っているが、残る男子1人は胸を抑えて寝転んでいる。
「で、学級委員長は心臓発作でも起こしてるのか?」
「いいや、いっくんはキュン死してるの」
「キュン死……」
めちゃくちゃ久々に聞いた言葉、キュン死。
今の時代で使っている人はほとんどいないのではなかろうか。
「それで、何でキュン死してるんだ?」
「それはその……鹿沼さんの初めてを羽切君が奪ったって話を偶然聞いちゃったらしくて……」
「えっ!?」
それはまずい話を聞かれた。
噂にされる前に口止めをしないと後々大変なことになりかねない。
「あの、佐切さん。その話は広めないでほしいの」
流石の鹿沼さんも危機感を感じたのか、火消しに出る。
「そ、そうだよね。大切な羽切君が殴殺されちゃうかもしれないもんね」
殴殺て。怖いこと言うなこの人。
でもまあ、集団リンチに合うかもな。
「それにあれは事故だったの」
「求め合ってたら止まらなくなってそのまま……って事もあるよね! 事故みたいなもんだよね!」
別に求め合ってた訳じゃないし、止まらなくなるって何?
確かに家に1人なはずなのに誰かの気配を感じて飛び上がったあの勢いは止まらなかったけど、佐切さんが言わんとしていることと相違がある気がする。
「そ、そ、そ、それで鹿沼さん」
「は、はい?」
「初めてはどんな感じでしたか!?」
佐切さんは何故か敬語に変わっていた。
興味津々に、しかし口元は恥ずかしさを隠しきれておらず、ゆるゆるとしている。
興味津々の眼差しに見舞われている鹿沼さんは、体をソワソワさせながら視線を明後日の方向に移動させた。
「痛かったです……」
「やっぱり痛いんだ……」
やっぱりって何?
キスは普通痛くないと思うんだけど。
「血とか出ました?」
「ちょっとだけ……」
佐切さんは両手で口元を隠して、視線を俺の方に向けた。
「羽切君は鹿沼さんの初めてを独り占めにしたんだ……」
佐切さんの瞳は潤っていて、キラキラしている。
彼女の感情がいまいち読みとれず、彼女の幼馴染である亀野に視線を動かす。
亀野は目を瞑って死んだふりをしていたが、今は白目を剥いて本当に死んでいるかのように横たわっている。
その背後には脚をクロスして体育座りをしている戸塚さんがニヤニヤしながら見ていた。
「でも良かったよ。鹿沼さん男っ気なさすぎて男嫌いなんじゃないかって噂されてたし」
「えっ」
鹿沼さんはチラリと俺のことを見た。
どうやら自分に何らかの噂が出ていることに不安を感じているようだ。
あの日のように変な噂が飛ぶことでまた怖い思いをするんじゃないかと思っているのかもしれない。
でも大丈夫だ。
変な噂が流れたからといって、あの日のように家に不良男子が訪れてくるなんてことはない。
あの地域は治安が悪すぎたからそうなっただけで、普通の治安の地域では噂は噂で終わる。
それに人気者には噂がつきものだ。
変な噂がたっても、自分がそういう人物じゃないとわかってくれる友達がいれば別に何も気にならない。
そういう意味では他クラスの佐切さんとこうやって親睦を深めるのもこれからの鹿沼さんにとっては良かったかもしれない。
「ねえ〜、私お腹すいたから食べ物買ってくるね〜」
そういえば俺と鹿沼さんは迷子センターを出てすぐに食べたが、戸塚さんは迷子センターにつきっきりで昼食を食べていない。
戸塚さんの昼食くらい持って行ってあげるべきだった。
「ごめん、美香。ご飯買って行けば良かったね」
「いいのいいの〜」
鹿沼さんも配慮に欠けていた事に後ろめたさを感じているらしい。
それはそうだ。完全に俺達が悪いのだから。
「一人じゃ不安だし、亀野君連れてくね〜」
「えっ、俺?」
驚いた亀野は生き返り、体を起こした。
「恵麻いいでしょ〜?」
「どうぞー」
「恵麻の許可もとったし、行くよ〜」
「僕の許可は!?」
戸塚さんは亀野の腕を無理やり組んで、立ち上がらせる。
そして密着しながらパラソルから離れて行った。
残されたのは俺と鹿沼さん、そして佐切さん。
戸塚さんが一人で不安なはずがないと思うので、舞台に俺たち3人を残す何らかの意図があるのだろう。
それが何なのかよくわからないけど、ちょっと恐怖だ。
「それでね、羽切君に相談があるの」
「相談……? 何で俺に?」
俺と佐切さんがお互いを認識したのは今日だ。
今日知り合った人に相談するってどういう事?
「だってたった一ヶ月で男子の憧れの鹿沼さんを落とした上に、処女を貰っちゃうなんて相当凄い人だと思うし……」
「ええっ!? 私のしょ……ッ!?」
当然のように鹿沼さんは驚いた。
そして俺も内心頭を抱えた。
さっきまでの会話で「やっぱり痛いんだ」とか「血は出たか」という言葉の意味がわからなかったのだが、そういう意味だったのか。
どうしてこうも誤解が多いのかわからないが、鹿沼さんとそういう事はしていないと言おうにも佐切さんがいやに真剣な眼差しでこちらを見ているので中々言い出せない。
チラリと鹿沼さんを見ると、足をクロスした体育座りで膝の山をグッと体に引き寄せて小さくなっていた。
どうやら変な誤解をされているのに気づき、自然に防御態勢に変化したみたいだ。
そして戸塚さんが亀野を連れて離れたのもなんらかの打ち合わせがあったのかもしれない。
それが何だか不穏だ。
「ちなみに、相談内容は?」
「それはその……」
佐切さんは俯いた。
俺は促す事なく、佐切さんが自発的に話し始めるのを待つ。
1分ほど沈黙が流れた後、佐切さんは顔を上げた。
その顔は変わらず真剣。だけど、緊張しているのか恥ずかしいのか顔が少し赤い。
「好きな男子がいるんだけど……どうしたら付き合えるのかって相談なんだけど……」
最悪だ。
恋愛はおろか、誰かを好きになった事も、好きがどういうものなのかもわからない俺が恋愛相談を受けている。
下手なことを言って失敗させたら、彼女を大いに傷つけてしまうし、逆恨みされるかもしれない。
そしてその火の粉は鹿沼さんにも飛び散る可能性だってある。
また鹿沼さんを誰かの怨念で苦しい思いをさせるわけにはいかない。
ここは全力で切り抜けるべきだ。
「ちなみに……誰?」
相手を聞いていいか分からなかったけど、聞かないと対策もアドバイスもできない。
俺が相手を聞くと、佐切さんはビーチマット上で正座になり、前傾姿勢で俺に近づいてきた。
そして小声で言った。
「いっくん」
俺の脳みそにガーンと稲妻が走る。
まさかの幼馴染。
小さい時から一緒にいる男女が男と女の関係になるというのは誰が聞いても羨ましいだろう。
しかし困ったことに、どうやったら幼馴染の男子と恋愛関係になれるかと俺に相談してきた。
彼女いない歴=年齢の俺にだ。
「そういうのって、男子の俺より恋愛経験豊富な女子に聞いたほうがいいんじゃないか?」
「私の周り恋愛経験浅い子が多いし、結構積極的な子ばかりだから、告白しちゃえば? くらいのアドバイスしかくれないんだよね」
「やっぱり告白するのは怖いのか?」
「怖いよ。いっくんが私を好きとは思えないし、失敗したらもう今までみたいな関係には戻れなさそうな気がして……」
「なるほどね」
今までなんとなく一緒にいてくれた幼馴染。
告白して失敗すればその関係が崩れるかもしれないというのは理解できる。
今までは幼馴染だからという一点で一緒にいられたのに、告白してそれを拒否られたら幼馴染という特権が無くなって一緒にもいてくれなくなるかもしれない。
そうなれば告白したことを心から後悔することにもなる。
まさにオールorナッシング。
恋人になるか全て失うか。
「このままの関係じゃ不満なの?」
「私ももう高校生。正直もう一段階段を上がりたい」
「階段?」
「大人のね」
「ああ、そういう意味ね」
佐切さんの意志は強いみたいだ。
幼馴染から恋人へグレードアップ。
「そのためには、亀野に今好きな人がいるのか。いるとしたら誰なのかを知る必要があるな」
結局、佐切さんが告白しない以上、亀野の情報を集めない事には何も始まらない。
集めた情報でどのくらい佐切さんにチャンスがあるのかを見極める。
集めた情報で亀野が佐切さんと両想いと判断できたら告白。別の女子であれば、やめるよう進言する。
失敗して火の粉が飛んでこないことが最優先。
しかしどうだろう。
例えば亀野が今後その女子に告白して付き合いだしたら、それこそ佐切さんは一緒にいられなくなる。
毎日の登下校や今こうやって一緒に海に来ることも出来なくなるだろう。
「いっくんが好きな人なら多分わかるよ」
「え?」
亀野の情報を集めなければならないと思っていたのだが、その必要はないかもしれない。
幼馴染でいつも一緒にいる佐切さんが、亀野が好きな人を知っているというのだから信憑性は高そうだ。
「それはちなみに……」
この場にいない人の好きな人事情を聞いてはいけない気がするが、興味がそれを上回った。
「いっくんが好きなのは、鹿沼さんだと思う」
「……ッ!?」
鹿沼さんは瞳を大きく開けて硬直した。
その表情を見て脳裏に蘇る、いじめの場面。
薄暗い教室にボロボロの制服を身に纏った鹿沼さんと不良少女二人。
俺はその様子を教室の扉の小窓から見ていた。
不良女子の彼氏が鹿沼さんを好きになり、その関係に亀裂が入ったという会話。
そして亀裂ができた原因である鹿沼さんに対する下着禁止という罰。
そこで初めて抵抗する鹿沼さん。
イジメはエスカレートし、危うく無理やり裸を撮影されて、学校中の男に送信されそうになった。
今なお鹿沼さんを苦しめているあのイジメがエスカレートした発端の一つは、やはり不良少女の彼氏が鹿沼さんを好きになった事でその関係に亀裂が入った恨みだろう。
たったそれだけの事であんな事になるとは、俺も思っていなかった。
それだけ男女の恋愛感情には結び付きが強く、それを刺激するのがどれほど危険な事なのかを思い知らされる瞬間でもあった。
もちろん今目の前にいる女子は不良女子ではないし、幼馴染の関係に亀裂が入ったわけじゃない。
目の前にいる佐切さんがああいう事をする人物とはとても思えないし、亀野が鹿沼さんを好きだというのも憶測でしかない。
しかし今日知った鹿沼さんの何らかの噂が流れているという情報や亀野が鹿沼さんを好きかもしれないという情報は鹿沼さんにとって不安材料になっているとは思っていた。
そして海で露出の多い水着姿。
俺はいつ本格的な発作が起きてもおかしくないと思っていた。
「ごめんなさい」
鹿沼さんの表情は暗い。
大きく開かれた瞳から急速に色が失われていき、無になったところで瞼が強く閉じられた。
ガクガク震える全身。激しくなる呼吸。
そして頭を抱えて震えた声で言う。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
まるでゼンマイを巻き過ぎて壊れた人形のように、繰り返し繰り返し鹿沼さんは謝り続けた。
今日一日で蓄えていた不安要素が一気に噴出したように鹿沼さんはひどく乱れた。
お久しぶりです。
本格的な夏日和で死にそうです。
熱中症にならないよう生きていきましょう。